宝物 その6   (2011年8月)

古井戸秀夫
会津若松の芝居
古井戸 秀夫
( 次世代人文学開発センター萌芽部門 ;
【文化資源学研究専攻】形態資料学専門分野) ;
紹介する書物
図版①-A 『役者物真似評判記』上の表紙 役者物真似評判記表紙
図版①-B 『野﨟妄誌(埜老妄誌)』の見返し 野﨟妄誌見返し

『役者物真似評判記』は、江戸時代の会津若松の興行記録です。その概要は、すでに恩師である郡司正勝先生(1913-1998)の手により翻刻紹介されています(芸能史研究会編・日本庶民文化史料集成6『歌舞伎』、1973、三一書房)。それによると、もともとの書名は『会津若松大角力芝居其他興行見聞書留』のようでした。会津若松の旧家、坂内(ばんない)家で作成し、代々伝えられてきたもののようです。内容は、会津若松における「狂言・物真似・芝居」(歌舞伎のこと)、「人形座」(人形浄るり)、軽業・小見世物、相撲・大角力など、興行の記録を年代順に並べたものです。坂内家は、若松惣町の刑事事件を扱う「検断(けんだん)」を勤めるとともに、興行の取締にも係わってきた家柄でした。そのために、このような記録集が編纂されたのでしょう。

戦前に会津書房より出された古書目録によると、原本は帙入りの横本一冊・九十四葉の写本で、そこには寛文九年(1669)から寛政九年(1797)までの興行記録が記されていました。寛政九年には、「会津御免」を許されていた坂東七左衛門座が新築落成し、江戸から三代目瀬川菊之丞が出演しました。そのときに、落成記念として配られた「木盃」をはじめとして、木戸札、番付1枚なども、古書目録には掲げられていました。たぶん、芝居小屋の新築に際して、坂内家では過去の興行の記録をまとめる必要が生じたのだと思います。

現在、原本の所在は不明になっています。郡司先生が紹介されたものは、会津書房の主人古川直尉氏により、原稿用紙にペン書きで浄書されたものでした。残念なのは、寛政7年10月の途中までで、それ以降の記録が欠落していることです。『役者物真似評判記』は、それを補うことができる完本です。

東京大学文学部国文学研究室所蔵の『役者物真似評判記』は、上下2冊の写本です。題簽には、「評判記」という題の上に「役者/物真似」という角書が付けられています。「物真似」というのは、地方都市における歌舞伎興行のことを指し示す言葉でした。それゆえに、このような書名が付けられたのでしょう。写本は、各10行本です。紙数は、上72丁、下69丁、あわせて141丁です。そのうち、下の後半部分、49丁分がこれまでに紹介されなかったものになります。そのなかから、市川鰕蔵こと五代目團十郎、三代目瀬川菊之丞、江戸の大芝居を代表する二人の名優の記録を紹介することにしましょう。

図②-A 『役者物真似評判記』の「市川鰕蔵初目見」の記録 市川鰕蔵初目見

市川鰕蔵の来会は、寛政8年(1796)8月のことでした。記録には「江戸役者無比類」の市川鰕蔵は、目明し菅治宅に滞在し、毎日、駕籠に乗って芝居に通ったと書かれています。特別な待遇でした。

御目見え狂言は、『初商大見世曽我』でした(図②-A)。鰕蔵の役は、『牢破り』の景清、『毛抜』の粂の弾正、この二役でした。配役を見ると、『毛抜』の敵役八剱玄蕃には大谷龍左衛門、景清の女房阿古屋・腰元巻絹の二役には山下金吾が扮しています。この二人は、五年後に江戸で出版された洒落本『野﨟妄誌』で、田舎芝居を代表する指折りの大立者として紹介されています。龍左衛門は、江戸の敵役の人気役者であった大谷龍左衛門の実子で、「片目(がんち)龍左衛門」の渾名で親しまれた人でした。山下金作は、江戸の女形山下金作の弟子筋で、「奥羽随一の若女形」と紹介されています。

図②-B 『野﨟妄誌』の挿絵 中央=松本松蔵(御国團十)
右=山下金吾、左=片目(がんち)龍左衛門 野﨟妄誌挿絵

『野﨟妄誌』では、もうひとり、「陸奥(みちのく)五十四郡」にその名を轟かした「御国團十」こと松本松蔵も載せられています(図②-B)。この三人の看板が上がると、「近郷近在六七里四方」の評判になったと書かれています。さすがに、「御国團十」は本物の團十郎と共演をすることは出来なかったようです。

三代目瀬川菊之丞が来会するのは、その翌年、寛政9年のことでした。鰕蔵のときと違うのは、田舎役者の入らない、江戸役者だけの「江戸瀬川座大芝居」だったことです。そのためでしょう、新しい芝居小屋が建築されています。菊之丞の出演が決まったのは、3月の下旬でした。そのあとすぐに、名子屋町というところに土地を求め、材木を集めて普請に掛かり、高さ四尺の櫓を万力で上げたのが6月4日でした。このとき、「大工五拾人、人足六拾人、見物大勢也」と記されています。6月10日に棟上げ、同15日に屋根の藁葺きが出来ました。舞台は、「八間梁に八尺、両下屋行間十八間に九尺下屋付、高さ六間半」と豪華なもので、江戸の三芝居座と見比べても「見増候宜普請」だと書かれています。


図③-A 『役者物真似評判記』「芝居家之図」 芝居家之図
図③-B 『役者物真似評判記』「二階之図」 二階之図

『役者物真似評判記』には、新築落成した芝居小屋の平面図も収められています(図③-AB)。舞台間口は、江戸の大芝居より広い、八間でした。そのために、ちょっとした騒動が起こっています。菊之丞が持参した幕は、紺・柿・白、三色を配した本式の幕でした。しかし、幅が六間しかなかったので、急遽、紺・白の布を継いで八間にしました。『役者物真似評判記』の筆者は、「会津を見下し、六間の幕持参致、俄仕継いそがしく、去とは江戸役者、大不出来、大不出来」と書いて、留飲を下げています。

御目見え狂言は、『花系図娘道成寺』でした。菊之丞の『娘道成寺』に『鳥羽恋塚』の「袈裟・盛遠」を取組んだものです。袈裟御前に松本米三郎、遠藤武者に市川高麗蔵(のちの5代目松本幸四郎)、渡辺亘に坂東箕助(のちの3代目三津五郎)という豪華な配役でした。それゆえに、「隣国遠村」より見物が集まり宿泊に困ったとも、大入りで「はめ」を外したとも書かれています。千秋楽は、7月20日でした。江戸に帰る菊之丞は、「五百両余持参金之よし珍敷、珍敷」と記されています。

菊之丞に関する記録は、全部で18丁にも及びました。その最後には、次のような見解が示されています。

菊之丞はこの上もなき女形、そのほか高麗蔵、米三郎、花(げい)を争う、何れも名取の役者にて、する事なす事おもしろく、老若男女夥敷、隣国迄も聞伝、日々見物群集なす、前代未聞の大中り。

たんなる、興行の記録ではなかったので、『評判記』と名付けられたのかもしれません。

次回の登場人物
 次回は、国文学研究室の多田一臣先生です。昨年、『万葉集全解』(筑摩書房)全7巻を完結されました。どのような宝物を紹介して下さるのか、楽しみです。
c東京大学文学部・大学院人文社会系研究科