ひらけ!ゴマ!!

宝物 その4   (2011年3月)

エデンの園への道
1380年のパリ



月村 辰雄

   ( 【言語文化学科】フランス語フランス文学専修課程 ;
 【欧米系文化研究専攻】フランス語フランス文学専門分野 ;
 【文化資源学研究専攻】文書学専門分野 )

《エデンの園への道》

紹介する書物



《写真①》
写真①  私がフランス文学専修課程に進学したのは昭和47年6月。今は教室に模様替えされてしまったが、研究室は法文1号館の3階にあった。もっとも奥の細長い部屋が辞書室で、薄暗い灯りのもと、フランス革命以前に刊行されたフォリオ版の辞書が、背表紙の金箔の装丁もあでやかに並んでいる有様は、進学したばかりの学生にとってまことに壮観であった。

 これは後になって知ったが、歴としたフランスの大学でもこうした古辞書は書庫の奥にしまわれている場合があり、一語の意味を検索するのでさえ、いちいち閲覧を願い出て長い時間を待たねばならない。それが辞書室では、進学したての学生でも自由に手にとって見られるのであるから、私は有頂天になって次々と引っ張り出したものであった。ところでそうして辞書室を探索していると、フォリオ版の辞書よりも一回りも二回りも大きく、とうてい書棚の高さに収まりきらないからなのだろう、書棚の尽きた一番の奥で、壁に立てかけられている一冊の大型本が目にとまった。それが写真の①である。

 書名はそっけなく『パリ地図集』(Plans de Paris)。中を開けると6点の復刻絵地図を綴じ合わせたものであった。一番古い絵地図は、19世紀の末にバーゼル図書館の未整理書類の山の中から偶然見つかったアンリ2世治下(1547~59)のパリ図(写真②)で、パリの町並みと、ところどころ通りを歩く人影を、木版らしい素朴な描線がいかにもぎこちなく描いている。これが最後の6番目の、18世紀半ばのいわゆる「テュルゴーの地図」(Plan de Turgot)になると精密この上ない銅版画となり、それぞれの建物の階数と窓の数まで識別できる。

《写真②》
写真②  このテュルゴーは、フランス革命前の財務総監として有名なテュルゴーではなく、その父親のほうであって、世紀前半に今でいうパリ市長の職を務めた。右岸の下水道を整備したり、町の美観のために中世そのままの薄汚いカルティエを取り壊させたり、自分が辣腕をふるってすっかり美しく仕上げたパリの町並みを自慢したかったのであろう、400分の1の正確な地図の上に、西北の方向から見下ろした鳥瞰図の形式で一つ一つの建物を描き出すように命じた。

 私はすっかりこの地図に魅せられて、辞書室に日参しては1730年代の街角から街角へと、パリの町に想いを馳せたものであったが、この地図は今ではインターネットであっけないほど簡単に見ることができる。いや、あるウェブサイトでは、革命前の26種類の絵地図を揃え、原寸大に近い大きさまで拡大して眺めることができる(―― Plans anciens de Paris で検索すること)。それぞれの絵地図が正確に現実を写し取っているとしての話だが、それらを順にたどると、10年20年置きのパリの町並みの変化を確かめることができるのであって、パリの町を舞台としたアンシャン・レジーム期の小説を、それもきわめて精密に読む必要が生じた時に、たいへん重宝している。


 16世紀以前の絵地図は現存しないとされるが、もしあればどんなに便利だろう。というのも私の専門は中世文学で、フロワサールの年代記でパリの動乱の場面を読んだり、あるいはふんだんに通りの名前が出てくるフランソワ・ヴィヨンの遺言詩を読む時、作品世界に今ひとつ現実感がともなわないのである。おそらくフランス人も同じ隔靴掻痒の思いを抱いたものと見える。それなら自分たちで作ってしまえとばかりに、19世紀の後半に仮想の、とても詳細な鳥瞰図形式の絵地図が作られていた。それが写真の③である。

《写真③》
写真③  書名は『復元地図、1380年のパリ』(Plan de restitution / Paris en 1380)。1970年代の後半に留学していた時、私は博士論文を仕上げるかわりに古書店めぐりに精を出した。たしかオデオン座の近くであったが、パリ史関係の古書をあつかう書店の奥の書棚がまるまる一つ、少し色あせた緑色の大型本でいっぱいになっていた。それは『パリ総史』シリーズ(Histoire generale de Paris)といって、ナポレオン3世の片腕といわれたセーヌ県知事オスマン(Haussemann)の肝いりで刊行された、総計で200冊ほどにもなるのか、パリ史の資料集である。

 ナポレオン3世は見栄っ張りな皇帝で、パリの町の美観がロンドンに劣るといわれるのが癪の種であった。その意を受けたオスマンは、みすぼらしい家の並ぶカルティエを打ち壊しては、そこに広々とした道路を通し、両側には5階建てにマンサルド屋根が乗った優美な建物を次々と揃えた。オペラ座通り周辺、そこからレピュブリック広場に至るグラン・ブールヴァール、さらにはサン=ラザール駅(――ドーバー海峡を渡ってル・アーヴルの港に着いたイギリス人観光客は、鉄道によってこの駅に降り立つ――)前の一画などが、オスマンの手になる代表的なところであるが、この改造のためには民家ばかりでなく、歴史的建造物もずいぶん壊されたのである。

 ただしオスマンの偉いところは、この『パリ総史』シリーズによって、自分が破壊する対象のできるかぎり正確な記録を残しておこうと心がけた点にあった。建造物の歴史的調査記録、およびその図録。また所蔵文書があればその翻刻。さらに、そうして進む調査結果をもとにした古きパリの地誌シリーズ。最後に付録ともいうべきこの『復元地図、1380年のパリ』。私はすぐさまこれに飛びつき、下宿に戻って夜通し読みふけった興奮を今でも覚えている。

《写真④》
写真④  メインの復元地図は70×55センチ。小麦畑が広がる中央の30センチ四方に、いわゆるシャルル5世の城壁に囲まれた当時のパリの町が、西から東を眺める方向で描かれている。それが写真④で、中央のシテ島上部(すなわち東部)のノートル=ダム大聖堂は現存のものと同じ。下部は王宮で、中央の典雅な教会はこれも現存するサント=シャペル。セーヌ川の右側(実はセーヌ左岸)は、中央に一本、現在と同じ道筋をサン=ジャック通りが走り、その城門のあたりが今のパンテオンであるといえば、当時の町の大きさが知れよう。左手(実はセーヌ右岸)は中央に2本、サン=マルタン通りとサン=ドニ通りがこれも現在と同じ道筋を走り、城壁にぶつかるところには現存するサン=マルタン門とサン=ドニ門が立っている。つまり、現在のグラン・ブールヴァールはシャルル5世の城壁の跡地を通っていると考えて間違いはない。

 なぜあえて1380年のパリを復元するのかといえば、それはこの頃の徴税簿が、比較的良好な状態で残されているからであろう。この帳簿は、一つ一つの通りごとに建物を挙げてゆく。通りの最初の家の看板は、鍛冶屋のハンマー。1階の住民名、職業、徴税額。2階も同じく、住民名、職業、徴税額という具合である。この帳簿をもとにすると、ある通りのある側には何軒の家が並び、それぞれが何階建てであるかがわかる。こうした記録をもとにして家々を描いていくのだから、町並みの絵柄はけっして出鱈目なものではない。

 たとえばフランソワ・ヴィヨン学士は1456年のクリスマスの夜、左岸のサン=ジャック通りに面するサン=マテュラン教会近くの酒場で仲間と食事を摂り、その足で左岸の市街地の東南のはずれにあるナヴァール学寮に強盗に入ったらしいのだが、その道筋の光景というものがかなり正確に再現される。さらにはナヴァール学寮にはどこから忍び込んだのかまで、想像をたくましくさせるディテールが描かれている。

《写真⑤<<<クリックすると拡大写真が開きます》
写真⑤  この地図がどれほど細かい銅版画によって刷られているか、写真⑤を見ていただこう。シテ島の東側半分であるが、原図ではこれだけの図柄がほぼ6センチ四方の中に詰め込まれているのである。写真製版が実用化するまで、書物の挿絵は銅板画の独壇場で、人間の肖像でも、旅行ガイドブックに欠かせない風景でも、それからまたこうした地図でも、すべては銅板に細かな描線を切り刻む銅板画師の腕前に頼っていた。良質の銅板画は、陰影にせよ、立体感にせよ、ほとんど写真製版と同じ効果をもたらすことができた。現代の紙幣の彫版技師の技量を確実に上まわっていたものと思われる。目をよく凝らしていただきたい。セーヌの河岸に棒杭のように立っているのは、実は人影であって、ちゃんと二本足で立っているではないか。

 写真⑤に見えるABCという記号は建物、123という数字は通りに付けられた符号で、これが地図に附属する書物(写真③)の中で一つ一つ解説を付けられているのもまた、読みごたえがある。なによりも、『パリ総史』シリーズの刊行によって得られた知識が盛り込まれている点がすばらしい。中世文学研究でも、中世史研究でも、陰ながら役に立つ得難い1冊である。











書き手からのコメント

 ここ数年は13世紀の世界図に凝っています。冒頭に掲げた写真は、その中でも代表的な「ヘレフォードの地図」(Map of Hereford)。円形で描かれた世界(上方が上で、下方の黒い部分が地中海)の東の端に、円形に縁取られたエデンの園が描かれています。はたして当時の人々が、どこまでその実在を信じていたのか?

次回の登場人物
大西 克也   ( 【言語文化学科】中国語中国文学専修課程 ; 【アジア文化研究専攻】中国語中国文学専門分野  ; 【文化資源学研究専攻】文書学専門分野 )
 大西先生は、古代中国語の言語学的研究の上に立って、甲骨文や金石文の漢字の字形を詳しく分析する漢字の専門家。呪術的な語源論が幅をきかせていますが、冷静で厳密なお話がうかがえることと思います。

c東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

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