イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>


Session 5: Social Protests and Nation-Building in Muslim Societies

貫井万里(慶應義塾大学大学院文学研究科)


 「ムスリム社会における社会的抗議と国民国家建設」と題された第5セッションでは、19世紀末から開始した帝国主義国の侵略に抵抗するために発生し、やがて国民国家の建設の原動力となった、ムスリム社会における社会運動を帝国主義時代(19世紀末から20世紀初頭)とグローバリゼーション時代(冷戦終了後から現在)に分け、その連続性と非連続性について議論するのが目的であった。まず、各発表の要点とコメントを順にまとめ、次にセッション全体の特徴と筆者の所感を述べることとしたい。

<帝国主義時代>
 Dudoigon氏(「ミクロヒストリアからグローバル・ヒストリーへ:植民地時代から初期
ソビエト時代ブハラにおけるBukhariとKulabiの派閥抗争」)は19世紀末から20世紀初頭のブハラを代表する知識人Mirza Muhammad Sharif Sadr-i Ziyaの著作Ruz-Namaの分析によって帝政ロシアの植民地時代(1868―1917年)と動乱期(1917−1920年)の中央アジアの社会変化を、ブハラの二大勢力BukhariとKulabiの闘争を軸に描き出した。中央アジアの民衆運動は帝政ロシアの進出という外的要因に加え、パトロン=クライアント関係で結ばれた社会グループの権益抗争という内的要因によって特徴付けられていた。すなわち、地元の人々にとって改革主義(ジャディディズム)や保守的イスラーム、共産主義のイデオロギーよりもローカルな利害関係が重要であった。
 今回の発表では簡単に触れられただけにとどまった経済権益抗争(ワクフ収入)の具体的な内容が今後、考察されることを期待したい。また、両派の闘争とバスマチ運動やイスラーム復興との関連の説明が不十分であったように思われた。

 帯谷氏(「革命期中央アジア社会の鏡像としてのバスマチ運動」)は、1917年のロシア革命の結果、中央アジア各地で同時多発的に発生した反ソ連運動―バスマチ運動を取り上げ、当時の中央アジア社会の多様性を考察した。バスマチ運動は、ソ連時代には「反革命ブルジョワ民族主義運動」と否定的に定義されたが、近年、「民族解放運動」として再評価されている。こうした評価にも係わらず、フェルガナ、ブハラ、東ブハラ、ホラズムで生じたバスマチ運動の実態は、相互の関係性は薄く、統一目標やアイデンティティは存在しなかった。早くから中央アジアの知識人は「トゥルキスタニズム」「汎トルコ主義」「汎イスラーム主義」等、国民国家の樹立とアイデンティティの創造を試みる思想を展開させていたが、その思想を実現する能力に欠き、バスマチ運動と効果的に結びつくことはなかった。そして1991年のソ連崩壊後もソ連政府によって人為的に画定された国民国家体制が引き継がれ、「トルキスタン国家構想」は再び挫折した。
 バスマチ運動の地域性が、リーダーとそれを支持する人々の利害関係を軸に非常にわかりやすくまとめられていた。当時、社会運動に実際に参加していた人々は夢想的な知識人や現代の人間が考える以上に現実的であったということを認識させられた。

 栗田氏(「スーダンにおける国民国家創造のダイナミズム」)は、19世紀末からのマフディ運動、1924年革命、1940年代から56年までのスーダン独立における共産党の役割の連続性と非連続性を明らかにしつつ、歴史的課題である地域主義・部族主義を克服し、平等な国民国家の形成と民族アイデンティティの確立に取り組むスーダンの現状を描き出した。19世紀末のマフディ運動は一見するとイスラームを掲げる宗教運動だが、その根底に当時スーダンを支配していたムハンマド・アリー朝の重税への民衆の不満が存在した。マフディ運動の「抵抗の伝統」は1924年の反帝国主義闘争、共産党の活動へ引き継がれ、「新しいスーダンの民族アイデンティティ」の重要な構成要素となっている。
 栗田氏の発表において特に興味深かった点は、ユーゴスラビア紛争以後、欧米における「ナショナリズム」への懐疑的論調にもかかわらず、スーダンでは国民国家と民族のアイデンティティの形成は今なお、重要な課題であり、それは「想像の共同体」や「創られた伝統」ではなく、民衆の不断の闘争の結果、民衆の自由な意志と決定に基づき、将来獲得されるはずの「果実」として栗田氏が肯定的に評価している点である。「イスラーム」「共産主義」「ナショナリズム」といったラベリングの危険性と社会運動の根底にある民衆の不満、特に経済的不平等の実態の分析が必要であることを改めて認識させられた。他方で「抵抗の伝統」は非常に有意義な示唆であるが、ファシズムやデスポティズムに代表される民衆の否定的側面(民衆自身がカリスマや独裁者を生み出す傾向)にも注意する必要があるように思われる。

 吉村氏(「1926−41年のイランにおける社会運動とレザー・シャーの独裁制の変化」)は、社会運動と関連したパフラヴィ朝レザー・シャーの独裁政権の質的変化を三期に分けて詳細に考察した。第1期(1926−28年)において政権基盤が不安定であったシャーは、キャピュチュレーション廃止を目的に近代化政策(法制改革、教育改革、徴兵制)を進め、それに伴って生じた抗議行動には融和的に対処した。こうしてレザー・シャーはイラン国民国家の形成を阻害して来た第1要因であった外国勢力の干渉を法的に除去することに成功した。第2期(1928−34年)においてレザー・シャーは新生国民軍で部族の反乱を鎮圧する一方で、第1期において政権を支え、実力を蓄えた政府高官を裁判によってパージすることで、中央集権化を進めた。第3期(1934−41年)において最後に残った強力な伝統的社会グループ、宗教勢力の力を削減することによってレザー・シャーは最終的な独裁権力を固めた。1926−41年に発生した蜂起は、シャーの近代化政策と国家権力の増大への抵抗と反発の側面はあったものの、立憲革命において掲げられた「民族主義革命運動」のような多様な社会グループを惹き付ける政治目標に欠いていたためにいずれの運動も失敗し、レザー・シャーの独裁政権を強化する結果に終わった。
 1925年の共和制反対運動と対バーザール政策について触れられていなかったのが疑問である。最後に付されたハーエリー・ヤズディ師の静観主義によってレザー・シャー政権下で学問的・構造的実力を蓄積した宗教界がやがてそのエネルギーをイラン・イスラム革命において結実させたとする見方は非常に興味深い。

 青山氏(「アラブ・ナショナリズムにおける理念と現実の矛盾:アラブ・バアス(復興)運動におけるWahib al-Ghanimの貢献」)は、アラブ・ナショナリズムの理念と現実のズレ、すなわち、民族の統合は自明のこととして、自由、正義、民主主義の確立を目指していたアラブ・ナショナリズムが政権獲得後に、権威主義の陥弄に陥っていった原因をアラブ・バアス党の著名なリーダーWahib al-Ghanimの思想から探求した。氏によれば、アラブ・バアス党草創期の理論的指導者Zaki al-Arsuziの思想には「カリスマと英雄主義」を鼓舞する独裁制を志向する性質を内包していた。Wahib al-Ghanimは党のイデオロギーから独裁的性質を排除し、かわりに非搾取者の政治参加によって自由と民主主義を樹立するという社会主義的要素を加えることを試みた。青山氏は、1963年3月のクーデターでシリアにバアス党一党独裁体制が確立し、Wahib al-Ghanimの理念は現実政治に裏切られる形となったが、アラブ・バアス運動において「理論」と「現実」の仲介者として果たした彼の役割を評価している。
 エジプトとの統合の結果、結局、シリアのアラブ・ナショナリストがシリア地域主義に回帰していった理由とバース党の支持基盤や民衆の政治参加の実態についてふれられていると、今回のテーマに関連して理解が深まったように思う。

<グローバリゼーション時代>
 Al-Khafaji(「革命のルーツ:中東における変化への社会的ダイナミズムの比較分析」)氏は、20世紀に革命によってダイナミックな社会変化を遂げたイラン、エジプト、イラク、シリアを中心に中東における社会変換の比較研究を行った。氏によれば、中東は上述の国々のように革命によって大きな体制変換を経験した国と、湾岸諸国やヨルダンのように旧体制を維持し続けている国に分類される。そして革命が生じた国々の重要な共通点は、大土地所有制度の存在が挙げられる。大地主制の過酷な支配から逃れた離散農民が、都市に移住し、革命の大きな動員力となった。
 中東における社会運動の相互の連関を俯瞰するAl-Khafaji氏の大胆な試みは、国民国家の枠組みで論じる発表が多い中、非常に貴重であったと言える。しかし、農民の都市流入と深く関係する産業構造の変換や労働運動については殆ど述べられなかったことが残念である。

 酒井氏(「イラクにおける1991年インティファーダ:イラク知識人の言説分析を通して」)は、政治的立場の異なる政治家、研究者の言説を分析することで、1991年にイラクで起きた全国的なインティファーダ(民衆蜂起)の特徴と重要性を浮き彫りにした。湾岸戦争以前のイラクにおける社会闘争は、政党組織に率いられたものであった、しかし、1991年蜂起は、イスラーム系グループによれば、「イスラム革命へのプレリュード」であり、共産主義グループによれば、「現政権の掲げるシンボルを打倒するために個人がばらばらに集って行われた集団行動」と解釈されている。結びで酒井氏は、1991年インティファーダを既存の政治組織が人々の不満を代弁する上で機能しなくなったイラクにおいて「市民社会」建設の試みが始まったのではないか、と疑問を投げかけている。
 イラクでインティファーダが生じたということ自体が新鮮な驚きであった。噂であれ、携帯電話であれ、インターネットであれ、政府の厳格な情報統制の網の目をくぐって情報を伝達する手段があれば、そこに「国家対個人」とは異なるネットワークが生まれ、携帯電話が重要な役割を果たしたフィリピンの市民運動のように何らかの社会運動が生まれる可能性がある。情報伝達の手段のあり方によって規定される社会運動の形態についても聞き取り調査等で考察する必要があるように思われる。今後、イラクのイスラム知識人に影響を与えている「市民社会論」の内容がエジプトやハタミ政権下のイランの事例などともに比較検討されることが期待される。

 Cole氏(「半植民地とムスリム:現代パキスタンを事例として」)は「スコチポルの革命理論」において軽視された、次の3点、(1)ローカルな文化(イデオロギー)(2)都市住民の役割(3)半植民地国家における支配の非正当性、が中東の社会運動において重要であることを、米同時多発テロ後にアメリカの軍事行動支援を決めたパキスタンをケーススタディとして論証を試みた。パキスタン政府は、インドへの対抗関係と、アメリカの圧力、そして経済的思惑からアメリカのアフガン攻撃への支援に踏み切った。この結果、パキスタンには半植民地的状況が生まれた。9月21日金曜礼拝後のデモ行進は、地域によってその盛り上がりに大きな差が生じた。人口密度の高いパンジャーブ地方ではデモの参加者が少なく、タリバーンの影響力の強いカラチやクエッタといった都市では大規模な抗議集会が繰り広げられた。特にカラチでは、交通機関の労働者が抗議行動に積極的に参加したために、ストライキは全市規模に広がった。しかし、労働者達は夏頃から政府に対する経済的不満を募らせており、抗議行動参加の背景には反米意識とは異なる経済的要因が動いていたことも注意すべきである。国内において様々な不平等関係がある国が、一旦半植民地的状況におかれれば、その正当性を巡って大きな社会運動が起こる可能性があることを9月21日の反米デモは実証したと言える。
 各地域の文化や伝統の文脈で社会運動を捉える視点は重要だが、さらに各地域間の経済的格差も実証されれば、さらに議論が興味深くなると思われる。

 Olimova氏(「中央アジアにおけるイスラームと国民国家建設:タジキスタンにおけるイスラーム運動」)は、ペレストロイカ以降開始したタジキスタンにおけるイスラーム運動を4つの段階に分け、イスラーム運動の現状と課題を報告した。タジキスタンでは、世界的なイスラーム復興の流れと連動して、各地でスーフィー組織やイスラーム政党の活動が活発化し、「イスラームの春」((1)1988−1992年)とも言える状況が出現した。1991年のソ連崩壊による権力バランスの変化に伴い、イスラーム系グループは各地の住民を反体制運動に動員して、旧共産党の支配エリートに挑戦した結果、「タジク内戦」((2)1991−1997年)に発展した。世俗主義体制内でのイスラーム団体の政治活動が合法化され、各イスラーム・グループの代表が各々の支持基盤(地方)を代表して政権に参画した結果、内戦は終結した。((3)「世俗主義体制内での合法的イスラーム運動の確立」1997年―現在)しかし、各イスラーム・グループの代表は内戦時に彼らを支持した様々な人々に国民的平等を保障するよりも出身地域の利害を優先させ、権威主義化したため、ソグド地方のように恩恵に浴しない人々が不満を募らせていくようになった。すなわち、人々の不満を代弁する合法的かつ民主主義的な政治グループが存在しないために、非合法過激派ヘズボ・タフリールが、一部の人々に浸透していった。((4)「新しい反体制派イスラムグループの出現」1997年―現在)イスラームであれ、共産主義であれ、一旦支配エリートを利するシステムが構築されてしまうと、その枠組みを再編することは非常に困難である。イスラーム「原理主義」は宗教グループというよりもむしろ経済的・政治的不満を土台にした政治グループである。しかし、タジキスタン国民の78%が政教分離を望み、既存の国民国家の枠組みを変えるパン・イスラム主義より生活の安定を望んでいるために体制内での政治的実現を閉ざされたイスラーム「原理主義」は過激化する傾向にある。
 中央アジア各国の独裁者を指して、中央アジアの人々は独裁制を好む傾向にあり、民主主義には馴染まないとする考えは誤りで、支配エリートが全体的な社会の安定と様々な社会グループの利害のバランスを無視した場合、イスラーム運動が生じる可能性があるというOlimova氏の指摘は示唆に富んでいる。支配者は自らの権力安定と民主主義(言論の自
由)の抑圧の口実として、宗教や伝統を出す場合が往々にして見られる。そのレトリックに翻弄されて「文明の衝突」のような単純な論理で国際政治を語ることは危険であることを改めて認識させられた。Olimova氏の報告は日本から見えくいタジキスタンの生の情報を提供し、米同時多発テロ以降、マスコミで流れるイスラーム「原理主義」脅威論の中で中央アジアのイスラーム「原理主義」の特徴と成立背景にある社会経済的文脈を解説する非常に価値ある報告であったと思われる。

 Shinirelman氏(「コーカサス紛争:コーカサスにおける民族の起源と政治」)はソ連崩壊後、紛争の絶えない北コーカサス諸民族の文化ナショナリズムの問題を扱った。コーカサスには様々な民族が存在し、大帝国の狭間で複雑な歴史を織り成してきた。特にスターリン時代の民族政策は大きな禍根を残し、1991年以降、各民族はソ連邦からの独立あるいは、ロシア内での自治権獲得を目指し、「栄光の歴史」を掘り起こす作業を熱心に続けている。その努力の影には領土的野心が秘められ、新たな紛争を生み出している。
 政治リーダー(権力者)が自らの政治的野心遂行のためにスローガンを掲げ、民衆を操作して民族運動を起せば、複雑な民族構成、様々な歴史と民族が交差した場所では、即座にユーゴスラビア内戦のような激しい紛争が生じる可能性を想起させた。しかし、その反面で抑圧され、歴史を失っていた人々に対し、自らのアイデンティティを探る作業を強制的に中止することもできない。人間は歴史的な悲劇(紛争)を繰り返すのみで、歴史から学べないのかという質問に対し、Shinirelman氏の述べた「歴史自体が問題なのではなく、それをどう使うかが問題である。」という見解は非常に印象的であった。

 宇山氏(「中央アジアにおける社会運動の脆弱性の原因:国民国家建設とグローバリゼイション時代における国家と民衆の関係」)は、貧困や政治腐敗にも係わらず、中央アジアにおいて社会運動が脆弱である理由をソビエト時代の社会運動の諸特徴と独立後の中央アジア諸国家と国民の関係を検証することで、考察した。ソ連体制下では国民の社会運動は厳しく弾圧されていたが、1970年代から1980年代初頭にかけて中央アジア各地でナショナリズムとイスラーム復興の兆しが現れていた。ソ連崩壊後のパワーバランスの間隙を縫って始まった紛争(タジキスタン内戦、コーカサスにおける紛争)を目撃した中央アジアの人々は、デモや抗議行動で国を変えることができるという幸福な幻想を捨て、安定を最重要課題と考えるようになった。他方でソ連崩壊後も政権に留まった中央アジアの支配エリートは、官僚制を整備するために反体制運動家の予備軍であった高学歴の若者の登用、経済権益の集中、言論の弾圧等の政策を通して国民国家の枠組みでの支配システムを確立することに成功した。さらに中央アジアの独裁者たちは、共産党という古い衣を脱ぎ捨てて「独立の英雄」を気取り、学術面での「伝統の創造」を支援し、物理的、イデオロギー的権力基盤安定に努力した結果、中央アジアの人々が社会運動を起すことが困難になっている。グローバリゼーションは中央アジア諸国家の枠組みを弱めるどころか、経済危機、麻薬の浸透、テロ、イスラム運動への防衛策として軍事力の増強、経済活動への干渉、国境管理を促し、かえって国家権力を強める役割を担っている。
 現段階では人々の社会経済的困難は伝統的なパトロン=クライアント関係に依存することで解決されており、この伝統的セイフティネットが破綻した時に社会運動が発生する可能性はあるものの、国民国家システムを維持しようとする内的外的な力の大きさを考慮すると、現状では体制変換に繋がる強力な社会運動の出現は考えられないとする宇山氏の見通しはOlimova氏の見解と共通するものがある。

 第5セッションのテーマは、9月11日に生じた米同時多発テロにおいて問われている問題と深く関係し、その根本的原因を示唆する非常に有意義内容が多かった。ここで全体を総括しながら所感を述べることにする。

 今回の報告では、ナショナリズムを「民衆の自由な意志」によって選ばれ、複雑な民族を超越し、統合する肯定的なイデオロギーとする立場(栗田氏)と、共存していた諸民族を分解し、紛争を引き起こす「伝統の創造」として否定的に捉える立場(Shinirelman氏)に分かれた。それは地域によるコンテキストの違い、手法の違い(栗田氏は民衆運動を軸に据えていたのに対し、Shinirelman氏は文化ナショナリズム、特に歴史を使って民衆を操作する政治リーダーを考慮していたこと)に因ると考えられる。
 次に、Cole氏のように社会運動におけるイデオロギーを重視する立場に対し、Olimova氏、栗田氏、帯谷氏、Dudoigon氏等は社会運動に付された「イスラーム」「民族主義」といったラヴェルよりも社会経済関係(パトロン=クライアント関係)を強調した。「文明の衝突」に代表されるように紛争を単純に宗教に換言する潮流に対するアンティテーゼとしてイデオロギーの背景にある社会経済関係の考察は重要である。他方で、マルクス主義的な手法では収まらない社会の複雑性を考察するために地域的文脈(伝統や文化)を詳細に分析することも必要であるように思われる。
 社会運動は時代と地域によって国家に相反する影響を与えた。1926−41年のイランにおいて社会運動はレザー・シャー独裁体制を強化する役割を果たし、スーダンにおける一連の運動に見られるように国民国家形成に一定の肯定的な役割を果たした事例も見られる。結局は国家と社会グループのバランスの問題に帰結するのであろう。失敗した社会運動も「記憶」され、「抵抗の文化」として継承され、政治リーダーによって新たに発掘されて「操作」される可能性がある。そうした面で社会運動は面々と「連続性」を保ち続けると言える。他方で表面的「連続性」の操作の背後にある断絶に注目すれば、「非連続」的な社会運動とも言えるのであろう。
 社会運動の形態として、伝統的社会グループ(イスラーム、部族、バーザール)に依存した型、イデオロギー団体に組織された型、ソ連崩壊後の既存の政党への懐疑の結果生まれた市民運動型が見られた。
 グローバリゼーションは、イスラム「原理主義」運動と中央アジアの諸国家の関係に見られるように国民国家を解体する要素と強化する要素が同時に働いている。今の所、中東諸国では19世紀末から20世紀初頭に帝国主義諸国によって規定された既存の枠組みは維持されているが、イラクの1991年インティファーダのように社会運動の形態に新たな変化を生み出し、将来、新しい体制を形成する可能性も否定できない。
 社会運動は何らかの原因、(経済的、文化的、政治的、社会的)不満に対する異議申し立てとして遂行される。その際、不満の内容とイデオロギー(スローガン)にズレが生じ、さらには運動が成功し、体制再編がなされる際にイニシアティブは個々の民衆の手を離れ、政治リーダーによって当初の目的とは異なった体制が設立されることがある。社会運動の原因とプロセスと結果を個別に考察し、さらには縦軸(「抵抗の文化」の継承)と横軸(超国家的連関、グローバリゼーションの影響)の広がりの中で社会運動を位置付けることによって社会運動の性格明らかになるものと思われる。
 第5セッションは、Asef Bayat氏の欠席により、20世紀の中東に多大な影響を与えたイラン・イスラム革命の検討が欠けていたことは残念であったが、全体として中央アジアから中東という広大な地域をカバーする諸事例は、ムスリム社会における社会運動の地域や時代を経た共通点と差異を浮かび上がらせ、社会運動を分析する上での新たな理論的枠組みへの視座を与えてくれる刺激的な内容であったと言える。

 


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