イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>


Session 5: Social Protests and Nation-Building in Muslim Societies

錦田愛子(国立民族学博物館総合研究大学院)


「ムスリム社会におけるsocial protests(社会/抗議運動)とnation-building(国民形成)」と題された第5セッションでは、ムスリム・コミュニティーを含む地域での社会運動を、帝国主義およびグローバリゼーションの時代背景の中で位置付け、ネイション・ビルディングのそれぞれの地域における意味・意義を問い直す議論が行われた。各報告者は自らの専門地域の枠組みで、また比較研究の枠組みにおいて具体的に実例に基づく報告を行い、近代西洋的な「国民国家」建設モデルに対する実態の提示、および建設的なアンチテーゼの提示をなし得たといえるだろう。以下は各報告の記録と記録者のコメントである。 (本記録では、報告者の報告内容を可能な限り細部にまで言及し、かつニュアンスを損なわないように要約することを心がけた。そのため各報告のタイトルはそのまま引用し、記録者のコメントは各要約の後に別記する形を取った。また当初の記録作業の分担に従ったため、内容が報告者のほぼ半数となっている点をご了承頂きたい。)

栗田禎子
Title: "The Dynamics of Nation-Building in the Sudan"
国民国家の概念は、近年の西洋の研究者の間では冷笑で迎えられるようになったが、スーダンでは国民国家の形成と国民統合の達成が依然として重要な課題である。19世紀のマフディー運動も、イスラーム的な概念は用いるものの、実際には非ムスリムの南部の奴隷兵士や近代的都市社会勢力も運動に加わっており、一種の社会契約に基づく政治的共同体による反トルコ支配の運動という側面がある。1924年の革命では、南部の黒人と北部アラブ人の双方を含む「スーダン人(people)」という概念が現れ、エジプトの革命勢力との連携が初めて検討された。40年代に登場したスーダン共産党は、マフディー運動と同様に民族解放運動と解釈可能で、労働者運動と共に奴隷出身の知識人が重要な役割を担って56年のスーダン独立に漕ぎ着けた。独立後のスーダンは相変わらず専制主義国家であるが、反政府勢力のNDA(National Democratic Alliance)はその変革と「市民」概念に基づく「新しいスーダン」の建国に向け、南北が一致して現政権に抵抗することを呼びかけている。このような追求が行なわれる訳は、多くのアジア・アフリカ諸国の社会的現実と歴史的経験にとって、民族解放と社会的革命の問題が相互連関的であったために、国民国家の持つ意味が西欧とそれらの国々とでは異なるからである。前者においてはブルジョアの利益の体現であった国民国家が、後者にとっては反帝国主義的民衆闘争の成果であった。ネイションは「想像の共同体」でも「創られた伝統」でもなく、真に大衆的な基盤を持った運動で、人々の自由意志と決定の上に勝ち取られる政治的共同体であった。グローバル化は新しい帝国主義の時代とも考えられ、その中で展開される第三世界の民族解放運動は新しい重要性を持つであろう。

*記録者のコメント*
マフディー運動を純粋にイスラーム的運動「以外」の側面から捉える手法、およびネイションが非西欧諸国においては「想像の共同体」でもなく「創られた伝統」でもなく、「人々の自由意志と決定の上に勝ち取られる共同体」であるという氏の指摘は、非常に斬新で興味深く感じられた。特に後者の指摘はスーダンに限らずいわゆる「第3世界」諸国に広く適合性を持ちうるとも考えられ、近代西欧発の概念がその受容の過程で内容的な変質を遂げる一例といえるのではないか。「スーダン人」と呼ぶときの「人」をnationと表すかpeopleと表すか、また当事者の言語ではどう表記・想定していたか、といった言語面での問題の追求と併せると更に面白い議論が展開可能なのではないかと期待感を持った。

青山弘之
Title: "Contradiction between Thoughts and Realities in Arab Nationalism: Wahib al-Ghanim's Contribution to Development of Arab Ba'th Movement"
アラブ・ナショナリズムは思想として自由や正義、民主主義を提唱したが、現実のアラブ諸国は権威主義や独裁体制に陥っている。これは思想が行動に移される過程で逸脱が生じたためである。アラブ・ナショナリズムが最も顕著に政治化されているアラブ・バース運動に例を取ると、ワヒーブ・アル・ガーニム(Wahib al-Ghanim)は理論と政治行動の両面で活発な役割を果たした人物であった。彼はアラブ・バース党の初期イデオローグに師事した後、「民族主義的民主社会主義」(ishtirakiyah qawmiyah dimuqratiyah)の概念を理論的に展開し、経済関係ではなく人道主義(humanity)を根本的要素として、アラブ意識を高めることによる社会主義の実現を唱えた。また1963年にバース体制を築くクトゥリユーン(Qutriyun)や「軍事委員会」などの次世代を育て、政治的・イデオロギー的に彼らを導いた。だが彼の主張する社会主義の具体的な実現方法は47年のアラブ・バース党綱領の中には反映されず、また国家社会主義政策を取ったバース体制も、それ以前の社会主義を理想主義的として批判し、アル・ガーニムのものを含めて否定してしまった。アル・ガーニムが「非搾取階級の政治参加」の意味で主張した「積極行動主義(activism)」を、クトゥリユーンと「軍事委員会」は「権力維持のための実力行使」に曲解し、大衆の政治参加をむしろ妨げたのである。そのためアラブ・バースのイデオロギーは強制の正当化の単なる政治的手段に貶められ、体制の専制的性格のカモフラージュに利用されることになってしまった。この性格は、70年にハーフィズ・アル・アサドがクーデターで権力を掌握し、「修正主義運動」として多元主義と民主主義を掲げて政治・経済改革を推進した後でも、実質的には解決されていない。

*記録者のコメント*
 アラブ社会における社会主義思想の受容と変容、また思想が政治的行動・体制の中で具現化される際に生じる歪曲という2つの問題が、非常に具体的かつ丁寧に示されているとの印象を受けた。経済関係以外の要素を主軸とする社会主義の理論的な内容に、個人的には強く興味を覚えたので、その点での説明を少し物足りなく感じた。当時のシリアにおける階級社会の存否等、社会主義受容の素地としての社会構造について、西欧との比較の視点が加われば、イデオロギー歪曲の理由に関するより深い考察が可能になるのではないか。

Isam al-Khafaji
Title: "Roots of Revolution: A Comparative Analysis of the Social Dynamics for Change in the Middle East"
マシュリクで1950年代から60年代にかけて起きた革命は、日常からの「逸脱」ではなく、それ以前の社会の緊張状態を反映した「プロセス」とみなすべきである。革命前のマシュリク社会では、19世紀後半以降の商業都市の発達が都市への人口集中を呼び、大土地所有者と大商人が勢力を拡大していた。都市への移民は低賃金労働者となり、高い失業率の中で出身地別の共同体を形成していた。また国家機構や軍組織が拡大し、マイノリティーや下層階級は昇進の手段としてその中心を形成していた。革命の推移やイデオロギーの選択は、国ごとの状況と経験を反映して異なったが、こうした農業構造の危機や、移民と都市化の波、また第2次大戦後の経済状況の改善で社会的クリービッジが強調されたことが、旧体制下の社会システムの機能不全に対する革命を、自然の流れとして引き起こしたと考えられる。これら革命に共通する特徴は、最初の指導者世代が都市部の出身であり、傑出した役割を果たし、運動の方向性について前体制の規範と継続性を幾分保つような印象を与えたことである。しかし彼らは地方農村に基盤を置く一般大衆と異なり、最底辺ではなく中下層の農民や労働者出身であった。後者が革命を、腐敗した政治を「通常」に戻すプロセスと捉え、議会政治や多元主義の実現を試みたのに対し、前者は未経験の楽園を思い描き、民主主義にこだわらなかった。土地改革法の施行後、最初の革命体制に失望した大衆は急進化し、革命は大衆的な圧力のもとに急進化した。そのため革命後の政治体制は、より民意を反映した民主的な政治システムになるはずが、小派閥の支配による専制的なリヴァイアサンに陥ってしまった。また、1950年代初頭からの国家・社会関係の変化の結果、革命時の社会では個人のアトム化が進み、特に移民の大半は経済・政治的に未組織で、要求を集約できない状態にあった。1940年代半ばまでの支配階級による間接支配は破綻をきたし、直接支配への移行が待望されていた。そして移行後の経済的自立を支える手段としては、原油収入や冷戦期の援助競争などの要素が既に整っていたのである。これらは強力な国家機構の下、中央集権化が進む基盤となった。革命後に独裁体制が成立したことについては、通常「専制的な文化」対「民主的な文化」というステレオタイプで捉えられているが、そうではなく独裁者が大衆の支持を得られたこのような社会的状況を問うべきである。

*記録者のコメント*
 アラブ諸国での独裁体制・非民主的政治体制の成立について、オリエンタリズム的説明に対抗するため、社会・経済構造への言及、エリート・大衆論、個のアトム化現象などの視点を取り上げ、代替説明が強力に試みられていると感じた。他の報告がそれぞれの専門地域に即した内容だったのに対して、マシュリク諸国全域が視野に入れられていたため、スケールの大きさや明確な比較の視点を感じた。だが各指摘は興味深いものの、要素として多くが盛り込まれすぎているため、どれが決定打となったのかが曖昧との印象も受けた。また二段階の革命モデルはロシア革命等ヨーロッパの例を想起させたが、マシュリク諸国においても同様と言えるのか、より実態に即した検証の必要性を感じた。

酒井啓子
Title: "The 1991 Intifada in Iraq: A Social Movement or Aggregation?"
1991年にイラクで起きたインティファーダ (民衆蜂起)は、運動の拡大規模の広さや、統一組織・イデオロギーの欠如、運動参加者の社会階層の多様性などの点でそれまでの社会運動(social protest)と異なる特徴を持つ。従って政治的・社会的な重要性が問題となり、事後の解釈に多くさらされている。そのディスコースは政治的立場やイラク社会への理解を反映し、イスラーム主義者(Islamist)とイラク共産党員とでは大きく異なる。前者は、地域リーダーを中心とする動員組織の存在と、フレーミング・プロセスにおけるイスラーム教およびイスラーム的スローガンの重要性を主張するが、後者はこれらを否定し、イスラーム的スローガンはむしろインティファーダの広がりをシーア派社会内の特定イデオロギー集団に限定する方向で影響したと批判する。しかし両者は、運動開始における無秩序で非合理的な要素の存在を認め、若者を推進力に様々な民族・宗教・派閥の多様な集団が参加し、バース党支部の建物や警察、監獄などを標的に行動を起こしたという点については合意している。オバーシャルの指摘によると、草の根組織と新しいメディアへのアクセスを欠く地域においては、ナショナル・シンボルによって共有された価値のみが有効な結束の手段となり得る。インティファーダでも既存のシンボルの破壊が、サッダーム・フセイン体制を否定する共通行動として現れた。しかし代わりになる共通のナショナル・シンボルが充分に用意されず、破壊の後に思想・理念的真空が生じたため、抵抗勢力の結束は脆弱なものとなってしまった。また体制側と抵抗勢力の間の彼我意識の境界が曖昧であったため、攻撃の対象は人々の生活圏からの「敵」の排除に集中し、直接的な体制変革への行動につながりにくかった。更に抵抗文化の共同体的基礎が弱く、運動全体をまとめるに至らなかったことも敗因となったと考えられる。戦後、体制側やサーディク・アル・サドルを中心としたイスラーム運動の第三世代などからは、共同体の結束を確立することでの社会の再形成が志向され始め、ウラマーを体制側と社会の仲介者とする試みが進められている。

*記録者のコメント*
 記録者自身が修士論文でパレスティナのインティファーダを扱ったため、本報告は特に興味深く拝聴し、問題点の共通性を感じた。冒頭のインティファーダの特徴の記述は、一般的な評価を議論の前提上必要な定義として提示されたものと解釈しているが、インティファーダ自体がディスコースを強力に形成する一要素である以上、運動の大衆性、規模、多階層的性格といった評価による定義そのものに対しては、慎重になる必要性を感じる。つまり「インティファーダ(民衆蜂起)」を分析対象とするのではあるが、実際にそれが「民衆蜂起」なのかどうか疑義を差し挟まない限り、「民衆蜂起である」というディスコースに取りこまれてある一定方向からの評価しか下せなくなる危険性を伴うからである。その点で、氏の「各当事者のディスコースを分析対象とする」という分析手法は非常に慎重で有効な視角であると感じられた。ただ結局、各ディスコースの中でインティファーダがどのように位置付けられ、評価されているかという総括ではなく、慎重な客観的視座を通してではあるが、一般論としてインティファーダの敗因を探るという方向に議論が展開されており、報告の前半と後半の内容の符合性にやや違和感を感じた。既存のシンボルの破壊という共通点、体制側と抵抗勢力の彼我意識の境界、抵抗文化の共同体的基礎といった指摘はとても興味深く、パレスティナとの共通性も認識された。特に第一点の指摘については非常に練られた考察と感じたが、後の二点はやや議論が手薄な印象も受けた。全体として、記録者自身の今後の研究に対して非常に強い刺激を頂くことができた。

Saodat Olimova
Title: "Islam and construction of a national state in Central Asia: Islamic movement in Tajikistan"
ソヴィエト後のタジキスタンでは、伝統と政治文化により認証された国家建設の試みが進められている。その際、問題となるのはイスラームと国家(state)の関係であり、96年の世論調査では人口の90%が自らをムスリムと答える状況がこの重要性を示している。タジキスタンでは1988年から92年にかけて、イスラーム運動の主要な主体が形成された。それは公的機関や地方の聖職者、IRPT(the Islamic Revival Party of Tajikistan)、イシャーンと呼ばれるスーフィー・シャイフなどであり、91年から97年の内戦期には戦術的な結束を見せた。97年以降は政治的イスラームの合法化が進み、IRPTなどは民主主義的世俗的政治システムの一部として合法的なイスラーム運動を確立してきた。具体的には94年のタジキスタン共和国憲法で、国家の世俗的性格の保全が宣言される一方、政治的イスラーム組織の合法的な活動が憲法で保障されたことなどに表される。しかし、他方でイスラーム勢力の分裂も起き、97年末にはソグド地方(Sughd)の利益を代表する組織としてヒズブ・タフリールが結成され、急進的なイスラーム抵抗勢力として非合法活動を開始した。また、イスラーム指導者が政治システム内で地位を獲得することにも賛否が両分され、国民の78%が宗教の国家からの分離を主張している。イスラームとナショナリズムの関係も大きな論点である。中央アジア諸国では、既に国民国家構築はかなり進み、ネイションが形成されていると考えられる。これと超国家的なイスラーム運動の統合主義との関係が問題になるが、イスラーム運動の主要な代表者たちは、イスラームはタジク人の民族文化とアイデンティティの要素の一部であり、イスラームとナショナリズムの間に矛盾はないと考えている。タジキスタンでは経済・社会不安の中、政治的イスラームが政府批判の表明チャネルとしても必要とされているのである。

*記録者のコメント*
 国家建設の過程において、ステイトおよびネイションにどのようにイスラーム的要素を統合していくかの試みを、タジキスタンを例に具体的に示して頂くことができた。ステイトのシステム内に合法勢力としてイスラーム組織を取りこむ一方で、政権そのものの性格は世俗とし、また政府批判の表明チャネルとしてもイスラームが機能する、という多重性に、西洋近代の国民国家システムとイスラーム的文化基盤との統合の難しさを感じた。ただネイション形成の議論に関しては、「タジク人」に対する一枚岩的把握と、ネイション概念受容における意味内容の具体的な吟味の不足に疑問を感じた。

宇山智彦
Title: "Why is Social Protest Weak in Central Asia? Relation between the State and the People in the Era of Nation-Building and Globalization"
貧困や政治腐敗の多さにも関らず、中央アジアで社会運動(social protest)の動きが弱いのは、ソヴィエト解体後のこの地域での特徴的な国家・国民関係が原因である。 反政府抗議行動や知識人による反体制的活動は、1920年代のバスマチ運動を始めとし、ソヴィエト政権下においても通常知られる以上に頻繁に行なわれていたが、1986年にゴルバチョフがペレストロイカを宣言して以降は更にその勢いを増した。しかし、第一に、その最初の大規模な抗議行動であったカザフスタンでの行動の暴力的な鎮圧や、内戦を導いたタジキスタンのドゥンシャベでの蜂起など、抗議行動が多くの流血を招いた歴史のため、人々は訴える権利よりも秩序を重んじるようになり、デモ行動を非合法で望ましくない政治行動と考えるようになった。反対勢力への厳しい弾圧の中で人々は政治的アパシーを感じ、社会経済的要求の充足は、公的な抗議行動ではなくパトロン・クライアント関係を通して実現された。第二に、ソ連崩壊後の国家形成で、ネイション・ビルディングは国家(state)体制側の権力確立の正当化に利用され、抵抗運動の正当性を相対的に奪った。反対運動が基盤を置いていた識字層からは政府職員が採用され、そのナショナリスト的議題や理論が国家(state)の歴史として利用された。そして第三に、グローバル化の衝撃に対する国家(state)の枠組みの防衛のため、国家の統制は強化され、愛国主義的結束が高まって、政治的・社会的抗議行動への関心は薄れた。もちろん、人々の間の不満がなくなった訳ではないが、これらが表明されるには、有効な政治的代表制度の確立や自由なマス・メディアの発達を待つ必要がある。しかし当分その見通しは立たない。また、より急進的な反政府運動の成功には対抗エリートが権威を取得できるかが問題となるが、この点ではヒズブ・タフリールが注目に値する。いずれにしても国民国家システムは強固で、その根本的変革は起こりそうもない。

*記録者のコメント*
 抵抗運動のリスクや体制内吸収など、運動解体に働くマイナス要因の指摘が具体的に行われた点が、今回の報告の中では特徴的と感じられた。各々の論拠自体は説得力があったが、中央アジア諸国全体が対象とされたため、「特徴的な国家・国民関係」という枠組みでの実証の有効性にやや疑問を覚えた。例えば個々の抗議運動鎮圧による流血事件が、実際にどの範囲の人々にどの程度の心理的影響を与えたのか、といった点の実証が求められるだろう。情報伝達のスピードやアイデンティティ共有の範囲など、指摘が現在の「中央アジア」の枠組みに該当するのかといった点の検討の難しさが予想される。


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