イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 4: Sufis and Saints Among the People in Muslim Societies

岸真由美(東北大学大学院国際文化研究科)・長峯博之(北海道大学大学院文学研究科)


 
 「ムスリム社会における民衆の中のスーフィーと聖者 Sufis and Saints Among the People in Muslim Societies」と題された木更津国際会議第4セッションは,会議3日目(10月7日)におこなわれ,10名の研究者が発表をおこなった。このセッションでは,歴史的・現代的な観点からみたスーフィー,聖者,スーフィー教団の重要性と,民衆とのかかわりからムスリム社会を解釈する鍵を探ることに焦点が当てられた。
 この参加記では,10名のうち,まず,Vincent Cornell氏,Boaz Shoshan氏,Muhammad El Mansour氏,Nathalie Clayer女史,Masatoshi Kisaichi氏,以上5名の発表について紹介し,発表に関する報告者の感想を付し,残りの5名,Yasushi Tonaga氏,Toru Horikawa氏,Yasushi Imamatsu氏,Masayuki Akahori氏,Thierry Zarcone氏の発表について同様に報告し,セッション全体の感想を付したい。なお,報告は,報告者が本セッションに参加したさいの記憶をもとにして,配布されたペーパー,ペーパーのなかった発表者についてはその著書なども参照しつつ作成した。実際の発表内容に関する解釈の誤りや記述もれがあった場合,その責任は全て報告者に帰する。また,研究発表の報告は,前半5名を岸が,後半5名を長峯が担当したが,実際の会議の発表順序とは異なる。

I-1.
Vincent CORNELL (University of Arkansas, USA), "People's Saints or Saints of the People? Urban and Rural Models of 'Popular Sainthood' in the Western Maghrib"
 Cornell氏は「民衆の聖者(Popular sainthood)」「民衆スーフィズム(Popular Sufism)」という用語が,用語の正確さを問題にされずに用いられてきたことを批判し,聖者やスーフィズムが「民衆(people)」とどのような関係を持っているのか明らかにする上で,聖者(saint)を「人々が聖者に対して抱くイメージと結びついた,広く知れ渡った人物(public person)」ととらえ,聖者伝の記述の分析を通して,民衆が持つ聖者像を再構成した。具体的には,西マグリブ(特にモロッコ),マラケシュの聖者Abu al-'Abbas al-Sabti(d. 1204)と地方のベルベルの聖者Abu Yi'zza(d. 1174)という二人の聖者に関する聖者伝の記述から,都市と地方における二つの聖者類型を提示した。前者においては,未来を予言する能力のある知の人(man of knowledge),貧しい人々や持たざる人々に奉仕する人,マラケシュの守護聖者としての聖者像,後者においては,野生の人(wild man)であり,カリスマ的な力を振るう人としての聖者像が提示される。Cornell氏によれば,聖者の権威はアッラーに由来するものであるが,都市・地方という二つの文化圏において聖者像は「都市/地方」「教養/無教養(literate/illiterate)」「インサイダー/アウトサイダー」「知識/力」と対照的に表象されているのである。

Boaz SHOSHAN, "Popular Sufi Sermons in Late Mamluk Egypt"
 Shoshan氏はマムルーク朝エジプトにおいて,民衆のイスラム(Islam of the people)というレベルでスーフィズムが極めて大きな影響を与えたといわれながらも,従来の研究ではスーフィーとその社会宗教的役割に関する研究が多く,スーフィーと「民衆(the people)」の関係に関する研究はいまだ十分になされていなかったと指摘する。いくつかの研究において指摘されてきた,スーフィーと民衆の結びつきを示す事例に加えて,さらに研究をすすめるために,Shoshan氏は,スーフィーがモスクやその他の宗教施設でおこなった説法を編集した説法集を用いて,説法がどのような社会カテゴリーに対して行われたものか,説法でどのような話題が取り上げられたか,などを分析し,聴衆が兄弟弟子,スーフィー,商人たちなどの社会カテゴリーからなり,その話の多くは一般のムスリム向けのものであったことなどを指摘した。

Muhammad El MANSOUR (University of Mohamed V, Morocco), "Religious Groups and Political Power in Morocco in the Age of State Centralization"
 Mansour氏の発表は,保護領化以前のモロッコにおいてスーフィズムが制度化され教団が成立し,同時に中央政府(マフザン)による集権化が進行する過程で,聖者のもつ聖性と権威が弱まり,その性質が変化していく歴史的プロセスを提示した。
 モロッコでは,信徒の指揮者でありシャリーフであるスルタンと制度化されたスーフィズム(ザーウィヤ)との間に,聖性やバラカといった概念をめぐる競合関係があった。18-19世紀に中央集権化が進行し,聖者の持つ聖性が,奇蹟を中心とするものから系譜を中心とするものへとシフトする過程で,聖者組織自体は確実に維持・継続されるが,その聖者のスーフィーとしての聖性は著しく損なわれていく。その過程は具体的には次のようなものであった。(1)聖者組織は同一家系の(dynastic)あるいは系譜的な(genealogical)パターンを受け入れ,ザーウィヤおよびマラブーのリバートの主要な関心は聖なる系譜内での相続を確実なものにし,社会的経済的地位を維持することに向いていく。(2)シャイフあるいはムラービトのパーソナルなカリスマが著しく損なわれ,宗教的な指導者としてよりも相続された遺産の管理者としての役割を帯びる。(3)ザーウィヤが,富の獲得とその管理を通して徐々に世俗的な問題に巻き込まれ,(4)特権の授与・保護をおこなうマフザンに,徐々に依存するようになる。

Nathalie CLAYER (CNRS, France), "Saints and Sufis in Albanian Society"
 Clayer女史は,現代アルバニアにおける宗教復興のケースについて発表をおこなった。アルバニアでは,1967年にあらゆる宗教形態が禁止されたが,1990年に共産主義政権の終わりとともに宗教が復興した。しかし,こうした復興は,1967年以前の状況と断絶して起こったものではなかった。歴史的に(少なくとも1967年以前には),デルヴィーシュ,シャイフ,聖者の果たした役割の一つは治療者としてのそれであった。1990年の宗教復興の第一段階として,民衆の聖者探求の動き(「下からのダイナミクス」)が展開し,各地で聖者廟が再建された。この動きはスーフィー・ネットワークの発達よりも急速であった。第二段階では,スーフィー・ネットワークがこうした民衆の聖者探究に方向をあたえ,聖地をコントロールし,治療者およびカウンセラーとしての役割を果たす宗教的指導者を提供するようになった。第三段階では,個人に対する救済ではなく集団に対する救済(すなわち,個々人の結びつきやモラル,イデオロギー,過去や未来のとらえ方)を与えられるように教義が新たに作り直された。こうした過程で,社会に出現・再出現する聖者がもつ聖者像は,より伝統的な治療者としての聖者像とたとえば詩人Naim Frasheriのような神聖化された国民的英雄としての聖者像としての,二つの聖者像が形成された。

Masatoshi KISAICHI (Sophia University, Japan), "Sufi Orders and Islamic Resurgence in Contemporary Egypt: Analysis of the Daftar of the Burhami Tariqa"
 私市氏は,中世においては重要な政治的・社会的役割を果たしてきたスーフィー教団は,19世紀末から20世紀初頭にその機能を著しく低下させたといわれるが,実際,20世紀後半以降スーフィー教団は衰退したのかという問題をたて,この問題を歴史学的手法を用いて考察した。
 氏は,1998-1999年のエジプト滞在中に収集したダフタル文書,Burhami教団のシャイフとのインタビューから得られた情報を用いて分析をおこなった。
 Burhami教団の形成・発展過程と,現在の教団におけるシャイフの継承と成員数,教団が用いている成員数把握のシステム,教団維持の資金源,成員が従事する職業カテゴリーや,地域,年齢などを分析し,次のように結論づける。(1)スーフィー教団は現代社会にフレキシブルに適応した。教団の成員数はイスラム政治グループのそれをはるかに超えている。(2)イスラム政治運動が政府に対して批判・敵対する立場をとっているのに対して,スーフィー教団は政治活動からは一線を画しており,政府に対して協力的である。そのため,イスラム政治運動は政治的場での役割が可視化されやすく,スーフィー教団は可視化されにくい。(3)イスラム政治集団もスーフィー教団も1970年代に同時に復興するが,前者が主に都市における地方出身・高学歴の若いドロップアウト階層から支持を得ているのに対して,後者は地方の農民・職人・未熟練労働者などから支持を得ている。イスラム政治集団とスーフィー教団は,方法と手段は異なるが,どちらも過度な物質主義や西洋化を批判し,宗教的価値観やムスリムの道徳の向上を主張するという共通の傾向を持っており,社会改革の可能性という点では,イスラム政治集団とスーフィー教団は相互依存性があると考えられる。

I-2.
 聖者・スーフィーの定義,およびその歴史的変化が,このセッションの大きなテーマの一つであり,ディスカッションでも,この点に関して多くの質問が出された。この点に関連して,スーフィー教団の政治的役割や技術的変化などに対応したタリーカの性格自体の変化に関する点なども議論の的となった。以上のディスカッションでの論点もふまえて,それぞれの発表に対してコメントを付したい。
 Cornell氏の発表は,現象学的な分析手法を歴史学に応用し,都市と地方という異なる歴史文化圏の民衆の中で間主観的に形成される二つの対照的な聖者像を提示して見せたという点が,非常に新しく感じられた。他方で,Mansour氏はウェーバーのカリスマの「日常化(routinization)」というコンセプトを用い,聖者とスルタンが同種の聖性をもつモロッコにおいて,その聖者の聖性自体が中央集権化のプロセスに伴って失われていき,結果として世俗権力とスーフィー教団の間に依存関係が形成されるという,モロッコに特殊な事例が指摘され興味深かった。
 Shoshan氏の研究は,民衆と聖者との具体的な関係を考察するために従来の研究とは異なる視点から説法集を用いるという新たな方法論を提示しており示唆的であったが,個人的には具体的事例の提示で終わってしまった感もあったように思われる。
 Clayer女史と私市氏の発表はむしろ歴史社会学的な手法を用い,現代社会における聖者・タリーカに焦点を当てた。アルバニアでは聖者が国民統合のシンボルとしての人物像を与えられ,エジプトではタリーカが希求される社会改革を支える基盤となっており,現在の宗教回帰現象の中で,歴史的伝統的な聖者像や教団の役割が変化し,現代社会に適応した新たな聖者像や役割を獲得している状況が示されたといえる。

II-1.
Yasushi TONAGA (Kyoto University), "Sufi Saints and Non-Sufi Saints in Early Islamic History"
 東長氏は,「聖者」の用語・人物的多様性の中からwali (pl. awliya')とスーフィーに焦点を当て,聖者はスーフィズムから権威を付与されないならばその真性を欠くのか,そうでない場合スーフィズムの他に何が彼らの権威を保証するのか,という問題を提示した。まずいくつかのawliya'とスーフィーの伝記(10-12c)の分析を通して,その中に一般にはスーフィーとは認められない人物がいる点に注目し,スーフィズムにおける「狭義のwali」の中に,非スーフィー的waliが含まれている例を確認する。さらに,非スーフィー的・イスラム的聖者としては,waliの理論はスーフィズムにおいてだけでなく,シーア派においても発展したし,またスンナ派においてもコーランやハディースに見られるような,スーフィズムに限定されない「広義的なwali」が確認され,それは非スーフィー的・イスラム的聖者と呼びうるのである。最後に,東長氏は非スーフィー的聖者の3類型を挙げている。それは,(1)イスラム的な基盤なしに,実際の行為によって崇拝される非イスラム的聖者。(2)イスラム的な理論によってその権威が保証される非スーフィー的・イスラム的wali。(3)一般にはスーフィーとは認められないが,幾人かの思想家たちがスーフィーだとするイスラム的waliである。

Toru HORIKAWA (Kyoto University of Foreign Studies), "Tariqas and Their Political Roles in Central Asia in the Sixteenth Century"
 堀川氏は,16世紀の中央アジアにおけるシャイフとタリーカの政治的役割に関して,遊牧政権の君主とムスリムとの仲裁者,外交使節としての側面から報告した。チュルク・モンゴル系遊牧民はイスラムを受容したわけだが,彼らにとってムスリム社会は経済的基盤であって,イスラムはその支配のための一手段であったことは否定できない。しかしその中でもシャイフたちはタリーカの影響下に遊牧政権の圧制を抑制しようとしたのである。またシャイフたちのもう一つの重要な政治的役割は君主の使節としてのそれであり,彼らはしばしば巡礼団の長としてメッカへ赴き,オスマン朝への外交使節としての役割を果たしていたのである。

Yasushi IMAMATSU (Ph.D. candidate, Kobe University), "'Saints' in the Seyahatname of Evliya Celebi"
 今松氏の発表は,エヴリヤ・チェレビーのコンスタンティノープル征服に関する叙述及びその中に現れる聖者の行動を分析し,聖者としてのガージー,シャヒード,スーフィーの関係・結合を明らかにしようとするものであった。今松氏は特に,殉教者の遺体を発見し埋葬するスーフィーの役割に注目する。シャヒードが聖者として崇拝され彼の廟が参拝されるために,エヴリヤ・チェレビーの叙述はその廟の起源を説明しており,その発見・埋葬者としてスーフィーが描かれているのである。また氏によれば,コンスタンティノープル征服に参加したと記述されるスーフィーやウラマーは,(1)他の伝記においても言及される著名な人物,(2)ほぼエヴルヤ・チェレビーにおいてのみ言及される人物,の二種類に分類され,氏は(1)の中に明らかに征服活動に参加していない人物が確認できる点を指摘する。著名な聖者たちが征服活動に関する功績に関連づけられて言及されているのである。この可能性は(2)においても否定できない。エヴリヤ・チェレビーの叙述はガザ(ghaza)に参加した聖者の記憶を反映していると共に,ガザの記憶が多くの聖者を生み出したという可能性もあるのである。この発表では,聖者がどのように語られ,またその言説の中から聖者が生み出される可能性が提示されており,非常に興味深かった。

Masayuki AKAHORI (Sophia University), "Partly Saints and Partly Bedouins: the Murabitin People among the Bedouin s of the Western Desert of Egypt"
 赤堀氏は,エジプト西方砂漠のベドウィンにおける聖者崇拝の例を報告した。その文化においては,スーフィズムは存在しないが,聖者崇拝は重要な役割を果たしている。また聖者の後裔が遊牧民となり,彼ら独自の遊牧集団を構成したことも特徴的である。すなわち,ベドウィンの部族構成においてMurabitinはSa'adiの下位に属するが,Murabitinは聖者の後裔と呼ばれる存在で,宗教的側面を保持しながら遊牧民となったのであり,彼らに受け入れられた部族構成における下位性というのは,彼らがベドウィンたることを示すために必要であったのである。また興味深かったのは,エジプトの西方砂漠における聖者崇拝の地域的特徴である。そこでは,聖者が神の奇跡(baraka)の伝達者として崇拝されるようになるのは故人になってからであり,そうした聖者たちは共通して外来者である。ベドウィン内部の生活に新たな変化をもたらしうる外来者というのは,神の奇跡を伝達する能力を有する人物として,聖者となるのに適しているのである。そして,生前の聖者に関しては,その伝達するものは奇跡ではなく,知識だったのである。

Thierry ZARCONE (CNRS-Paris), "Bridging the Gap between Pre-Soviet and Post-Soviet Sufism in Ferghana Valley (Uzbekistan): The Naqshbandi Order between Tradition and Innovation"
 Zarcone氏の発表は,ウズベキスタンのフェルガナ盆地におけるエリート・スーフィズム,Naqshbandiyya-KhafiyyaとJahriyyaを概観し,Naqshbandiの系譜の現状とスーフィーの教義と実践の伝達を考察しようとするものであった。氏は特に,Naqshbandiyya-Husayniyyaとその指導者シャイフ・イブラヒムジャンとシャイフ・クルバン・アリ・アフマドに注目する。特に筆者の関心を引いたのは,ソヴィエト時代の到来以前ほどは現在の中央アジアにおいて聖者崇拝が広く普及していないと指摘された点であった。それは,聖者廟がマルキシズムの攻撃対象となったため,スーフィーが敵から発見されないためにそのような場所に接触するのを避けた結果である,と氏は説明する。また外来したNaqshbandiyyaとして,トルコのイスケンデル・パシャ・タリーカを紹介するが,それは多分にウズベキスタン政府の干渉のもとに外来したものであり,中央アジアのNaqshbandiyyaに変容を与えることはなかった。中央アジアにおいて確立した外来のスーフィー教団はトルコのNaqshbabdiyya-Khalidiyyaである。氏の私見では,それはNaqshbandiyya-Khalidiyyaがアタチュルク・トルコから継承した「近代性」が,ウズベキスタンの若いムスリムを引きつけたのである。彼らにとって,中央アジアのNaqshbandiyyaはあまりにも古風で伝統的な地域社会に結びつきすぎていたのである。

II-2.
 以上,前述されたように,「聖者及びスーフィーの定義,その歴史的変遷」というのがセッション全体を貫く大きなテーマだったかと思う。示唆的であったのは,「聖者がどのように語られるか(語られたか)」という視点が提示されたことであった。またこれまでの歴史研究で扱われてきた「聖者及びスーフィー教団の政治的・社会的役割」に関する発表において,近現代を扱うものが多かったことも印象的であった。全体的な大きな成果としては,「聖者」と「スーフィー」という,時に重ね合わせられて用いられてきた概念は,個々の時代・地域に応じて慎重に区別して扱われなければならない,ということが強く再認識されたことであったと思う。セッションの個々の発表は,精力的にこのテーマに挑んだものであった。しかし残念ながら,質問の中でも再三繰り返されていたが,結局「聖者とは何か」という問いに対して,総括的な見解は出されずに終わったように思える。今後のこうした研究の積み重ねが,その問いへの答えをもたらすであろうことを期待しつつ,報告を終えたい。


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