イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 3: Ports, Merchants and Cross-Cultural Contacts

茂木明石(上智大学大学院外国語学研究科)



3-1
 dragomanという言葉は、レバントにおける通訳官ないしはガイドを意味し、アラビア語のturjum(nにその起源を持つ。オスマン朝時代には、首都イスタンブルを始めとして、政治・経済上重要な地位を占める都市には、ヨーロッパ各国の大使や領事がいた。それら大使や領事たちは、オスマン朝及び州の支配者との外交や商業の交渉のために、dragomanを雇っていた。Dragomanは、通常現地生まれのユダヤ教徒やキリスト教徒が主であり、アラビア語などの中東諸言語に精通すると同時に、雇用主である大使や領事の母国語をあやつることの出来る者たちであったために、大使・領事から重用された。

 アレッポは、18世紀オスマン朝において、イスタンブル、カイロに次ぐ大都市で、地中海とメソポタミアを結ぶ商業の中心地であった。ヨーロッパの主要国家の領事達は、そこに領事館を設置し、カピチュレーションの規定に基き、現地のキリスト教徒やユダヤ教徒をアラビア語、オスマン語、ヨーロッパ諸言語の通訳官として雇い、彼らを外交上の保護下に置いた。これらのdragomanは税を免除され、商業活動などで各種の特権を享受することが出来た。

 これらのdragomanは、雇用主の祖国とオスマン朝又はその州との間に緊張状態または戦争状態になった際に、スパイの疑いをかけられたり、生命を脅かされることも時にはあった。しかし、ヨーロッパ諸語と現地の言葉(アラビア語・オスマン語など)や現地の事情に通じたdragomanは、ヨーロッパの領事や大使にとって貴重な存在であり続けた。

3-2
 オスマン朝時代のシリア(Bil(d al-Sh(m)は、4世紀にわたるオスマン朝支配の間に、その役割を著しく変えた。その変化を促進させたものは、商人「階級」を構成した諸集団であた。「イスラム都市」の類型論は、歴史研究の片隅に追いやられてしまった感があるが、20世紀以前の都市行政の詳細な研究によると、「イスラム的」と呼び得るような原理が特定の規定の背後に存在することがわかる。商人達は、都市構造を時には目に見える仕方で変えた。彼らが具体的に変えたのは、彼らが働き、生活する建物であった。形や法において「イスラム的」なものは、必ずしも内容において「イスラム的」であることを意味しなかった。アラブ・レバントの諸都市での様々な商業的な接触は、異なった宗教的・文化的背景を持つ人々を、ある程度までその都市の景観に適応させ、またそれらの人々によって、都市にあらたな景観がもたらされたのである。

3-3
 12世紀後半以降レバントに進出したヨーロッパの商人たちは、ムスリムに支配される商業都市に居住地を築き、現地社会と接触した。アレクサンドリアは、エジプトの地中海岸に位置する主要な港市であり、そのような接触地の一つであった。その都市におけるヨーロッパの主要な貿易国は、15・16世紀の大半を通じてベネチアであった。ベネチア人は、16世紀前半のポルトガルのインド洋進出によるレバント貿易の減少とオスマン朝によるマムルーク朝滅亡という二つの事件から大きな影響を受けた。

 マムルーク朝末期において、ベネチア人とスルタンは香辛料の売買をめぐって対立していた。スルタン・アルガウリーは、財政上の必要から胡椒の専売を強化した。ベネチア人は、困難な交渉を強いられた。1510年に、スルタンは、領内に住むヨーロッパ人をヨハネ騎士団とサファビー朝への威嚇のために拘禁した。このために、香辛料貿易は衰退し、ベネチア人とスルタンとの間の商業活動も停止した。

 オスマン朝は、エジプトの新たな支配者となると、商業秩序を再建する態度を示し、またカーディーによって監督される関税制度を定めた。実際の徴税は、徴税請負人(ムルタズィム)となったユダヤ教徒に委ねられた。エジプトの総督の支持を得たユダヤ教徒は、ベネチア人の活動にしばしば圧力を加えたが、ベネチア人は時としてエジプトの問題をイスタンブルに持ち込んだ。その結果両者の対立は、1533年に終わった。

 しかし、ユダヤ教徒は、16世紀半ばまでカイロとアレクサンドリア間の物資の流通を完全に支配下に置いていた。そのためベネチア人たちは、しばしばカイロに居住する総督に認可を求めた。オスマン朝は、ユダヤ教徒の経済活動を拡大する一方で、ベネチア人の商業領域をも広げようとした。エジプトでのベネチア人の商業は、ヨーロッパの商人とオスマン朝の臣民との競合という新たな様相を呈するに至った。この特徴は、オスマン朝支配下の多くの社会に共通するものであった。

3-4
 マルセイユは二元的な性格を持っている。それは、フランスの港であり、西ヨーロッパに属し、ボルドー・ナント・ロンドン・アムステルダムに類似している。その一方で、それは、ベネチア・スミルナ・アレクサンドリアなどのように、キリスト教ヨーロッパとムスリム・オリエントとが接触する地中海の港でもある。マルセイユは、東西の港市の比較研究にふさわしい都市であり、両文明を映し出す二重の鏡ということができる。

 マルセイユは、中世から経済発展・人口の増加に伴い、より大きな市壁が建設されてきたが、その壁は岸にそって建設されることはなく、都市と港との間の障壁とはならなかった。この港に対して開かれた都市の構造は、ジェノバやアムスレルダムのような沿岸都市と共通であり、港に対して連続する市壁によって閉じられた構造を持つボルドウ・ルーアン・アントワープなどの河口都市とは対照を成す。

 マルセイユは、「高い町」と「低い町」の二つの地域に分かれる。低い町は南方の地を占め、港に面し、人口が密集し、都市生活の中心をなし、商業も主としてこの地域で営まれる。高い町は、主教の都市であり、宗教的な地域である。

 16世紀初頭、マルセイユの商人は、イタリア人、コルシカ人、スイス人、主にプロバンスやリヨンなどのフランス諸州などの出身者で占められていた。ジェノバ人及びコルシカ人が、当時の地中海貿易で中心的な役割を担っていた。マルセイユには、定住したムスリム商人は、殆ど存在しなかった。ユダヤ教徒やアルメニア人のような他のレバント人は、現地の利害を代弁する商工会議所の政策によって17世紀を通じて排除された。従ってこの問題は、ナショナリズムの問題として捉えられるべきではなく、利害の問題として捉えられるべきである。マルセイユは、地中海の人々に対してよりも、北方の人々にとって魅力的であった。それは、またレバントの異教徒よりもスイスのプロテスタントに対してより開かれていた。

 このような差別はあったが、宗教的・民族的な違いによる居住の差別・区別は存在しなかった。人々は、彼らが属する職業の区別に応じて住居を選択していた。これは、宗教ごとに住居が異なるスミルナのようなレバントの港市と対照を成している。マルセイユのこのような二元的な性格は、時には地中海を志向し、時にはヨーロッパに傾いた。

3-5
 17世紀と18世紀初頭のイスファハーンのアルメニア人は、多くの点において、典型的な文化間の仲介者であり、ムスリム・サファビー朝イランとキリスト教ヨーロッパの間を仲裁した。境界線や周縁部に居住するアルメニア人は、完全にサファビー朝イスファハーンの一部でもなければ、完全に分離されてもいなかった。そのありようは、シャー・アッバース1世の帝国都市としてのイスファハーンの発展に適応したアルメニア人とジュルファのアルメニア人市外にみることができる。自治的なアルメニア人街は、帝国都市の中心からある程度離れてはいたが、その都市計画に組み込まれ、統合されていた。イスファハーンにおけるアルメニア人の存在は、ムスリム住民との間に軋轢を生み出した。また、アルメニア人は、サファビー朝とヨーロッパとの間の商業・外交において、代理人の役割を果たした。

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 アッバース港(Bandar Abbas)は、ホルムズ海峡の港市であり、サファビー朝がホルムズ島を1622年に征服した後に発展した。市壁が貧弱であることや、オランダ東インド会社、イギリス東インド会社の大規模な工場があることなどがアッバース港の特徴である。また、総督やサファビー朝によって任命され、市外から派遣されるシャーバンダルという役人の住居以外に目立った建物は存在しない。

 アッバース1世は、イギリス東インド会社に、毎年アッバース港に課せれらる関税の半分を受け取る特権を与えた。それは、サファビー朝のホルムズ島征服における彼らの貢献に対する報酬であった。サファビー朝側にとっては、それは王の恩恵の印に過ぎず、イギリス東インド会社にとっては、それは二つの国家間の恒久的な条約であった。ここに両国家の意識のずれがあり、イギリス東インド会社は、サファビー朝が1722年に崩壊した後も、アフガン人の政府とナーディル・シャーに同じ特権を要求した。

 ヨーロッパ人とアッバース港の地元住民との間には、しばしば軋轢や対立が起こった。それは、イギリス兵士の殺害をめぐるシャーバンダルとイギリス東インド会社との争い、イギリス人船長によって奴隷にされた女性の訴え、オランダ東インド会社とアフガンの支配者との対立などである。これらの事件は、ヨーロッパのヘゲモニーが優勢となる19世紀とは異なる状況下で起きたのであり、従来あまり知られていないヨーロッパと現地の住民との関係に光を当てる手がかりとなるものである。

3-7
 ポンディシェリーには、1740年代に妬く50人の貿易商人がおり、インド会社の業務及び個人的な活動に従事していた。フランス人の貿易商人の内訳は、パリ、ナント、サン・マロ出身者が多かった。彼らは、インド会社業務従業員、財務取扱人(フィナンシエ)、国際貿易経験者、インド会社付き守備隊配属経験者などであった。彼らは、貿易の資金を家族や知人などの人脈を通じて整えていた。彼らの海上商業は、いわゆるアジア地域間貿易と言えるものであり、その成功には綿密な計画、計算、現地商人との友好な関係が不可欠であった。船舶については、1735-1740年の間には年間9隻以上であり、商人たちは商会を結成し、外国商人と結びつくなど様々な方法で取引を成功させようとした。また船荷監督との間には、面倒で時間のかかる交渉を忍耐強くやる必要があった。それでも海上商業の利益は大きいものであった。

 陸上商業は、ヨーロッパ向け商品の購入のためのものであった。それには、仲買人(dubash)、代理人(paquers)などとの交渉が必要であった。また資金不足のため前払い制度が発達した。このような商業が展開されたポンディシェリーは、コスモポリタン都市と呼ぶにふさわしいものである。

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 港市のマラッカ建設は、東南アジアのイスラムの歴史における画期的な事件と見なされている。マラッカは、15世紀を通じて、その地域で最も重要な国際的商業港として発展し、マライ語とマライの慣習は特権的地位を獲得した。マラッカの支配者は、1430年代にイスラムを受容し、東南アジアのイスラムの最前線となった。しかし、カラッカを建設したのは、非イスラム的環境下であり、マレイの新たなエリートの形成を促進したのは、ムスリムの信仰に基く婚姻であった。外国の商人と現地の住民との結婚は、ヨーロッパ人の来航以前にコスモポリタンな環境を作り出すのに重要な役割を演じた。マラッカ王国は、1511年にポルトガルに滅ぼされるが、それはポルトガルの火気の優勢ばかりでなく、そのような多民族融和的な状況がすでに失われていたマラッカの内部事情に主要な原因があったと思われる。


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