イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 3: Ports, Merchants and Cross-Cultural Contacts

飯田巳貴(一橋大学大学院経済学研究科)・宮腰祥子(北海道大学大学院文学研究科)


 
 Ports, Merchants and Cross-Cultural Contactsと題された本セッションは、シンポジウム全体においても参加者の高い関心を得ていたのではないだろうか。その要因として、まず現代の世界情勢が挙げられるだろう。加えて、特に西欧とイスラームの異文化接触に視線を転じたとき、日本人研究者はオリエンタリズムから比較的自由な立場にあり得るという意識も少なからず作用していたのではないだろうか。客観的なアプローチの達成度はともかくとして、この事は近年の日本におけるイスラーム研究の発展と決して無関係ではないだろう。
 しかし一つのセッションとして振り返った場合、他のセッションに比べやや散漫となってしまった感があった。異文化接触という言葉の持ついわば魅力に対し、それぞれの文化の背景への掘り下げなどの点で未消化に終わってしまった部分が多かったのではないだろうか。そうした課題も考慮しつつ、いくつか印象に残った報告について感想を記したい。
 深沢克己氏の報告、"Urban Topography and Merchant Circles of Marseilles in the Eighteenth Century"は、マルセイユという一都市の考察を通して、都市を考察対象とした際の問題点について示唆している。マルセイユは西欧圏に属するフランスの港町及びキリスト教ヨーロッパとイスラーム世界の接触点としての地中海の港町としての性質を併せ持つ都市であり、その分析は報告者も述べているように、比較研究のためのパースペクティヴを提示した。
 まず、マルセイユの地勢学的な構造を、時代を追って明らかにしている。その過程においては、マルセイユの大西洋岸の港町との差異について指摘されている。続いて都市への様々な流入者と商人の関係について考察している。16世紀初頭からマルセイユ商業にはフランスのみならずイタリア等からの参入者がみられ、また地中海交易においてはジェノヴァ人、コルシカ人などが活躍していた。その後のイタリア商人の長期にわたる衰退の後、中欧の商人達の経済的影響力の増大とともに、北アフリカ出身のユダヤ人達の台頭が見られた。しかしマルセイユは外国商人に対しあまり開放的な都市ではなく、ヨーロッパ人に優位性を与え、一方でレヴァント人を排除するという姿勢がみられたのだが、その主な理由として宗教問題及び経済的な要因が挙げられている。また、マルセイユの居住地域は宗教的・民族的な要因によってではなく、職業による住み分けが見られたことからも、当時、ミッレト(millet)制と呼ばれる異宗教間の共存システムの存在した他の地中海都市(アレッポなど)との違いが指摘されている。以上の点から、マルセイユは物理的構造という点においては地中海的な要素を持つものの、社会的には地中海沿岸に見られるコスモポリタンな港町と異なるヨーロッパ的な要素を持った都市であると結論づけられている。
 深沢報告においては、やや概略的であったものの時代的推移を念頭に置いた都市構造、都市内部の人的交流、及びそれらに基づいた都市の分類について言及されている。また、都市の非開放性に関連して、レヴァント商人をマルセイユに誘引したい中央権力と、独自の背景を有する地域の商人達の利害という中央と地方の構図に触れていることも着目すべき点であろう。都市研究に共通するいくつかの視点をセッション全体への前提として提示するためにも、本報告はセッションの冒頭に持ってきたほうが効果的であったのではないだろうか。
 堀井優氏の報告 "Venetians in Alexandria in the First Half of the Sixteenth Century"は、16世紀半ばにヴェネツィア領事がアレクサンドリアからカイロに移住したことに着目し、マムルーク朝からオスマン朝へと支配体制が変わる中で、16世紀のエジプト市場に見られた構造変化を分析している。港町アレクサンドリアで取引きされる商品のうち、胡椒などの香辛料が重要な地位を占めていたことは周知の事実であろう。マムルーク朝時代、スルターンは歳入確保のため胡椒の専売制を敷いており、この商品を買いつけて地中海の北側に運んでいたイタリア商人にとってはなはだ不都合な状況が続いていた。しかし1517年にオスマン朝がエジプトを征服すると、事態が大きく好転する。オスマン朝が前任者であるマムルーク朝と同様の専売を行なった証拠は見つかっていない。しかしスルターンの専売制という直接の圧力から開放されたヴェネツィア商人は、オスマン朝のもとで新たに設置された税機構と、徴税を請け負うオスマン臣民、特にユダヤ教徒との軋轢という新たな問題に直面することになった。ユダヤ教徒は徴税だけではなく、カイロとアレクサンドリアの市場をコントロールし、エジプトの外に伸びるネットワークを利用してヴェネツィア商人の購入路をますます狭めていった。オスマン政府当局は、不当な課税に対するヴェネツィア領事の訴えに対し比較的公平な態度で調停したが、上記のような情勢を鑑みたヴェネツィア領事は1553年にカイロへ居住する許可を得て移住する。しかし結果的には、この移住によってエジプトにおけるユダヤ教徒のネットワークが打撃を受けることはなく、カイロ市場での香辛料買付を有利にすすめるというヴェネツィア側の思惑を満たすことはできなかったようである。
 堀井氏の報告では、ヴェネツィアとオスマン朝との関係がケース・スタディーとして取り上げられている。ヴェネツィアとオスマン臣民、そして調停機関としてのオスマン政府当局との相互関係においては、政治理念と行政、経済の要素が複雑にからみあっている。従来のオスマン朝社会経済史研究では、首都臣民への食糧供給、軍事産業を中心とした国家の統制など、オスマン朝に限らずイスラームの統治理念に基づく中央集権的な側面が強調されてきた。しかし本報告で発表されたユダヤ教徒の事例では、徴税請け負いなど国家システムと全く無関係とは言えないものの、オスマン朝の国家理念とは一線を画して、各個人が自身の利潤追求に基づいて行動していたと見ることもできるだろう。その意味で、本報告はイスラーム社会に限定されず、より広範囲な地中海都市社会について考えるに際しても重要な手がかりを提供しているといえよう。一方で史料の性格にもよるだろうが、アレクサンドリアまたはカイロで展開された大規模な国際交易だけではなく、ユダヤ教徒も含む現地イスラーム社会の商業慣行や具体的な人々のつながりといったものについて言及があれば、国際交易と域内交易がより強く関連付けられ、近世イスラーム世界のダイナミズムの解明により大きく貢献することと思われる。
 "The Traders of Pondichery and Their Activities in the Eighteenth Century"と題されたPhilippe HAUDRERE氏の報告は、18世紀のポンディシェリーにおけるヨーロッパ貿易商人たちの活動を、主に17世紀末からインド商業活動への参入を試み始めたフランス商人を軸に再構成したものである。インドで商業活動に携わるフランス商人たちの経歴を追った後、「海上商業」と「陸上商業」の二つから構成されるポンディシェリーの商業について概観している。海上商業はアジア間の様々な交易路で行われ、その利益率は高いものであった。一方の陸上商業はインド会社によるヨーロッパ向けの積み荷購入が中心であり、dubashとよばれる仲介人たちが大きな役割を果たした。仲介人の多くは現地の裕福なヒンドゥー教徒であり、ヨーロッパ商人と現地人の間の通訳、保証人業務を行った。彼らの日誌は当時の商業活動の一端を示す有効な史料となる。当時のポンディシェリでの商業活動は、フランス、イギリス、オランダ人といったヨーロッパ商人、現地のアルメニア人、ヒンドゥー教徒、ムスリムといった多様な人々の協力の下で行われ、いずれかの人々による一方的な優位性はまだ存在していなかった。しかしイギリス支配の実施により、ヨーロッパ人による優位性が主張されるに至ったと結論づけられている。
 HAUDRERE報告は「海上商業」と「陸上商業」という層の異なる二つの枠組みから現地のマイノリティー間の活動に焦点をあてている。しかし主にフランス商人の日誌を史料として用いていたためか、ヨーロッパ商業活動の一環としての考察という印象が拭えなかった。また、現地仲介人をはじめとする多様な集団同士が、まったく等しい関係にあったとは考えにくく、さらに具体的な検証が必要ではないかと思われる。 
 本セッションでは港町という共通テーマのもとに多くの事例が報告され、異なる文化的背景を持つ人々を融合していったイスラーム社会の様々な側面が明らかにされた。そうした柔軟性がイスラーム社会の豊かさであることが再確認された一方で、全体としてはいささか雑多な印象が拭えなかった感もある。「港町の共通性」というものはおぼろげに浮かび上がるものの、あえてイスラーム世界の港町という像を強く打ち出すには至らなかった様に思われる。本シンポジウムはイスラーム地域研究に関するものであり、参加者の多くがイスラーム的規範について何らかの知識を持っている可能性は低くない。しかしこうした背景が、イスラーム社会やイスラーム的規範というものを客観的に見ようとする姿勢にいささか水を差しているとも言えないだろうか。例えば港町の歴史的展開において商業が重要なファクターであることは、本セッションの各報告をみても明らかであろう。しかし商業関係の史料がほとんど残されていないイスラーム文化圏に関しては、どうしてもヨーロッパ側に残された史料に依拠せざるをえず、従ってその視点に一定の制限がかかることは避けられない。史料の残存状況と研究の方向性の問題は何もイスラーム地域研究に限ったことでなく、報告者諸氏もその点は充分に認識されていることに疑いの余地はないが、欲を言えば外国人との関係などにおいても、もう少し現地イスラーム社会の慣行や反応という視点が欲しかったように思う。
 最後に司会進行に関して、司会諸氏の努力とご苦労は察するところ余りあるが、ほぼ一日がかりの長時間にわたるセッションで多数の事例が次々と報告される中、聴衆が消化不良に陥らないために、全体討論で多少とも各報告やセッション全体の方向性をまとめていただけるとよかったのではないだろうか。共通のテーマに沿ってセッションが持たれたのであるから、統一的なモデルの提唱でなくとも、多様なら多様なりに、何らかのまとめが必要であろう。その意味で発表者が司会を兼ねるよりも、オブザーバー的な存在の司会がむしろ適任であったようにも感じた次第である。


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