イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 2: The Public and Private Spheres in Muslim Societies Today: Gender and the New Media

熊野健太郎(東京都立大学大学院社会科学研究科)

見市建(神戸大学大学院国際協力研究科)


 
 本セッションは、ジェンダーとメディアに焦点をあてて、公的領域と私的領域の区分の揺らぎからムスリム社会を捉えようという試みであった。各発表がテーマに沿って連動しており、今回の会議中、おそらくもっとも統一感のあるセッションであった。
 まず大塚和夫氏は「アラブ社会におけるジェンダーと空間−変化する境界線」と題してこの議論の基調となる発表を行った。これまでさまざまな学問領域で議論されてきた公(public)と私(private)の二分法は、イスラーム世界においては街頭など社会的活動の領域すなわち公的な領域は男性が主に占める場であり、家庭という私的な領域は女性の場であるというような仮定があった。だが、大塚氏が主たる事例として取り上げたエジプトでは、成人女性の賃金労働者の割合が1980年の8%から1994年には23%に上昇したここ二十年間でその意味は大きく変わった。1990年代のエジプトにおけるフィールド調査では、ヴェールをつけた女性が街頭に多く見られるようになった一方で、それまで公的な領域として男性が独占的に利用していたコーヒーショップ(アフワ)で、女性が男友達と水パイプを吸う光景がみられるようになった。逆に、アフワで話したがらず、テレビを見るために家路を急ぐという若い男性銀行員にも出くわした。少なくともアラブ世界のいくつかの都市の中心部では、女性がつい10年ほど前まで閉め出されていた街頭などの場所に社交の場を獲得し、男性と女性混成の公的な領域が登場したということを示している。現代のアラブ社会はジェンダー化された領域としての公/私の区分が変化していて、これからのグローバリゼーションの時代に公/私という概念それ自体を再考する必要があるのである。
 ジェニー・B・ホワイト氏の「トルコにおける新しいイスラーム女性−空間、場所、階層のジレンマ」は、トルコにおける女性のヴェール着用の形態変化とそれに対する市場とメディアの影響について論じた。トルコの法律では、公的な場においてヴェールやヘッドスカーフなど宗教を象徴するような服を身につけるのは禁止されていた。だが、1980年代に入ると、テレビやラジオに限らずインターネットなど新しいメディアを通して、女性の権利を主張するイスラーム主義者がtesetturと呼ばれるヴェールを戦略的に広めていった。tesetturは保守的な女性たちに政治的活動への手段を与えるまでになり、公共機関や大学にヴェールをまとった女性たちが進出するようになる。ところが、1990年代のグローバル化の波は、tesetturの意味とトルコ社会における女性の立場をさらに大きく変化させた。それまで、tesetturは共通の社会政治的シンボルであり、社会階層の違いを隠してきた。しかしメディアに新しいヴェールのデザインが登場し、中産階級の女性たちが政治的な意味合いより、ファッションや自己実現の形式としてこれを纏った。他方で低所得者層は、家父長的で信仰に篤い家庭という旧来のイメージ通りの私的領域へと避難し、中産階級と距離を置くようになった。ヴェールが象徴する意味が変化することによって、社会階層によって分裂する公/私の領域が顕わになったのであった。
 鷹木恵子氏の発表「女性の内職と新しいメディア」は、チュニジアのジェリード地方において、家庭(私的領域)まで押し寄せる市場経済と衛星放送(公共領域)によって、女性の労働が新たな局面を見せていることに注目した。チュニジアにおいては今日でも労働に関して、厳しいジェンダー的区分が存在する。例えば、女性が外で働くことはその一族の男性が経済的に無力であることを暗に意味してしまい、一族の恥になってしまう。それゆえ、女性が家の外に出て賃金労働する事はなかった。しかし、女性は家庭内にいても衛星放送から入ってくる世界の情報と、そこに映し出される近代的生活と物資にあこがれを持つようになった。そして、そのような生活と物資を手に入れようとする願望が、女性の内職を促進したのである。私的な領域に公的な領域の出来事が影響を与えたこの事例は、一見分断しているように見える公/私が相互補完的であり、相互作用を起こすことを示している。
 山岸智子氏は一転して、日本の事例をとりあげた。「日本におけるイラン人労働者−隔離と友人関係」と題し、日本におけるイラン人労働者を通して、公的/私的領域の形成とその中におけるメディアの役割について論じた。非合法労働者であるイラン人は行政によってはその存在が認知されていないが、彼らの存在は報道されることによって可視化されている。助けられも追い出されもしない、見えるが見えない奇妙な領域に彼らは立たされていた。イラン人たちは代々木公園に集まったが、日本人はその集まりにオリエンタリズム的な「ペルシアのバザール」のイメージを重ねた。しかしイラン人にとって都市の公園は現代テヘランにみられるような「新しいライフスタイル」の象徴であった。代々木公園の集まりが違法行為のイメージと結びつけられ、彼らは事実上排除された。しかし、彼らはこれまでになかった「友人」による新しい社会関係を日本で発見した。質疑応答では、アゼルバイジャン系のイラン人も友人関係に含まれていることも明らかにされた。日本に来たイラン人にとって「国民」は自他を区別する明確な境界となった。山岸氏のいう「モダンあるいはポストモダンな状況」の中で「友人」と「国民」はいかに交差するのであろうか。
 ジョン・W・アンダーソン氏の「サイバースペースにおけるムスリム・ネットワークとムスリム自身−ポストモダン公共領域におけるイスラーム」はインターネットによるネットワークが再形成するムスリムの公共領域の社会的な動態に注目した。近年のインターネット技術の急速な発展とその利用者の拡大は宗教的権威や活動家ではなく、専門職につく「穏健な」中産階級によるブルジョワ的な公共領域の特徴をみせている。つまり、これまでラディカルな運動家による活動的なイスラームが、続いて宗教的な権威による公式化された儀礼がインターネットに流されてきた。そこに最近の傾向として穏健な専門職が現れた。科学的訓練を受けた分析的な言説が宗教に持ち込まれ(クレオール的言説)、家族と国家の間に生まれる公的領域を埋めるというのである。アンダーソン氏はカタールを基盤とするシェイフ・ユースフ・カラダーウィーによる野心的でプロフェッショナルなイスラームサイトを例として取り上げた。シェイク・ユースフは穏健で、例えば9月11日のアメリカに対するテロ行為をコーランに反するものと非難した。このサイトはアラビア語と英語によって発信され、また女性に重きをおいている。インターネットの双方向的で対話的な性格から、身体的・社会的な距離を超えて広い層にアクセスが可能なのである。評者にはホワイト氏とアンダーソン氏の発表の構造が似ているように思われた。いずれの発表においても、経済発展による新しい中産階級の登場とそれに伴う(主に女性の)高学歴化とジェンダーの変化が鍵となっている。
 アイケルマン氏は「公的・私的領域におけるジェンダーと宗教」と題し、公式な制度=男性、家族や家庭=女性、という既存の考え方に対して公的領域と私的領域の境界自体を問う発表を行った。大塚氏の発表に見られたように、家庭とその外、私的と公的という境界が揺らいでいる。公/私の二分法から、女性の役割が私的領域に限定されていると考えるのは誤りである。女性は男性を通じて社会において強い役割を果たすことがあるし、夫や親戚とともに社会的紐帯を強化し、情報やコミュニケーションのチャンネルになる。公私の区別より拡大家族の存在がむしろ重要である。さらに湾岸諸国におけるdiwaniyyaなど家族を超えた非公式な社会制度が公私の区別を浸食する。家族やジェンダーの概念や実際のあり方は、国家や宗教的権威による「上から」の明らかな統制や変化に加えて、労働移民や新しいメディア、古い制度の新しい利用など「下から」の変化の原動力がより強力である。
 アイケルマン氏の発表は、多くの事例を引用しながら全体を総括するような役割を果たしていた。時間的な制約からフロアとの議論はあまり深められなかったが、各発表の論旨は明快でありまた全体の構成もよく練られていた。非常に「後味」の良いセッションであった。


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