イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 2: The Public and Private Spheres in Muslim Societies Today: Gender and the New Media

後藤絵美(東京大学大学院総合文化研究科)


 
1.はじめに
 預言者ムハンマドに帰される次のような言葉が伝えられている。「女性は家の私室にいるとき神の面前に最も近い。女性は家の中庭で礼拝するほうが、モスクで礼拝するよりも望ましい。また、家の中庭で礼拝するよりも、家の中で礼拝するほうがよく、寝室で礼拝するほうが、それ以外の部屋でするよりもよい*」ハディースには女性がモスクへ行くことを認めるものが数多くあるにも関わらず、「よりよい」という言葉によって、女性の領域がしだいに家の奥へ奥へと限られていった様子が窺える。ムスリム社会に根ざしたこの暗黙の了解―「公の領域」は男性のものであり「私の領域」は女性のものである―が近年さまざまな面において変化しはじめている。
 「現代ムスリム社会における公/私の領域―ジェンダーとニューメディア―」と題する本セッションでは、人類学と現代研究というアプローチによる6名のパネリストが、現代のエジプト、モロッコ、トルコ、チュニジア、イラン、日本、あるいはそれらを一般化した空間における「公/私の領域」の変化について報告、問題提起を行なった。ひとつひとつの報告は、異なる地域、空間に関するものであり、歴史や背景もさまざまである。一見ばらばらに見える各地の変化を、「ジェンダー」という経糸、「メディア」という緯糸を意識することによって「現代ムスリム社会」の現象としてまとめてみよう、というのが本セッションの目的である。現代研究にも人類学にも門外漢の筆者であるが、幸いにも本セッションに参加することができ、これまで気になっていた現代ムスリム社会の諸現象―女性の再ヴェール化と社会進出、メディアの普及とその影響など―に隠れる経緯の糸の在処を知ることができた。では、不器用な指を駆使して糸の絡みをほぐしていこうと思う。

2.女性の領域
 「男性にとって女性ほど有害なフィトナはない」とは本セッションにおいてEickelman氏が引用した預言者ムハンマドの言葉である。女性の美、あるいは存在そのものが男性を信仰から遠ざけ、破滅や地獄へと導く。「公の空間」で男女が混在することは、この「フィトナ」を招く危険がある。そのため、ムスリム社会では男女の混在が長い間避けられてきたのである。しかし、エジプトでのフィールドワークの中で大塚氏は、1990年代後半、カイロのアフワ(コーヒー店)や、エジプトのファーストフードである「コシャリ」のレストランで、あきらかに未婚と思われる男女が連れだって入って行くのを目撃した。これは、アラブ女性がそれまで(1980年代以前)は入れなかった「公の空間」に入りはじめただけでなく、「公の空間」が「男女が評判を落とすことなく共にいられる空間」に変化しつつあることを示すと大塚氏は考える。同時に、大塚氏はこうして「公の空間」へと進出する女性の多くが何らかの「ヴェール」を着用していることを指摘する。このヴェールと「公の空間」への進出とはどのような関係があるのだろうか。
 政治とヴェールの関連について論じたWhite氏は、このヴェールを「活動するための手段means of mobility」と呼び、それまでの「隔離seclusion」のためのヴェールと区別する。White氏のフィールドであるトルコは「公の空間」でのヴェール着用禁止という特異な事情を持つ国である。それまで家に閉じこもり、モスクに行く男性家族員を通して間接的にイスラームに関する情報を得ていた「保守的」な女性たちは、近年、ラジオやテレビなどメディアの普及によって、家の中で直接大量の情報を得られるようになった。テレビ画面に映る女性活動家の姿は政治や宗教がもはや男性だけの問題ではないことを感じさせた。そのとき女性活動家たちが着用していたのが「テセッテュル」(新しい形のヴェール)である。「テセッテュル」は世俗政権に対立するイスラーム派のシンボルとなり、それさえ着用すれば、イスラーム主義の名のもとに「名誉」を汚されることなく外出することが可能となった。
 ヴェールはメディアによって政治的シンボルとなり、女性が「公の空間」へ出ることを可能にした。この図式は近年のムスリム女性の再ヴェール化一般にあてはまるだろう。ムスリム女性として「活動するための手段」というヴェールの保守的なイメージの固定は、女性を「公の空間」へと進出させた。それまで男性を介して間接的に「公の空間」の活動に参加していた女性たちは、身体的な進出によって「公の領域」に直接入れるようになったのである。

3.メディアと生活空間
 女性が「公の領域」へと進出しただけではない。「公の領域」も女性の生活空間へと進出し始めたのである。White氏によるトルコ女性へのメディアの影響もその一例であるが、チュニジアのジェリードにある村に関する鷹木氏の報告はそのさらに顕著な例である。テレビは1980年代にジェリードの村々に普及し始め、1990年代の終りには80%の世帯が衛星アンテナを設置するに至った。それまで家事に従事していた女性たちは、テレビ画面に映る品々や自分の知らない生活様式を目の当たりにし、物質欲をかきたてられた。そうした欲求を満たし、生活を向上させるため、女性たちは収入をもたらす仕事を求め始めた。しかし外での仕事には外国語や特別な知識が必要とされるだけでなく、家族の「名誉」を損なうのではないかという不安があった。そこで、彼女らは「私の空間」においてできる内職を選んだ。彼女たちは今まで通り「私の空間」に留まりながらも、その生活はメディアという「公の領域」から大きな影響を受けたのである。このように、現代ムスリム女性の生活は、女性自身の「公の領域」への進出と「公の領域」の女性の生活空間への進出という二つの動きによって大きく変化した。
 さらに、大塚氏は今まであまり問題されなかった男性の生活空間の変化についても言及した。あるとき、仕事を終えた若い男性が帰宅後、家にこもるのを近所の年配男性が咎め、「男たる者、外で他の人々と交流しながら夜を過ごすべきである」と言ったという。ムスリム社会において「公の領域」での活動を一手に引き受けていた男性は、家族の中で唯一の情報源であり、言い換えれば男性は外へ出なければならなかった。しかし、テレビ・ラジオなどのメディアの出現によって、情報を得るためにわざわざ「公の空間」へと出て行く必要がなくなったのである。
 メディアはジェンダーによる生活空間や領域の区分を変えただけではない。山岸氏は文化の違いによる「公の空間」の分離とメディアの役割について興味深い指摘をした。1990年代、外国人移民が「バブル経済」によって豊かな日本を目指し、その中には多くのイラン人がいた。彼らに関して差別的ではなくとも、悪い面に限られたニュースを流す日本のメディアによって、在日イラン人は日本社会の「公の空間」の活動からしだいに締め出されていった。一方、締め出された彼らは代々木公園を「ハラジュク」と呼び、そこに自分たちの「公の空間」を形成し、その中で情報を交換し、助け合い、親交を深めたのである。

4.メディアの生み出したもの
 本セッションの内容をまとめるにあたって最も難しかったのは言葉の使い方である。筆者の理解では「公/私の空間public/private space」とは家の壁の内外など地理的な区分、「公/私の領域public/private sphere」とは政治活動/家事など「公/私の空間」内での活動による区分である。では、テレビ、ラジオなどのメディアはどうだろうか。メディアの活動は「公の領域」に属するだろう。しかし、それは家の中という「私の空間」において接することが可能である。メディアは「「公/私の空間」内での活動による区分」という「公/私の領域」の定義からはみ出てしまう新しい「公public」なのである。
 ムスリム男女の生活空間と領域の変化には、ジェンダーに対する考え方の変化が伴うものである。Eickelman氏は以下のようにまとめる。「ジェンダーに対する考え方はニつの方向から変えられる。一つは政府やウラマーなどによる上からの変化、もう一つは移民、メディア、教育の向上などによる下からの変化である」。メディアという新しい「公」は、ジェンダーや家族関係についての人々の意識を、根底からじわじわと変えていったのである。
 しかし、変化は終わったわけではない。未だ留まることを知らない技術革新はインターネットなど新しいメディアを生み出し続ける。Anderson氏はムスリム社会でのインターネットの普及を、1.専門家のツールとしての使用、2.活動家や公的機関による利用、3.一般の人々を中心とした「穏健」な意見交換の場としての利用、という三つの段階に分けたが、その第三段階において、メディアは今までのように一方的に情報をもたらすのではなく、双方向あるいは多方向のコミュニケーションの場を提供するものとなったことを指摘する。これは地理的な区分を越えた新しい「公の空間」である。近年目覚しいのは、この新しい「公の空間」への女性の進出である。ムスリム女性にとってインターネットは、ヴェール同様、「公の領域」への扉となりつつある。
 以上、簡単ではあるが、本セッションの内容をまとめてみた。ひとつひとつの報告は大変興味深く、多くの示唆を含んでいたが、時間的な制限と報告内容の多様性のためか、報告後の議論の中でセッション全体としての結論に達することはできなかったように思う。それでも、本セッションによって、メディアが二十年足らずの間にムスリム社会をいかに変化させたか概観することができた。さらに、注目すべきはインターネットなどのニューメディアが創り出した新しい「公の空間」である。男女の混在を嫌い、生活空間を二つに分けてきたムスリム社会は、このヴァーチャルな空間とその中での活動をどのように扱っていくのだろうか。私室の奥に広がる「公の空間」。「見えないヴェール」で隔てられた男女が混在するこの空間を、ムスリム社会の新しい形と考えるか、「ジャーヒリーヤ(無明時代)」と呼ぶか。ムスリム社会はこれから大きな選択を迫られるのかもしれない。
 *Ghazali, Ihya' 'Ulum al-Din, 4vols (Beirut: Dar al-Ma'rifa, n.d., vol.2, pp.57-58)


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