イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 2:
The Public and Private Spheres in Muslim Societies Today:
Gender and the New Media

今堀恵美

(東京都立大学大学院社会科学研究科)


 第二セッションはムスリム世界の公(public)/私(private)をジェンダー、メディアといった分野から切り込むセッションである。座長は大塚和夫氏。彼が座長であることから想定されるように人類学的な視点、もしくは現地調査の経験を持つ研究者たちを中心に組織されたセッションとなった。

 大きく分けてこのセッションの方向性は3つ。近代化やグローバリズムの影響により、ムスリム世界における公/私の境界線が従来の概念から大きく変化したということ。それは単にダイコトミーの境界が変化しただけではなく、むしろ公/私いう一対としてのダイコトミー自体の限界が示される。そしてもう一つは、主にジェンダーの問題に触れつつ、私の世界の概念の変化を取り上げたもの。女性=私、男性=公と一般に受け入れられているムスリム社会の図式に対する疑問を提出する。それは主に、ムスリム社会の女性の社会参加を検討することで論じられる。そして最後は、公の世界に重点を置き、公の世界の変化を主に取り上げたもの。そこでは、新しい公の世界が誕生し、従来の装いと近代特有の問題が先鋭化している。いずれの報告も一般的に受け入れられている西洋型の公私の概念、果ては従来ムスリム世界で受け入れられている公私の概念とも一線を画す報告となっていることが共通項としてあげられよう。その意味でまとまりのあるセッションとなった。

 実際のセッションでの発表順番とは異なるが、報告者の関心に従って発表内容をまとめてみる。

 公/私の境界線が従来の概念から揺らぎをみせているということに関して、人類学者のD.アイケルマンは一つの仮定を提出することから議論を始める。すなわち、公私の間にある区別は対立する一対ではない、とするのである。一見、このセッション名からも想定されるように、公/私はムスリム世界においてダイコトミーとして対立する一対と考えられがちである。しかし、彼は公と私を考える際には、一対としての対立だけではなく、その周辺をめぐる様々な要因が作り出す概念と実践をも同時にみていくことが必要であり、分析を公私の一対に集中させることは、現実のほんの一面しかみられない可能性があると警告する。アイケルマンはジェンダー関係から議論を起こしつつ、ムスリム社会においては公が男性で、私が女性という共通認識があるのを否定するわけではない。しかし、この一つの通念からもれてしまう多くの例外が示す多様な諸相こそは、ムスリム社会の実態を理解する糸口であることを示してくれるのである。実際、彼があげる事例の中には、夫の政治的目標を到達させるために活動する女性や、オマーンにおける公/私、男/女という価値観のダイコトミーよりも家族の紐帯が重要とされる例があげられる。私たちはこれを規範とその例外としてみてしまうよりも、むしろ、公/私、男/女という準拠基準に交差してくる他の基準が重要になるコンテクストをこそ見ていくべきなのではないだろうか。このような提言をアイケルマンは行ったと考えられる。

 しかし、アイケルマンには決して新たなるダイコトミーの枠組みを作る意図はない。彼が慧眼にも強調するのは、社会的図式は不安定であり、この不安定性こそが経験に多様なイデオロギー的意味を授けるようになるということである。ただ、報告者として少し気になる点をあえてあげるとすれば、アイケルマンの議論の流れの中で、多少西洋的な枠組みを準拠としていることであろう。公職についている女性でさえ、宗教的な場に出るのは制限されているという議論の立て方は、まるで公職に就くぐらいのエリート層の女性であれば宗教的な場でも男性と同じ自由が保証されてもよいのでは、という仮定が潜んでいるようにも受け取れてしまうのではないだろか。

 一方、同じ公/私の境界の揺らぎを問題にしたものでも、大塚和夫の議論の立て方はアイケルマンのものと比べると対照的である。それは、彼が何度も繰り返して注意を喚起する「地理的な空間」を問題にしていることからも窺える。大塚のあげた事例は1990年代のエジプトの事例である。そこでは、従来(1980年代までは)、男性のみが場所を占めていたアフワと呼ばれるコーヒーショップやクシャリという大衆食堂に、アラブ人のムスリム女性が場所を占めていた、というものである。いずれもかつて現地の人間が設定した実際の空間区分を越えているのを大塚自身が目撃している事例である。しかし、大塚は地元の人たち自身にこの境界侵犯について問うてみたが、地元の人間は男性でもこの現象を今や普通のことであると述べる。大塚がこのように地理的な空間の越境と地元の人間の認識の関係にセンシティヴになるのは理由がある。それは大塚自身、かつてイスラーム都市の空間分析に、空間観照には観照者の行動が前提と考えられるという「行動的空間」という概念を導入し、「実際、鳥瞰図的視点から眺めれば雑然として無秩序このうえない…配置も、そのなかで暮らし、そこで「行動」する人の虫瞰図的視界からすれば、一定の秩序だった構成になっているのではないかと思われる」(大塚2000:63)と述べているからである。つまり、現地の空間利用が変化を遂げていることは、現地の人たちの生活、行動、アイデンティティ、価値観なども変化していると見ることが可能となるであろう。それは、研究者の頭の中だけに存在する図式をイスラーム社会にあてはめ、安易な一般化を行うことに対する痛烈な批判の意味がこもっていると報告者は考える。

 大塚の視点は、一見目立たない日常の中にこそ境界の揺らぎは確実に表れていることに注目している。それはアイケルマンの主張する様々な要因の複合性とも関係する。大塚の事例は、女性の公共領域への参加=女性の解放という図式や女性のヴェール着用=イスラーム復興といった単純な仮定を大きく変えてしまうものである。そこでむしろ積極的な要因として大きく取り上げられるのは、メディアに大きく影響されたファッションとしてのヴェールや新しい公共領域としてのテレビの登場である。この新しい現象により、世俗化と宗教復興という一見対立しているように見える項目はまったくのコインの裏表の関係にあると大塚は主張する。そしてまた、大塚がひとつ興味深い事例を提出しているのは、公に位置づけられた男性側の変化である。従来は私の空間とされていた家庭の中にテレビという新しい公共領域を見いだした男性は、かつてのように外で仲間と過ごすよりも、私の空間である家庭で過ごす時間の方が多くなった。これは公=通りなどの外、私=家庭などの室内という図式を解体していくものであるだろう。

 テレビが従来の家庭という私的領域に新しい公共空間を作りだしたと指摘したのは、鷹木恵子の報告である。彼女は自身のチュニジア、ジェリード村でのフィールド経験をもとにして、女性の家庭内での内職が流行している要因の一つとして、女性が主に活動する領域である家庭の中にテレビが導入されたことをあげている。それが彼女たちを家の中にいながらにして公共領域に関わらせることとなったのである。チュニジアの農村部では名誉の概念が強いため、専門職以外で女性が働くことは、彼女の夫や家族の名誉を傷つけることになる。しかし、90年代中葉は、サテライト就きテレビが全世帯の約半数を占め、彼女たちはそこから資本主義経済に直接触れ、様々な商品への欲望が扇動されることとなった。そして現金獲得のため、家庭内での副業を始めることとなった。この新しい傾向の特徴として、従来の村で働く女性の多くは、経済的に苦しい位置にいる女性であり、彼女たちは家庭を訪れる訪問販売の行商人であった。それに対して、普通の主婦が大半を占める新しい流れでは、絨毯織りの工程の一部を請け負い、家庭内の内職という形を取ることであった。それはさらに現金収入を得たいという欲望と家族ひいては自分自身の名誉を守るという文化的枠組み、そして実際に外に働きに行くことへの困難さをバランスよく組み合わせた結果によるものだという。

 鷹木は女性の内職に焦点を合わせることで私の領域とされる家庭に新たなる公が侵入してくる過程を描いたが、それに伴って私という概念そのものも変化を遂げてきているとも読み込むことができる。ジェニー・ホワイトの報告も現代トルコで見かけられる女性のヴェールの新しい形式について分析しながら、公的領域の変化と新しく現れてきた私的領域の限界について述べる。

 ホワイトは大塚がエジプトの事例で幾分か触れた女性のヴェールの問題をさらに深めた議論を展開する。現代のトルコにおいては、女性はTシャツにジーパン姿から全身を黒く覆う姿まで多様な服装を見かけることができる。その中でテセトゥルと呼ばれる新しいヴェールの形態はトルコでは時代によってその意味を変化させてきたという。1980年代、テセトゥルはイスラーム運動の中心的シンボルであった。女性が公的な場でスカーフをすることが禁じられていた時代、新しいメディアを通してスカーフを被る女性は徐々に認知度を高めていき、公的な場でもスカーフを被った女性たちが自由に活動できるようになった。

ここで大きく恩恵を被った女性たちの中には低所得階層の女性たちがいる。彼女たちはスカーフをつけたことで体面を失わずに外での仕事や活動をすることが認められたのであった。一方、中流階級の女性たちの間でも自己実現のためにより意識的にスカーフをつける女性が増えていた。このような女性たちは「新イスラーム女性」といわれ、イスラーム主義者/ケマリスト(世俗主義者)という対立構造のイスラーム主義者的シンボルとされた。

 しかし、1990年代には様相がまた別の一面を見せる。それはメディアの宣伝がイスラーム主義者のシンボルであった女性のスカーフそれ自体をも商品化の中に取り込んでいったからである。スカーフの種類の中には外国製の高級なスカーフやファッショナブルなデザインのものが氾濫した。その結果、高価な商品を入手できる女性と入手できない女性との間に格差を生みだしてしまった。つまり、以前は単に統一的な政治シンボルでしかなかった女性のスカーフは今やそのスカーフの種類によって中流階級と低所得階層に明確な差違を作り出してしまったのである。また、中流階級の女性たちにとってスカーフはファッションの一部に組み込まれてしまったかに見える現実も存在する一方、それまで政治活動に積極的に参加していた低所得階層の女性たちの多くでさえ、資金の不足によってかつての伝統的な家父長的家庭の中に戻って行かざるを得ない現実があった。

 このような変化の要因は大きくメディアの存在が関与している。ホワイトはメディアが新しいイスラームの公共領域に対して女性の権利を明確にする手段を与えたものの、その一方で私的領域においてその人の経済的能力によってさらなる格差を生みだし、商品化によってアイデンティティを不明確なものにしたと指摘した。ホワイトはこのように事例を丹念に追っていくことで、公私の境界の揺らぎをある意味近代に特有の現象として単なる一般化に終わらせることはなく、その際に重要な役割を果たしたメディアの多元的な役割と階級格差の現実について言及したことの価値は計り知れない。これはよく耳にするトルコの近代化に対してアンチテーゼとしてのイスラームの復興という図式のあまりに単純すぎる結論のその後を語っているのである。ホワイトだけではなく、イスラーム復興と公私の領域の変化に大きな役割を果たしているのはメディアであるが、その点についてインターネットという新しい技術発展によって、30年ほど前に一般的に生み出され、その後、急速にユーザー層を増やしていった新しい公共領域について興味深い分析を加えたのがジョン・アンダーソンの報告であろう。

 アンダーソンによると、イスラーム世界におけるインターネットという公共領域の発達には3つの段階があるという。第一は、インターネット自体を作っていく過程でイスラームに関心のある技術者たちが中心になって、イスラームのクルアーンそしてハディースのテクストをオンラインで載せるようになった時期。この時期の特徴は、製作を担当したのは、伝統的なイスラーム解釈学を収得していない技術者たちであったことである。結果、従来のような伝統的解釈機構を経由しないで人々が直接テクストに触れることとなった。また一方で、宗教に関する専門的な用語を十分に使いこなせない結果、様々な分野の言語が混合した形である、クレオール化した言語が誕生することになった。しかし、このような段階も時期が進行していくにつれて伝統的なイスラーム知識人の統制の下におかれ、公的な言語に戻すように圧力がかかる。第二の段階はイスラームを公式な言語に戻そうとする流れの中で現れた活動家たちであり、彼らはインターネットという新しいメディアに特有のコミュニケーション方法を用いて積極的に自らの主張や活動への呼びかけを行っていく。この段階の特徴は、活動への呼びかけを行うことで伝統的知識の伝達よりも政治的な目標に重点が置かれるようになる。この事は従来のテレビなどのメディアと異なり、「双方向の」コミュニケーションを可能にしていたインターネットに一方的出版という性格を付与してしまった。その際に彼らは第一の段階同様、政治的という言語を宗教的解釈に結びつけてもいた。しかし、ちょうどこの時期からWWW(World Wide Web)の発達がめざましく、ユーザーが特別な技術を持たなくてもインターネットに触れることが出来るようになった。これに伴いユーザー層のネットワークが一段と増し、WWWがムスリムの生活やアイデンティティにまで影響を及ぼすようになった。結果、きちんとした伝統的知識を有し、思想的には穏健な中間層がインターネットの世界に現れてくる。その中には、イスラームオンラインと呼ばれる、ムスリムの生活に直接に結びつくものまで現れている。それは伝統的にはモスクという空間を通して行ってきたことをインターネットを通して行うというものである。ムスリム世界のニュース、有名なシャイフの説教、ファトワを出してもらうことなど。またどんなユーザーにも公開され、従来は公共の場から閉め出されてきた女性たちにもインターネットという公共領域にアクセスする場を提供した。

 アンダーソンは技術進歩によって新しく生まれた公共領域の発展過程を概観しつつ、そこで生成される領域は伝統的な装いをもっているものの、実際に存在しているのは近代的な問題であると指摘している。この問題もアイケルマン同様、安易な宗教と世俗というダイコトミーを批判し、それを越えて、新しく生成してきた社会的ダイナミクスの枠組みの提言であるとも受け取れる。実際、アンダーソンはインターネットには限界も存在するが、その新しい限界の中で、今日のムスリム世界のネットワークが形成されていることに注目を促したのである。

 同じようにネットワークという視点から公共領域を扱った山岸智子の報告は少し異色である。イラン人が移民として他国に行くことで新たに生み出されたネットワークに関しての議論を扱った彼女の報告は、ムスリムたちと非ムスリムとの間の相互行為の中から形成された公共領域に注目している。

周知のように、イラン人移民は1990年から1993年にかけて4から5万人もの人数にのぼり、その約90%が男性、多くは20代から30代にかけての年齢層であった。日本とイラン間のビザ協定の結果、イラン人は自由に日本を訪れることが出来るようになったが、ビザを更新することはほとんど不可能に近かった。そのため、長期滞在を望む者は、日本にオーバーステイすることになる。しかし、当時、日本はバブル経済期で政府側も経済的成長を維持するため、安価な労働力を必要とし、たとえ違法でも見逃していると思われていた。

 山岸によれば、イラン人にとって日本の市場が魅力的だったのは、時期がちょうどイラン・イラク戦争終結後で国内経済が停滞していたこと。また、イラン革命後、アメリカ文化を禁止したため、日本のテレビ番組がマスメディアを通して、イラン国内に放送されたことをあげている。イラン側は日本に対して理想的イメージのみを強めた一方で、日本の公共領域ではイラン人は不法滞在という身分とメディアの宣伝のために完全な異人となった。行政機関も警察も移民管理局も完全に彼らを把握することができず、彼らの日本で生活する場所は公的機関が彼らを援助するわけでも排除するわけでもないという奇妙なものになった。彼らの日本での位置は行政的に認められていないと言う意味で公的とは言えず、しかし目に見える場所で公的な存在であった。1992年からメディアでも移民の増加に伴い、移民が引き起こす犯罪への警告的な記事を扱うようになった。その結果、日本人の態度も変化してしまうのである。イラン人は日本人の彼らに対する理解のなさにより、日本にいながらにして外部に立たされた状態になってしまった。山岸があげる代々木公園での事例では、イラン人移民たちがおかれた不安定な状況の中で、日本の公共領域の周縁に立たされてしまった彼らが、そこでの交流を通じて自分たちを私的に守ってくれるネットワークを形成していたのことが示される。むろん、その後、代々木公園から彼らは公的圧力により追い払われてしまうのだが。

 2000年に山岸がインタヴューした結果では、イラン人は日本人や多国籍の知り合いのことよりもイラン人同士の親密な関係のことを語る傾向にあったという。ここで生まれた友情(ドゥスティー)の特徴は1,「ナショナル」な境界が明確であったこと、2,彼らの関係は伝統的な紐帯を越えて形成された。3,彼らの相互援助はある種の社会的機能を果たしていた、ということであった。

 イラン人労働者は日本の公共性にアンビヴァレントな状況を生みだした。彼らは公共領域であいまいであり、そのお陰で犯罪に容易に近づくことになってしまった。その結果、日本社会での彼らの排除を促進させた。日本が不況になると強制的に労働者たちはイランに帰国させられたが、それでも彼らは日本で私的生活は充実していたと語るという。彼らには公的に守ってくれる力がない代わりに友情が社会的役割を果たした。代々木の事例は緩く結びつけられたネットワークの中心を構成していたのだ。将来、変化するイランの状況下で伝統的ではない新しいネットワークが形成されるだろう。

 山岸の議論が特徴的なのは、一見イラン人移民に関する報告を読めば必ず出てくるようなメディアの偏見に満ちた報道や日本側の不十分な対応といったある種、聞き慣れた内容を扱いながらも、独自の視点から友情(ドゥスティー)という民俗タームに注目したことであろう。それは、必ずしもイラン人が日本での滞在を金銭的理由ばかりではなく、独自のネットワークを新たに形成する契機にしていたと述べる山岸の鋭さは敬服に値する。山岸も述べていることであるが、報告者自身の経験でも、イランにおいては伝統的な紐帯(家族、親族、地域社会、学校など)以外で、仲間と協力するということは多くはなく、近代が提供した大量移民という特殊な状況下で、生まれた新しい公共領域の一つとして考えられるのである。

 全体として本セッションは、現在、ムスリム社会で一般に受け取られているダイコトミーの限界を示す事となったが、本事例であげられているよりも実際の現場での公私の境界は様々に動いてる。今後も多くの場面でその変化を追っていく必要があるだろう。それと同時にムスリム社会がなぜにこのような変化を受けながらも、公私のダイコトミーを把持し続けていくのかも、同時に見ていかなくてはいけない課題である。その時に重要となる一つの手がかりは、現地に基づいた視点であろう。

参考文献 大塚和夫 2000 『近代・イスラームの人類学』 東京大学出版会

 


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