イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 1: Islamism and Secularism in the Contemporary Muslim World

伊藤寛了(東京外国語大学大学院地域文化研究科)


 

 第1セッションは国際シンポジウム2日目(10月6日)に,「現代ムスリム世界に於けるイスラム主義と世俗主義」というテーマのもとに行われた。本セッションにおいてはイスラム法(学)に関するトピックが,あるいはイスラム主義(者)と政治に関するトピック等が,YANAGIHASHI Hiroyuki氏,Nilima CHANDIRRAMANI氏,KOBAYASHI Yasuko氏,Bakhtiyar BABADJANOV氏,SAWAE Fumiko氏,Francois BURGAT氏の6名(Amr HAMZAWY氏は残念ながら不参加)によって検討された。

 最初の発表はYANAGIHASHI氏の“Between the Classical Law and the Contemporary Legislation in the Arab Countries”である。この発表では,シリアの現在の家族(身分)法とフィクフの関係を説明するために,「間接的承認」と「未成年者の婚姻」が取り上げられた。「間接的承認」では血縁関係と相続(権)の例が取り上げられ,それに関連してくる,第136条,第262条第2項,第298条などが,ハナフィー派古典法との繋がりも含めて検討された。次の「未成年者の婚姻」では婚姻適性の問題が取り上げられた。そこでは婚姻の有効性が,後見人あるいは(女性の)父親に左右されることが,破毀院の判決を上げて説明された。またムスリム女性と非ムスリム男性の間の婚姻とそれに伴なう姦通の例があげられた。

 シリア法はフィクフの大きな影響を受けているとYANAGIHASHI氏は言う。つまりシリア法を理解するには古典法の知識なり理論に親しんでおく必要がある。また古典法の延長においてこそ,シリア法は真に理解され得るのであろう。

 次の発表はCHANDIRRAMANI氏の“Muslim Family law: Gender Biases”である。CHANDIRRAMANI氏は大方のインド人女性にとって結婚は人生の全てであり,よってそれを規定する法の役割は非常に大きいと述べる。氏はインドでのムスリム家族法の中の婚姻,マハラ(mehr:結婚に際して謝礼として夫から妻に渡される金品),婚姻上の権利の返還,離婚,扶養,後見,養育,養子そして相続権におけるムスリム女性差別を非ムスリム(おもにヒンドゥー)との関連で述べていった。

 ムスリムの婚姻に関する明らかな女性差別の例として,女性の証言が男性のそれの半分の価値(能力)しか有していないことをあげている。また後見に関して,ヒンドゥー家族法は母親の後見を認めているが,ムスリム家族法は,たとえ父親が死去した後あるいは不在の場合でも,母親の後見は認められておらず,これはあからさまな女性差別であるとCHANDIRRAMANI氏は言う。氏は,女性差別を許す法は廃棄されるべきで,また憲法もそういった法を許さないという。そして,ムスリム女性自身が女性の権利を認めさせるために,行動を起こさなければいけないしその役割は大きいと述べた。

 3番目の発表はKOBAYASHI氏の“Official Fatwa and Ummah in Indonesia: the Ajinomoto Case”である。インドネシアには多数のムスリム組織があり,普通それらはウンマの疑問に答えるフィクフの専門家からなるファトワ委員会を持っていると述べ,くわえて政府のウラマー組織,Majelis Ulama Indonesia(MUI)があり,これが公のファトワを出すのだが,それは政府とウンマの間のインタラクション,フィクフ言説の展開そして世俗主義とイスラム主義の関係を反映する指標であり,インドネシア社会において甚大なる意味をもつと続けた。MUIは1975年5月に,精神的また物質的意味でも平和で,公正で,栄えた社会を確保するために「Pancasila(5原則)」に則ったイスラムの教義を実行する,という目的で設立された。

 「味の素」は2000年のハラール認定更新の際に,成分のひとつであるバクトソイトン(bactosoytone:豚の膵臓から抽出される酵素を触媒とする)が使われているとして,ハラームと認定されることとなった。しかし,その後「味の素」はバクトソイトンの使用をやめ,2001年2月に新たにハラール認定を受けた。KOBAYASHI氏は,MUIは味の素事件に関して,ハラームの決定に固執したという。そして最後に公のファトワはウンマに対してリベラルな見解を与えることもできる,が他方で一元論の形で「再イスラム化」を促進し,イスラム多元主義の発展を脅かしてもいると述べ発表を締めくくった。

 4番目の発表はBABADJANOV氏の“Islamic Community in a Non-Islamic State: Viewpoint of 'Ulama-Traditionalist and 'Ulama-Reformers of the Ferghana Valley Before and After Gaining Independence”である。はじめにBABADJANOV氏は「davra's(出席者(多くはタシュケントやフェルガナからの詩人やウラマー)が様々な神秘的スーフィーテキストや詩をよむ特別な集会)」に1930年代初期に参加していたDomulla Nodirkhon-qoriについて述べる。Nodirkhon-qoriは彼の回想録の中に「新しい環境をどうにか切りぬけそしてそれへの対処を見つけようと努めるウラマーにより親近感を抱いた」と書いた。彼のこの考えは,非イスラム国家においてムスリム達が生きていかなければならないという現実から導き出されたものであった。一方で,これとは違った考えを持ったウラマー達が出てきたとBABADJANOV氏は述べる。すなわちより教条的なウラマー達(改革派)のことである。彼らはクフルの根絶を目指した。他方,共同体のイスラム的性質は,政治的解決で持っても再起され得るという考えた。BABADJANOV氏は,かつては伝統派の人々は政治とは距離をおいていたが,新伝統主義者なる者が現れてきて,かれらは改革派同様,政治に関わるようになったと,また,いまなお政治とイスラムの関係は議論されていると述べた。

 5番目の発表はSAWAE氏の“The Reorientation of the Islamists in Turkey: An Analysis of ‘Islamist Jornals’in the 1999s”である。SAWAE氏は,先ずトルコにおける世俗主義者とイスラム主義者の流れを概観し,そこで福祉党と美徳党までの流れを示した。そして次に,80年クーデター後のイスラムの台頭をオザル期のリベラルな社会状況と,イスラム系出版の伸張との観点から説明し,氏が「世俗リベラル知識人」(権威主義的世俗体制に異議を唱え,イスラム主義者の権利と思想の自由を―彼等が民主主義と世俗国家の原則を尊重するのなら―擁護する者)と呼ぶ人々が出てきたことを指摘した。そしてその「世俗リベラル知識人」の議論は教育を受けたイスラム主義者に受け入れられており,数においては少ないものの彼等の影響力には看過し得ないものがあることをも指摘した。他方,80年代を通して90年代のはじめにはイスラム主義者は(トルコの)多様性を認識するようになり,そこで新しい種類のイスラム主義が頭を擡げてくるようになったと述べる。

 イスラム系雑誌においてもっとも頻繁に議論された主題は「イスラム国家」あるいは「イスラム的統治」であり,そしてその時しばしば参照されるのがメディナ憲章であったとSAWAE氏はいう。そしてメディナ憲章が参照される理由は,それが信仰やイデオロギーにおいて異なるグループの共存に対して,解決を見つけ出そうとする性質のものだからである。1990年代,結局イスラム主義者は実際的で実行可能な政治的モデルを生み出すことは出来なかった,がしかし「多様な」現実的問題を考えるという態度がイスラム主義者の間に根を張ったという事実は否定出来ないし,多元主義,寛容そして自由といった主張はイスラム主義者の間で当然のこと(the common sense)となったとSAWAE氏は発表を結んだ。

 最後の発表はBURGAT氏の“Islamist in Politics in Early 2001: facts and ideologies”である。氏ははじめに,完全なペーパーを用意できなかったと断り,幾つかのトピックについて述べて行くことにするといい,政治的暴力・テロリズムとイスラム原理主義について話した。BURGAT氏はムスリム・テロリズムには3つの歴史的層があるという。第1の層はアルジェリア・ナショナリストで,第2の層はナセルのスエズ運河の国有化で,第3の層はここ50年におけるreformulation of the all(old) entire imperialist dynamics and entire colonialist dynamics(?)であると報告者には聞こえたが実のところ確信はない。最後にBURGAT氏は,イスラム・テロリズムは社会・経済的アプローチによっては説明され得ず結局は行き詰まりをもたらしてしまうとした。

 最後に第1セッションの所感を述べて本報告を終えたいと思う。まずYANAGIHASHI氏とCHANDIRRAMANI氏に関してだが,両者の発表では世俗主義側の意見がどのようなものなのかが語られなかったのが残念である。次にKOBAYASHI氏の発表だが,我々に強く関わりまた一般市民を巻き込んだ問題であり興味深かった。しかし,ファトワとウンマの関係が「味の素」事件においては一体どうであったのかがいまひとつ見えてこなかったのではないだろうか。BABADJANOV氏の発表は,結局結論らしいものはなく,最後の主張の意味が不明確になっているという印象を受けた。SAWAE氏の発表は論旨がはっきりしていて,理解しやすかった。しかし,口頭発表用のペーパーとしてはいささか長すぎ,聞き手側としては多少辛かった。BURGAT氏の発表はまことに時宜を得たテーマであり,オーディエンスの関心も高かったはずであり,これから真摯な議論を必要とするトピックであった。

 


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