イスラーム地域研究
回顧<The Dynamism of Muslim Societies>

Session 1: Islamism and Secularism in the Contemporary Muslim World

横田貴之(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 

 本セッションでは、近年のイスラーム世界におけるイスラーム主義と世俗主義との相克について、国内外の6名の研究者による発表が行われた。事前に配布された本セッションの紹介においては、イスラーム主義は「イスラームの原理により万事が導かれなければならないと主張する」ものとして、また世俗主義は「政教の分離を主張する」ものとして定義されている。当日の発表では、これらの定義が踏まえられつつ、各発表者の研究対象・国・地域などによって、それぞれの特色ある着眼点をうかがえられる発表が行われた。本セッションの発表は、イスラーム主義と世俗主義の相克について、イスラーム法と現行法の関係から考察したもの、およびイスラーム運動と国家権力の関係から考察したものに、大きく二分できる。本報告では、特に関心を引かれた前者を中心に、本セッションの報告を行いたい。

 イスラーム法と現行法との関係については、柳橋氏とチャンディラマニ氏の2名により、研究発表が行われた。柳橋氏はシリアの現行家族法を中心に、チャンディラマニ氏はインドのムスリム家族法を中心に、それぞれ発表を行った。まず、両氏ともに、現行の家族法を発表の題材として取り上げていることに注目したい。近代化政策の下、多くのイスラーム諸国においては、西洋法の導入とそれに伴なう抜本的な法改革が進められてきた。しかし、家族法には、イスラーム法の影響が依然強く反映されていると柳橋氏は指摘する。家族法は、現代の制定法におけるイスラーム法の影響を考察するのに適した題材と言えよう。

 イスラーム世界、とりわけアラブ諸国における家族法は、通常、フィクフ(イスラーム法)との連続性を維持するように定められていると柳橋氏は指摘する。シリアの現行家族法もその例外ではない。フィクフは、オスマン帝国の「家族権利法」などと並んで、家族法の主要な構成要素のひとつとなっている。特に、ハナフィー派のフィクフの影響が強く見られる。家族法の中には、フィクフによりその解釈が行われる条文が多く存在する。また、法律用語が条文内ではなく、フィクフによって定義されていることもしばしば見られる。このように、フィクフの影響が色濃く見られる家族法ではあるが、フィクフのみによってその内容が完結しているのではない。それは、家族法の中でも、特に幼児婚の法的取り扱いに顕著に現われていると柳橋氏は指摘する。幼児婚の有効・無効について、シリアの家族法と裁判所はその立場を明確にしていない。例えば、1973年には幼児婚を無効とする判決が、1981年には幼児婚を有効とする判決が下されている。このことは、シリアの家族法が幼児婚の有効・無効の判断を意図的に回避していることを示すと柳橋氏は指摘する。法学論争を伴なう重要問題については、その最終的な法判断は先送りされるのである。最終的な法判断は未決定のまま将来の世代が引き継ぎ、将来の社会状況に応じて行うことを委任されていると柳橋氏は考える。最終的な法判断を早急に行わないことにより、法の混乱は回避され、法体系は維持されることとなる。また、法が実際に運用される社会状況に対しても、一定の配慮が与えられることにもなる。

 ところで、この「将来への委任」は、柔軟な法の解釈・運用を可能とする工夫であるとも考えられないだろうか。フィクフと現行法との連続性を脅かしかねない問題や、社会を二分しかねない問題が現われた場合に、最終的な法判断を行わない立場を取ることにより、その時点での最終的判断を棚上げして、弾力的な法運用を行うことが可能となろう。すなわち、「将来への委任」により、法の硬直性が排除され、法の弾力性が維持されるという側面も考えられる。このような「将来への委任」の積極的な意義についても考えることは、意義のあることではなかろうか。

 次に、チャンディラマニ氏の発表について見てゆきたい。同氏は、インドのムスリム家族法を取り上げ、そこに潜む女性差別について発表を行った。まず、ムスリム家族法が植民地期以降に形成されてゆく中で、女性に対する差別を内包してゆく過程が説明された。同氏は、差別的なムスリム家族法によって、ムスリム女性は二重の差別を受けていると主張する。一つは、ムスリム男性と比べて差別を受けていることである。結婚、離婚、親権、相続などにおいて、女性は片務的な義務を一方的に課せられており、その権利も不十分なものである。もう一つは、ヒンドゥーやシーク教などの他宗教の女性と比べて差別を受けていることである。他宗教における女性の立場と比べて、ムスリム女性の立場は非常に弱いものとなっている。チャンディラマニ氏は、ムスリム家族法の女性に関する規定を重大な憲法違反であると指摘する。インド憲法では、性別や宗教による差別の禁止と平等が定められているからである。他宗教の家族法においては、憲法の精神が反映された内容となっており、ムスリム家族法もそれに習うべきだと同氏は主張する。つまり、インド憲法の精神の下で、ムスリム女性にも平等な権利を与えるべく、抜本的なムスリム家族法の見直しを行うべきなのである。

 発表後の質疑応答で、同氏の見解はイスラームに対する偏見に満ちているとの意見がエジプト人研究者から発せられた。議論の内容から、両者の発言の前提が、二つの点で大きく異なっていることが次第に明らかとなった。一つは、何を最高の法とするのかについての相違である。チャンディラマニ氏が憲法を、エジプト人研究者がシャリーアを最高の法としていることは明らかである。そしてもう一つは、イスラームについての認識の相違である。前者は、イスラームをいわば狭義の宗教としてとらえ、インドに存在するいくつかの宗教の一つとして認識している。後者は、イスラームを狭義の宗教にはとどまらないより包括的なものとして認識している。こうした両者のズレには、それぞれの背景の相違、さらには南アジアと西アジアとの相違が如実に現われているものと思われる。これはまさに、地域の特質や固有性が発現している好例であろう。白熱する議論においては、それぞれの発言の後ろに存在する地域の特質を強く感じることができた。

 本セッションでは、国家権力とイスラーム運動の関係から、イスラーム主義と世俗主義の相克を考察する発表も行われた。小林氏は、インドネシアにおける「味の素事件」を中心に、MUIのファトワとインドネシア社会の反応について発表を行っている。ババジャノフ氏は、独立前後のフェルガナ渓谷において、イスラームと政治の関係に関する議論がどのように推移してきたかについて発表を行った。主に、伝統的なハナフィー派法学に従う「伝統派」とサラフィー主義を志向する「改革派」との論争が取り上げられている。澤江氏は、1980年代以降のトルコにおけるイスラーム運動とイスラーム主義者の変化について発表をしている。各発表とも、意欲的かつ多くの示唆に富むものであった。しかし、本報告では紙幅の都合および報告者の研究関心から、イスラーム運動に焦点を定めた澤江氏の発表について述べるにとどめておきたい。オザル政権以降の自由化政策により誕生した中間層出身のイスラーム主義者の間で、二つの変化を求める声が強まったと澤江氏は指摘している。一つは、宗教を統制・包含する独善的な世俗主義体制の変化を求めるものであり、国家による宗教介入の撤廃を主張する。ここでは、イスラームは寛容の精神・多元主義・信仰と思想の自由などの民主主義の諸原則の守護者であるとされている。もう一つは、イスラーム運動自身の変化を求めるものである。イスラーム運動はただ現状を否定するだけでなく、社会問題に対する解決案と西洋型政治システムへのオルタナティブを具体的に提示しなければならないと主張される。そのためには、西洋を否定しイスラームの優越性を強調するだけの二分法にとらわれることなく、有用な西洋的概念の積極的利用も行わなければならないとされる。これは、トルコ社会の文脈の中で、イスラーム運動が自己変革を行った事例として考えられよう。ここには、イスラーム主義と世俗主義の静態的な二分法を克服する契機と可能性が示されているのではなかろうか。

 また、本セッションの最後に行われたブルガ氏の発表は、それまでの議論を締めくくるにふさわしいものであった。同氏は、9月11日に発生したアメリカのテロ事件にも言及しつつ、イスラームと暴力を短絡的に結びつける言説の不適当さについて強く主張した。同氏が主張するように、イスラームを暴力の根源とする偏見に満ちた静態的な議論では、決して何も生まれてこない。イスラームへの理解を広く訴えかけてくという、研究者に課せられた義務の重さを痛感した。

 近代のイスラーム世界を研究する者にとっては、イスラーム主義と世俗主義との関係は決して無視することのできない最重要問題のひとつである。本セッションは、この問題に関して、多くの発見と知的興奮を与えてくれる素晴らしいものであった。静態的な二分法に拘泥するのではなく、常に背景となる社会のダイナミクスとの相互関係の中で考えてゆかなければならないことを、改めて気付かせてくれるよい機会でもあった。また、今回のシンポジウムでは全体を通じて、多くの興味深い発表が行われ、活発な議論が繰り広げられた。イスラーム研究の最前線の知識と情報に触れられ、そして啓発されることが多々あったシンポジウムであった。今回の経験は、今後の研究において、必ずや大いなる糧になることであろう。このような素晴らしい機会が近い将来に再び設けられることを心より願うばかりである。


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