7月14日
1997年度全体集会パネルディスカッション実況中継

基調報告:佐藤次高(東京大学・研究リーダー)
パネラー:
  家田修(北海道大学スラブ研究センター)
  岡部篤行(東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻)
  栗田禎子(千葉大学文学部史学科)
  村井吉敬(上智大学アジア文化研究所)
司会:
  長沢栄治(東京大学東洋文化研究所)
  羽田正(東京大学東洋文化研究所)



以下の報告は、会場での記録をもとに発言の要旨を広報の責任でまとめたものです。プロジェクトのねらいや進め方について議論されていますので、速報性と公開性を重んじホームページに掲載することにしました。発言についての訂正や補正、あるいはご意見がありましたら、総括班事務局にご連絡ください。 (文責 広報担当 三浦徹)


羽田

趣旨説明をします。
研究分担者の方たちと個人的に話をしていて気づくことは、このプロジェクトが何をめざすかよく理解されていないということである。春の全体集会の時の佐藤発表は理想を述べただけで、具体的にこれから何を期待されているのかよくわからなかった。今回は、このプロジェクトについての意志統一をしておきたい。
 まず、プロジェクトを始めるにあたり、知っておかなくてはならないことがあるだろう。たとえば、新プロとは何か、前の重点領域研究(イスラームの都市性)とのちがいは何か、班、グループの役割は何か、研究分担者個人が企画・立案者になるとはどういうことか。
 また心しておかなければならないこととして、イスラーム以外の専門家がどうかかわっていけるのか、外国にいく、外国から呼ぶ、こういう招聘は文部省の科研とどうちがい、どうあるべきなのか、などがある。
 これらのことについて、一応の理解と意思統一をはかりたい。まず、佐藤代表から提起をいただき、パネラーに質問と提案を。

佐藤

3つの点をレジュメにそって話したい。<レジュメはここをクリック
(1)イスラーム地域研究とは何か
 「イスラーム地域研究」というネーミングは、イスラームという言葉は地域になじまないのに、一緒にしているためにしっくりこないのだと思う。ただ、イスラームの宗教性、ムスリムがかかえている・提出している問題は広い地域にひろがっているので、狭い意味でなく、広い地域を対象とすることをめざす。また、固定した地域でなく、地域そのものをいくつか組み合わせたり、アメーバー状に地域を考える。イスラームという要素をもちこむことで、それぞれの地域を理解しなおすことが出来るのではないかと思う。
 地域の選択の柔軟性と 広い意味でのイスラームをくみあわせることで、新しい地域研究ができるのでは?
 現代の問題を解決することをめざすことが、これまでの地域研究の流れだったが、ここでは、歴史的なアプローチも重視する。

(2)重点領域研究プロジェクト「イスラームの都市性」とのちがいとして、次の点がある。今回は、より組織性の高い研究を長期にわたって遂行する。また、都市性プロジェクトはある領域を固定的に設定して各班で研究したが、今回は、個々の班・グループが別々でなく有機的に。
その意味では、今回は班の責任者のリーダーシップが特に重要。
 また、海外研究者との連帯がひとつの柱である。研究計画の立案時から海外の研究者の参加を。
 海外への公開性を考え、常に外国の研究者を意識した連絡の仕方を。
 研究成果の公開方法としては、研究叢書の刊行(長期のレファレンスに耐えるもの)を考える。年度末の報告書以外の刊行が重要。和文、英文での出版をすすめる。希望としては、今年のテーマ「問題発見」を題材にした一冊を出版したい。
 研究分担者の役割をよく考え、また、分担者以外の人を研究にとりこんでいく役割が期待される。特に外国人研究者を。

(3)目的
イスラームと地域研究をくみあわせることで新しい地域研究のあり方を求める。
コンピュータ利用をすすめる。
新しい世代の人を取り込み、後押しする。以上3点が大きな目的である。

パネラー(コメント)
村井

 コメントの余地ない報告でしたので、私の取り組みについて報告する。
 自分は東南アジア・インドネシアの研究をしている。世界最大のイスラーム人口を抱えているにもかかわらず、自分はイスラームについて希薄な知識しかなく、また、イスラームそのものを研究することは、インドネシア研究からどこか離れている、という気がしていた。イスラーム地域を扱う研究をしているわけではない、という意識。つまり、イスラーム研究をしているのは、中東研究の人で、我々は傍流・周縁だ、という意識がある。
 実際、フィールドにしていた農村では、イスラームを意識しない暮らしができる。金曜日でも礼拝をする人をほとんど見かけない。イスラーム原理主義の影響が及んでいない時代だったせいもあるが。ホメイニ以後、農村でも、様々な変化があらわれてきた。今年5月の総選挙の際に、暴動の発生した都市を見ていくと、イスラームの影響の強い都市が該当する。また大統領になるには、イスラーム教徒である必要がある、など。
 しかし、このプロジェクトがたちあがったことで、本家本元の研究者と共同して研究していけるという期待、同時に、本家本元の人にも、辺境のイスラーム研究からなんらかの刺激があたえられるのではないかと思う。変わった地域の組み合わせ(東南アジアとマグレブ)など、期待感をもっている。やや矛盾するイスラーム地域研究という言葉には意味があるだろう。

これからめざすこととして特に次の3つをあげたい。

1)日本のイスラーム研究のコアは、歴史、思想、哲学の分野だろうと思っていたが、それからはみ出した研究を求めたい。なぜなら、イスラーム研究者の人は現代の政治経済社会について、あまり発言しない傾向がある。歴史にかたより、宗教・思想・哲学を扱っているように見える。
 21世紀に向かうにあたり、「21世紀から、未来から問題をみすえる」ことは必要。また、いわゆるグローバル・イシューとなっている開発、ジェンダー、人口問題、人権など、これらとイスラームとを組み合わせた議論が必要なのではないか。たとえば、ジェンダーについて、イスラームは女性差別的だという「常識」があるにもかかわらず、イスラーム研究者の側からの反論がなされていないのではないか。

2)国際的な、民際的な視野をもつこと。国際的はもとより、people to peopleという視点も大事。経済力がなければできないプロジェクトなので、この予算を有効につかう必要。政府がイスラーム地域にどうかかわるかについても発言をする必要がでてこよう。たとえばODAの問題。ODAというと、開発経済学か、企業の立場からの人のみ議論しているが、イスラーム研究者も口をはさむ必要がある。

3)マルチディシプリナリーな研究を。インターディシプリナリーとはいっても、これまであまりうまくいっていない。専門研究で忙しいということはあるが、やはり社会的な貢献をする必要がある。そのためには、それぞれの殻にこもっていては、世間では理解できない。単なるマルチではなく、ディシプリンを越える越境的研究 トランスディシプリナリーな研究が必要。
 このようなことを理想としてかかげるくらいの大風呂敷でやっていってはどうか。

栗田

 自分は何を考えていて、どうかかわっていきたいかをコメントする。
 これまでは、スーダンの近代史と、それとの関係でエジプト近代史を研究してきた。今回のプロジェクトでは、「社会開発」という課題の研究グループに属しているが、私は、社会開発を社会発展のことと理解し、民主主義、人権といった問題を扱っていきたい。このテーマを扱うにあたり二つの世界論を克服したい。東洋vs西洋、西欧vsイスラーム世界、さらには西欧民主主義vsイスラーム主義運動といった二項対立に基づく東西対抗史観を克服したい。
 世界を二つにわけることが、オリエンタリズムの根底にある。このことは誰もがわかっていることであるが、二項対立の図式は議論がわかりやすいために、注意していても、ついはまってしまっている。
 たとえば、西欧のオリエンタリズム批判をしながら、イスラーム原理主義運動について無批判になってしまうなど、東西対抗史観からは抜け出せない場合が多い。あるいは、中東の近代史を語る場合に、帝国主義支配、西欧の衝撃など、これらの影響から話をはじめるのはしかたないが、もう200年たっている。すでに、帝国主義自体も、それへの対抗の歴史も、外在的なものから、すでに中東に内在化している。これをふまえた上で研究したい。
 たとえば、イスラーム主義運動を研究するにあたり、中東内部に生じた別の社会運動に着目し、イスラーム原理主義運動以外の運動(イスラームを掲げない運動)をみていくことで、ヨーロッパとの対比でのみイスラーム主義運動を分析していたこととは違った視野がひらけるのではないか。あるいは、オリエンタリズムの核になっている中東には革命がないという無革命テーゼや、同様の無階級社会論、モザイク社会論を批判していきたい。
 具体的には、私は、イスラーム主義者以外で、イスラーム社会の民主化をめざして活動している人たちに注目したい。
 特に市民的社会論に注目したい。市民社会という場合、西欧的な国家対市民社会という議論とは別に、市民社会を政教分離社会、世俗化という文脈で理解する場合がある。この場合、市民的社会論は世俗主義(アルマーニーヤ)であり、同時に、理性主義(イルマーニーヤ)を内包するという議論もなされている。この議論では、市民社会とイスラームとは矛盾しないし、狭い意味でのイスラーム原理主義を標榜していることにもなる。
 もうひとつのテーマとして、中東におけるプロレタリアート、中東における労働者階級、社会主義、これらの研究の可能性をさぐる。
 一見非イスラーム的な社会運動を研究するほか、東西対抗史観では抜け落ちてしまう時代を扱う必要もあろう。現在日本史教育の場で論議されているいわゆる「自由主義史観」や「司馬史観」では、「大正」という時代が抜け落ちているという指摘があるが、これとも共通する問題である。つまり、明治・昭和は、日本が西洋に対抗した時代として東西対抗史観で説明がつくが、大正のリベラリズムは説明できなくなる。
 中東研究でも、西欧の衝撃の時代(18世紀末から19世紀末)から、次は、ホメイニ(20世紀後半)に飛んでしまい、その間が抜けていないか?
 1919年革命後のリベラリズムの時期、あるいは1946年から67年のアラブの民族解放・社会主義の時期。これらの研究が重要ではないか。

岡部

GIS(地理情報システム)をイスラーム地域研究に採り入れることで、学融合をめざす。GISとは空間データをコンピュータで扱う学問。空間データとは、位置と属性をもつデータ。データの扱いには、構築、管理、分析、表示の4つのサブシステムがある。

構築
・紙地図〜ディズィタイザーでCD-ROM化が可能。プロジェクト関係者には提供するのでどうぞお申し出を。
・リモートセンシング〜衛星による写真・データ
・電子野帳〜自分がどこにいるかわかる(モーバイルGIS) 
管理
・様々なデータを管理する
・空間的なデータを管理するデータベースの作成
分析
・相互関係を分析する(様々な道具がある)。
表示
・コンピュータ・グラフィックスの進歩で画期的変化。

 このプロジェクトを通じフィジカルとノンフィジカルのドッキングを期待している。自分たちは、主にフィジカルなものを扱うが、その変化や解析には、ノンフィジカルな側面(社会・文化など)からの視角が必要。

具体的には大域研究と小域研究のふたつを進める。
大域研究は、リモートセンシング・データを使う。8キロ四方を一点とする衛星写真データが1981年から12日ごとにある(既に購入済み)。
30メートル四方が1点のデータは過去5年程度のデータある。
3メートル四方が1点の衛星写真は97年中に衛星をうちあげの予定である。
CKICK HERE ! 衛星画像がご覧になれます

これらのデータを使うが、まず地点を選ぶ必要がある。特に3メートル精度のデータは地点を選んで、衛星に撮らせることになるので地点選びが必要。
現在、3つの地域を照準にしている。
(1)湾岸地域(雲がなく最適)、(2)スマトラ、(3)ヴェトナム(千キロ四方)。
デモとして、中東地域の1年間の緑の変化を表示する。ここから意味を読みとるのが次の作業であり、皆さんとの共同研究に期待している。

小域研究班では、トルコの都市を題材に、街路網、モスクなどの位置関係などの問題を考えている。

我々の班では、モダンな機器を備えているので、こういう資料をそれらの機器を使って分析したらどうなるだろうという提案をいただきたい。

家田

 ハンガリー近代史を専攻しており、イスラーム研究にはむしろ外在的な立場からコメントする。スラブ研究センターでは、スラブ研究の重点領域研究を推進中であり、スラブ研究との違い・共通性を考えたい。
 スラブ世界は、89年以降、かつての自己アイデンティティ(社会主義)が崩壊し、西欧キリスト教社会への回帰がめざされている。その中で、スラブとはなにかというアイデンティティの問いかけをしながら共存の条件を探っている。そのした状況の中で、「自存と共存の条件は何か?」が重点領域研究の副題となっている。
 しかし、イスラーム地域では、イスラームという自己アイデンティティははっきりしていて、外のアイデンティティとの接触、どう共存するかで問題が生じているのではないか。
 送られたきた資料を読んで感じたことは、日本のイスラーム研究者の視点がスラブ研究者と似ているということである。学際的研究をめざし、西欧近代との対抗関係のなかで研究のアイデンティティを確立しようという問題意識がある。自分たち(日本人)として、どう研究対象にかかわるのかが大事ではないか。

 分析の方法概念の問題を提起したい。
 西欧の場合、市場経済、市民社会という方法概念でおさえられるが、イスラーム世界をおさえる、スラブをおさえることができる方法概念はなにか?プロジェクトについての資料をみるかぎりでは、キーワードは、欧米で開発された方法概念ではないか。これでは、西欧との距離や差異をはかることはできても、イスラーム世界の個性はでてこないのではないか。相対的な位置、西ヨーロッパとの差異、比較という点でしかでてこないのではないか。新しい方法概念を開発しなくては、地域研究は成り立たない。これは日本人として研究することの意味にもつながっていく。地域の個性をそのまま計れる尺度を求めたい。
 その際に、「イスラーム」が分析概念になるのかどうかは疑問。
 イスラームとは、あまりに広義で分析概念として用いると曖昧になり、意味をもたなくなる。たとえば、キリスト教という概念で世界はきれない。日本人でキリスト教徒になった人、南米のキリスト教徒まで含めて、地域を設定するのは無理。
 スラブについても、同様であり、イスラームについてもそうでもないか。逆に、イスラームが内部に抱えている特徴としては、今日にいたるまで、どうして宗教の問題が前面にでるのか。キリスト教世界の場合、政治・経済の背後にひかえている。この特殊性を考える必要はないか。

ディスカッション
羽田

 中心的テーマは方法論だった。
 家田さんは、イスラームはどこまで分析概念として有効かと提議され、村井さんは、イスラーム研究の周縁と中心の問題を示された。栗田さんからは、東西対抗史観の克服、イスラーム対ヨーロッパという構図の克服が提案された。
 まず、イスラームという概念の有効性について佐藤さんからコメントをいただきたい。

佐藤

 私はイスラームを宗教と文明として広く定義したが、広く使っていくと、分析概念として有効性が曖昧になるのでは、という指摘を家田氏より受けた。
 研究対象を設定する場合には狭くしないほうが良いと考える。周縁も中心も、西洋も中東も含めてイスラーム地域を考えていきたい。分析概念として用いる場合はより狭く、きちんと定義して使っていく必要があるだろう。曖昧に使うと、かつて『イスラム都市研究』(東大出版会)で指摘されたように、あたかも「イスラーム都市」というものがあるかのような虚像を生む危険もある。つまり、分析概念としては、宗教としてのイスラームとか、政治目標としてのイスラームのように、きちっと定義して限定して使っていく必要がある。 

羽田

対象を広くするために、便宜的にイスラームという言葉を使うのか?

佐藤

それほどいいかげんなものではない。

羽田

「キリスト教地域研究」はなりたたないのではないかといわれる。イスラームで、地域をくくれるのか?この点について、栗田さん、家田さんからご意見を。

栗田

佐藤さんの説明で、そんなに無理はないのではないかと思う。
自分としては、イスラーム地域という用語はつかわないで、中東をつかう。それは、中東のなかにも、そもそも非ムスリムもいる、イスラーム原理主義に賛同しない人もいる、べつの理念を持つ人もあるからだ。しかし、イスラームをひろく解釈するというのは、そういう側面を含めて使うという意味だと理解する。また、イスラームという言葉を使うしかない場合もあることは理解する。

家田

概念の定義については、広義と狭義があってもいい。オスマン朝下のハンガリーを見ても「啓典の民」という表現で、イスラームを語るとき、イスラームだけでなく、キリスト教との関係、ユダヤ教との関係を内包している。イスラームという言葉をいろいろな形で定義して、それぞれの局面で、柔軟に使っていくことはありうるのでは。そのときそのときで、きちんと定義すればよい。それに比べ、スラブは民族概念なので、簡単に広げたり縮めたりできない。いろんな形に定義できるところに「イスラーム」のメリットがあるともいえるのでは。

長沢

イスラームという概念の宗教的広がりが問題になっているが、この点で、イスラエル研究をなさっている方でどなたか。

臼杵(地域研究企画交流センター)

 イスラエル研究者としては、アンビバレントな立場であるが、自分は、アラブの視点(イコールイスラームではない)からイスラエル研究をしている。逆に、地域の個性ということで質問がある。家田さんは、地域の個性を分析する分析概念が必要といわれた。しかし、地域の個性を定義しようとすると、いわゆるessentialismに陥る危険がある。
東南アジアやスラブ研究で、地域の個性をさぐる分析概念を、現地研究者が二項対立からはなれて構築している例はあるのか。
地域の個性とは、ほんとうは、相対的なものではないか?

家田

 スラブ研究の現地研究者のなかでは、社会主義体制下では、西ヨーロッパとは違う計画経済というアイデンティティがあったが、今は、それが失われ、新たなものが希求されている。
自分たちは他者とちがう、という意識が、対立感情を生む、地域対立を生むと考える。
差異はない、と他人がいっても、差異はないことにはできない、差異があるとかないのかいうのではなく、差異だと意識されているものに言葉を与え、差異として意識されているものを分析すること。これが研究者のつとめだろう。

村井

 地域の個性はあるのか、ないのか?と問われれば、あるという立場で研究している。しかし西洋との対抗上使われている個性もある。たとえば、人権の議論で、権威的国家においてアジア的人権論という議論がある。二項対立にかわる視点の希求は重要だが、それほど簡単ではない。
 東南アジアとはなにか、をめぐる議論、かつての二重経済論、複合経済論、ギーアツのinvolution(累緻型)論、スコットのモラル・エコノミー論、など、さまざまなキー概念が使われてきたが、西欧人が自分の社会との距離をはかるために使ってきたものにすぎない。また、現地の人自身も西欧との対抗の上で考えることがある。
 形而上学的な議論よりも、フィジカルな部分、可視的世界を本気で重視し、大切にするのが必要ではないか。見えるものをつきつめていく。イスラームを概念的につつくのではなく、イスラーム世界の中で見えるものを扱っていく方が生産的ではないか。ギーアツが商人という概念を提示したように、実際にみえるものから、イスラーム世界を切る切り口が必要ではないか。

栗田

 家田さんへ質問がある。
 地域的個性がないと、紛争はおきないのだろうか。ある差異をもった状況のなかで、差異が意味をもつ政治状況があってはじめて紛争につながるのではないか。アイデンティティとか地域性とは、固定的ではなく、重層的に存在しているものではないか。
 イスラーム世界もイスラーム教徒で一色ではない。1967年に中東ではアイデンティティの崩壊がおきた。それ以前は、アラブ意識(ほかに、エジプト、ムスリムなどなど)だった。それ以後、残されたアイデンティティがイスラーム原理主義意識ではないかと思う。一概に定義はできない。

家田

 異論はない。民族紛争がないから差異がないというのではない。しかし、対立があるから紛争がある、という点は設定できよう。

羽田

地域研究とディシプリンの関係について、三浦さんから質問用紙がきています。

三浦

 ニューズレターの編集をしていて気づいたが、グループ代表者の所信表明には地域研究にふれたものが多かった。今日は、分析概念の話になってしまったが、もっと実践的な議論が当初の目的。佐藤さんの文章「イスラーム地域研究へのいざない」には、「実証的な知の体系」の構築という目標が掲げてあるが、5年間に数億円もかけてやるのだから、各人が好きな研究をやればいいというのではすまないだろう。とすれば、なにをめざすのかということについての意思一致が必要だろう。
 地域研究ということで意思一致ができるのではないか。とすれば、各自のディシプリンと地域研究はどういう接点をもつのかを考える必要がある。東南アジア研究を専門とする立本成文『地域研究の問題と方法』(京大学術出版会)に的確な地域研究の分類がある。

1)外国研究
2)特定地域の戦略的研究(米国的なarea studies)
3)地域性を明らかにしようとするトランスディシプリナリーな研究

 第1は、歴史であれ文学であれ、単に外国の特定地域を対象とするというだけであれば、既存のディシプリン研究と同じで、わざわざ地域研究と呼ぶ必要はなくなる。第2は、国家を単位とした現代の解明に重点があり、本研究のねらいや組織とは異なるものであることは明らか。むろん3番目であるはずで、この場合の地域とは、固定的なものでなく、フレキシブルで重層的なものと考えるべきだろう。地域になんらかの一体性や固有性があることを前提にすれば、単に特定分野の研究ではダメで、佐藤さんのいう、総合的に研究するというのは必須のことになる。また、必ずしも現代・現在だけを対象にする必要はなく、むしろ視野を広げることが必要になる。
 ただ、問題は、どうやって総合するかという方法の問題であろう。その点で佐藤さんの<実施上の基本方針>にそって質問したい。
 まず「ディシプリンを生かした研究の成果を総合する」とあるが、単に個々のディシプリン研究を総和するだけではダメなのではないか。それぞれのディシプリン研究が戦う、はみ出すことが必要ではないか。たとえば経済と文学で喧嘩するということがあってもいいのではないか。
 第二に、「一枚の古文書の解読も地域の理解に関わる」と提言しているが、これまで地域研究というと現代研究というイメージが強く、それゆえに、抵抗感があった人にも参加を広げるという意味で、門戸を開いた、しかし、「一枚の古文書」の解読が地域研究につながるためには、単に文献学的に解釈するだけでは足りないだろう。個々人が、フィールドに出るなり、ディシプリンを越えていく努力が必要ではないか。

佐藤

 いろんなディシプリンで自由にやればよいというのでは、まとまっていかないのは、当然のこと。総合していこう、といえば簡単だが。ディシプリン融合がどう可能かの方向をさぐるのが、「問題発見の年」の課題だろう。「一枚の古文書」は、あまり強調されると困る。

羽田

 ディシプリン融合という点から言うと、文科系と理科系の邂逅ということは今回のプロジェクトの一つの柱だけれど岡部さんから一言。

岡部

 都市工学とはなんぞや、都市とはなんぞや、とさかんに若いころに議論していたのを思い出した。定義に困って、「都市工学」とは「都市工学科」がやっていることと定義した教授もいた。最近こういう議論をしなくなったことをみると、イスラーム地域研究は新たに生まれつつある研究だなあと思う。

羽田

地域研究とディシプリンについて、加藤さん何かご意見ありますか。

加藤(一橋大学)

 歴史をやっているので、クリアにものを分析することに憧れをもつ。その意味で、岡部さんのコメントには興味がひかれた。本プロジェクトは、マルチディシプリナリーが特徴。時間枠でくくるもの、空間でくくって研究するものがあるが、最近は、空間に比重がおかれる傾向がある。空間の方が多様で、重層性にとんでいるからだろうか。空間の方が、時間よりも、少なくとも整理しやすく、時間を扱うと形而上学的になって、クリアーにならないからかとも考える。岡部さんに尋ねたいが、時間的なものを空間的なものにおきかえるソフトはあるのだろうか?

岡部

 そんな「パンドラの箱」はない。フィジカルな変容を時間軸にそってみるソフトは開発中。あるにはあるが、人文科学的な分析にはまだまだ十分ではない。 

松原(地域研究企画交流センター)

 「イスラーム地域研究」という命名には野心的なものを感じる。が、問題も多くはらんでいる。今回は地域研究を多くの人が考えるよい機会になる。最終的につきつめていくと、ディシプリンをこえるという緊張を含みつつ、枠組みを認識し直す機会が地域研究という手法だと考える。地域研究と唱えれば解決するものではなく、ある種の哲学になっていくと思う。その意味で、地域研究はひとつのディシプリンとはちがう。地域研究的手法によるイスラーム研究という側面とイスラーム研究からみた地域研究という両面があり、このふたつの融合ができれば、イスラーム地域研究になるだろう。

羽田

佐藤さんから最後に、まとめと抱負をお願いします。

佐藤

 今日の議論を通じて、イスラームという言葉の理解について、あるいは、プロジェクトがめざすところについて、あまり大きな誤解がないようにしたかった。ある人は南を向き、ある人は北を向くということではなくしたい。その意味では、一定の理解はえられたのではないかと期待する。自分のディシプリンを捨てるのではなく、それをもちだし、そこに何かを獲得することができればいいのではないか。方法や概念の問題は、ここで早急に結論をだしてもつまらない。それを続けていくことが大事。
 あせらず、気軽に楽しい研究をしていきましょう。