『世界民族問題事典』平凡社
(1995年9月)

寛容法(Act of Toleration)
2001. 1. 19 更新


  正規には「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」という。名誉革命にともない、1689年の議会で成立した。その法と実際は、イギリス近代史における国家と教会の編成原理(constitution)にかかわる重要な問題であった。

  寛容法で公認されたのは、プロテスタントにして英国国教会* を信奉しない者(おもにピューリタンの流れをくむ者)の信仰と教育の自由であった。革命前からの審査法・自治体法は失効しなかったから、非国教徒が公職につくことはできない建前であった。しかし、ときは啓蒙の時代、法文の規定以上に非国教徒の自由は拡大した。歴代のホウィグ党政府は国教徒とプロテスタント非国教徒の連携のうえに成り立っていたし、また非国教徒のうちには必要におうじて国教会で礼拝するという便法(occasional conformity)によって国会や都市の議員、そして公職に就くものが続出したからである。国教会内の守旧派(High Churchmen)が主張しつづけた、信教による法的差別はほとんど実効をあげることなく、寛容法は、歴史的にイギリスにおける宗教的・社会的非寛容にたいする防波堤となり、世俗合理主義および自由主義の法的基礎ともなった。

  カトリックへの寛容は、やはり実態として18世紀後半に進行していたが、最終的にアイルランド問題* への対策として、1829年「カトリック解放法」が成立し、法的には解決した。

  ユダヤ人について、政府はすでに1753年に「ユダヤ人帰化法」でいったん差別を撤廃したが、民衆の反撥は強く、翌年帰化法の廃止を余儀なくされた。B・ディズレーリのように国教徒に改宗したユダヤ人は、議員になるにあたっても大臣になるにあたっても障害はなかったが、ライオネル・ロスチャイルドが最初のユダヤ教を信じるユダヤ人議員として国会に席をしめるのは、ようやく1858年のことであった。

 参考文献: 今井宏(編)『イギリス史U』(山川出版社)、pp.257, 396-7 の叙述は日本の学界の通説にしたがっているが、誤解をまねきやすい。
 むしろ、実際については以下を参照。近藤和彦『民のモラル』(山川出版社)、pp.71-83, 88;
  『岩波講座 世界歴史』16巻<主権国家と啓蒙>、p.60

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