本郷の富士山について(最終更新:2022年6月20日)

 以下に示す文章は、2016年に公刊した拙稿「史跡とならずに消えた名所―本郷の富士山」(『東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要 文化交流研究』29号)から一部を抜粋し、修正・加筆を行ったものである。今日では語られることも少なくなってしまった本郷の富士山(椿山)に関する社会的記憶を残す――あるいは新たに呼び起こす――ための一助として、ここに示す。研究の進捗に伴って新知見が得られたときには、内容を更新していく。

 明治6年(1873)1月1日以前の西暦はあくまでも参考用に掲げるものであり、実際の和暦とずれている可能性があることを留意されたい。



1. 本郷の富士山/椿山の概要

 本郷の富士山は、東京大学本郷キャンパスの赤門に入ってやや右手まっすぐに進んだところ、より正確に言うと、ほぼ東南東の方向に25-45メートルぐらい入った位置にあった。今日この場所には赤門総合研究棟が立っているが、それはかつて経済学部の建物であり、その建設のために1964年10月14日から1966年3月31日にかけて行われた二期工事(東京大学経済学部1976: 98-102)のうちの第一期工事によって、本郷の富士山は完全に破壊消失した。当時の東京大学新聞(1963年7月3日、1964年6月17日、1964年10月19日、1964年11月16日付)が工事の経緯を報告しているが、1964年11月16日付の同紙によると、そのときには「由緒ある椿山はすでに影も形もなく」なっている。ここで言う「椿山」は、本郷の富士山の明治時代以降の通称であり、すなわち同じ山を指す。以下、江戸時代との関連では「本郷の富士山」ないしは「富士山」、明治時代から1964年の時期との関連では主に「椿山」の呼称を用いる。
 本郷の富士山の高さについては推測になるが、明治16年(1883)に参謀本部陸軍部測量局が製作した「五千分一東京図測量原図:東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍」の地図を見ると、椿山のところに2メートルごとの等高線が三本入っていることがわかる(図1)。このことから、当時で6メートル以上8メートル未満の高さがあったことが推測できる。

本郷の富士山

図1 1883『五千分一東京図測量原図』に見える椿山(中段右寄り)


 椿山の写真はそれほど多く残っていない。筆者がこれまでに確認できたかぎりでは、椿山そのものを写す目的で撮られた写真のうち公刊されているのは、1927年刊の鳥居龍蔵による『上代の東京と其周囲』(67頁)、1937年刊の本郷区役所による『本郷区史』(19頁)、1940年刊の東京帝国大学庶務課による『懐徳館の由来:附赤門と育徳園』(32頁)、1964年6月17日付の東京大学新聞に掲載された四点のみである(1)。このうち最も映りの良い『本郷区史』内の写真を図2に示す。


本郷の富士山

図2 『本郷区史』(1937年刊、19頁)内の富士山


 これとは別に、東京大学/東京帝国大学を撮った写真に椿山が写り込んでいるものは少なからず残っている。そのうちで有名なのは1900年パリ万国博覧会に出品する目的で小川一真が制作した写真帖『東京帝国大学』(明治33年版)内の「赤門」の写真だが、これはむしろ例外であって、大部分の写真は、赤門をモチーフとした名所絵葉書用に撮影されたものである。こうした名所絵葉書のうち、異なる時代に撮られた三点を例として図3-5に示す。いずれも、椿山に生えていた木が赤門の右手後ろに写り込んでいる。


本郷の富士山

図3 名所絵葉書「帝国大学赤門」上方屋作製、1907年から1911年の間の撮影(筆者蔵)

 

本郷の富士山

図4 名所絵葉書「東京帝国大学赤門」中川七福堂作製、1911年から1918年の間の撮影(筆者蔵)


本郷の富士山

図5 名所絵葉書「赤門」丸一堂作製、1945年から1964年の間の撮影(筆者蔵)


 江戸時代の椿山、すなわち富士山の状況については、先行研究(竹谷2009、宮崎1990、2000、森下1990)を参照しながら近世の随筆集や地誌(1614-31年頃刊の『慶長見聞集』、1662年刊の『江戸名所記』巻二、1732年刊の『江戸砂子』巻之三、1825年頃成立の『兎園小説』、1830年完成の『新編武蔵風土記稿』巻之十九、1836年刊の『江戸名所図会』巻五第十五冊、1850年刊の『武江年表』)を確認すると、以下のようにまとめられる。
 まず本郷の富士山の初見の史料は、慶長19年(1614)から寛永8年(1631)頃に書かれた三浦浄心による『慶長見聞集』である(竹谷2009: 44)。同書には「神田山の近処本郷といふ在所に昔より小塚のうへにほこら一つあり」という記述があり、その小塚の上に「冨士浅間立せ給ふ」と言われていたことが報告されている(2)。『慶長見聞集』が記された段階ですでに「昔より」小塚の上に祠があったというのだから、祠が立てられたのは江戸期のかなり早い段階ないしはそれ以前であることが推測できる(竹谷2009: 44-45)。 なお、小塚すなわち富士山の本体に部分的にかかる範囲で東京大学埋蔵文化財調査室が行った発掘調査の結果を見るに、塚は人工的に築かれたものであった可能性が高い(東京大学埋蔵文化財調査室2002: 18)。
 さらに時代が下った文化文政期(1804-30年)にまとめられた『兎園小説』と『新編武蔵風土記稿』には、天正元年(1573)ないしは慶長8年(1603)に本郷の住民たちによって山の上に富士浅間が勧請された経緯が記されている(3)。また、寛文2年(1662)に出版された浅井了意による『江戸名所記』には、駒込にあった富士神社に関連して次の記述がある。


  このやしろは、百年ばかりそのかみは、本郷にあり。
  かの所にちいさき山あり。山の上に大なる木あり。
  その木のもとに六月朔日に大雪ふりつもる。
  諸人此木の本に立よれば、かならずたたりあり。
  この故に人みなおそれて、木の本に小社をつくり、
  時ならぬ大雪のふりける故をもつて、富士権現を
  くわんじやう申けり
  (『江戸名所記』巻二の二「駒込村富士社並不寝権現」より)


 ここから、駒込の富士神社の起源が本郷に祀られていた富士権現にあったことがわかる。ある年の六月一日、本郷の小さな山の上に生えていた大木の下に大雪が積もり、その頃からこの木のそばでは祟りがあると怖れられるようになり、祠をつくって富士権現を勧請することになったのがその始原ということである。ちなみに六月一日というのは富士信仰において神事が行われていた日である。
 本郷の富士権現が駒込に遷座されたことは、すでに『慶長見聞集』の中で暗示されていて、さらに『江戸名所記』よりも時代の下った『江戸砂子』、『兎園小説』、『新編武蔵風土記稿』、『江戸名所図会』、『武江年表』でも述べられており、暫定的ながら史実と考えることができる(4)。駒込の富士神社は今日も残り、毎年七月一日(旧暦六月一日に相当)に盛大に山開きのお祭りを行っている。
 次に富士山と加賀藩邸との関係であるが、元和2-3年(1616-17)あたりに前田家が本郷に拝領した土地の中に富士山は含まれていた。この土地はその後、加賀藩下屋敷として、そして天和3年(1683)以降は同藩上屋敷として使われることになる。つまり、本郷の富士山は江戸時代の大部分を通して加賀藩本郷屋敷の一画を占めていたことになる(5)。
 『兎園小説』と『新編武蔵風土記稿』によると、本郷の富士山が加賀藩敷地内に組み込まれたことを受けて、そこに祀られていた富士権現が寛永3年(1626)ないしは6年(1629)駒込に遷座することになったという(竹谷2009: 47-48)。『兎園小説』はこの理由を、「以前のごとく参詣ありて御屋敷の門を出入しけるをいかがしき」という判断、すなわち警備上のものとしている。
 一方、筆者が確認できたかぎりで加賀藩史料の中で本郷の富士山が最初に言及されるのは、慶安3年(1650)に起きた本郷の下屋敷での火事についての記述内である。この火事について、宝暦年間(1751-63)に成立した山田四郎右衛門による加賀藩通史『三壷聞書』は、「本郷五町目の加賀の御下屋敷に行く道筋に、富士塚とて小山有り。其きわに小家有て火を出し」と述べている。また1811年まで記録された津田政隣による編年体の『政隣記』は、「江戸本郷富士塚之小家より出火」と記している(6)。すでに火事の20-30年前に駒込への遷座は行われていたはずだが、その後も跡地の山は「富士塚」と呼ばれていたことがこれらの記述から読み取れる。
 実際、前田家は遷座後も自らの敷地内に残る「本郷の富士山」を大切に扱い続けたようである。上屋敷時代(1683年から幕末まで)の本郷加賀藩邸を描いた絵図は180点ほど確認されているが(杉森1990)、それらに含まれる文字記載から、同山が「富士山」と呼ばれていたことが推測できる。また、1662年刊の『江戸名所記』によると、遷座後にも山上には社が存在し、毎年六月一日には神事がとり行われ、老若を問わずに地域の人々が群集していた。この様子を同書は以下のように伝える。


  今も猶そのやしろの跡残りて、毎年六月一日に
  神事あり。
  山のかたち富士山をかたどる。その前に書院をたて、
  富士書院と名付けらる。
  山上のやしろはいまも六月一日には老若群集す
   (『江戸名所記』巻二の二「駒込村富士社並不寝権現」)


おそらく加賀藩は、毎年六月一日にかぎって、本郷の住民が富士山を訪れることを許していたのだろう。このことを裏づけるかのように、『東邸沿革図譜』内の「本郷邸総囲之図」は「富士山」の西側に「フジ道アト」があったことを示しており、同図が描かれた延亨期(1744-48年)に地元町人が本郷の富士山を訪れるための道が存在していたことが推測できる(竹谷2009: 54)。
 本郷加賀藩邸を描いた絵図面の多くには、藩邸内に残った富士山も描き込まれている。このうち比較的よく知られているのは1840-45年頃に描かれた「江戸御上屋敷絵図」(金沢市立玉川図書館所蔵清水文庫、特18.6-27-1)で、この中では富士山のところに「冨士権現旧地」と記されている(宮崎2000: 32)。また1800年前後に描かれた「江戸上屋敷小屋絵図」(加越能文庫、特16.18-136)では、富士山のところに「人不入所」と記されていて、同地が一種の怖れの場となっていたことがわかる(森下1990: 52)。
 一方、上に示した『江戸名所記』の引用からは富士山の前に書院が立っていたことが読み取れるが、1800年前後の「前田家本郷屋敷絵図」(金沢市立玉川図書館所蔵河野文庫、095.0-6)と1803-06年頃の「前田家本郷屋敷略図」(金沢市立玉川図書館所蔵河野文庫、095.0-85)の絵図面では、富士山の横に「山ノ上御亭」と記されており、同山の上に四阿のような構造物が立っていたことが推測される(7)。加賀藩の歴史家・富田景周(1744-1828)は、本郷の富士山はその頂部から本物の富士山が望見できることから名がついたと推察している(8)。それが正しいとすれば、同山の上の四阿は本物の富士山を眺めるために建てられたことになるが、おそらく本物の富士山を眺めるという行為と富士権現を祀るという行為はゆるやかに一体化していたのだろう。

2. 明治期における椿山の変遷

 上に示したように、駒込に富士権現が遷座された後も、本郷の富士山では毎年六月一日に神事が行われ続けたようである。しかし、1662年の『江戸名所記』以外にこの継続性に明確に言及した史料が見つかっていないため、17世紀後半以降のことについてはあくまでも推測にとどまる(9)。
 その後、幕末の安政2年に本郷の加賀藩屋敷は大地震の被害を受け、また明治元年(1868)閏4月には本郷春木町より出火した火災によって屋敷の大半が焼失する。焼け残ったのは「隅之御居宅・大金御蔵」、「南鳶小屋」、「枕小屋辺」(『加賀藩史料』明治元年閏4月17日)、またその他に赤門や南東部の長屋(東長屋)など一部の建物のみだったため、おそらく富士山もかなり火を受けたことだろう。
 その三年後の明治4年、廃藩置県に伴って103,822坪あった加賀藩敷地のうちの91,152坪は国に接収されて文部省用地となり、12,670坪のみが前田家の土地として残った。このとき、富士山は文部省用地の中に含まれることになり、前田家の管理下を離れることになる。前田家自体は、東京帝国大学敷地交換を行う大正15年(1926)まで、本郷の旧敷地の南西一角に屋敷を構えつづけた。
 明治5年(1872)には、後に東京大学が占めることになる文部省用地、本郷に残った前田家の敷地、そして春日通りに面したかつての加賀藩屋敷の南長屋(通称「盲長屋」)があった区画をまとめて、「本富士町」の町名がつけられた(10)。これは、かつて駒込富士神社がその地域にあったことに因る。つまり、寛永期の遷座から250年ほどが経過した後にも、富士山の記憶は本郷に残りつづけたことになる。
 明治初期に富士山がどのような状態にあったのかは、関連史料がほとんどないために想像するしかない。しかし、東京医学校が明治9年(1876)に移ってくるまで文部省用地は「荒漠タル原野」のような状態だったというのだから(『東京大学百年史 部局史四』: 403)、おそらく富士山も荒れていただろう。この期間に六月一日の神事が行われていたのかはわからない。しかし、明治期になった頃から「椿山」の呼称が広がっていったということから、本郷の富士山は次第に富士山としてではなく、椿山、それも本郷キャンパスの一部としての椿山としての性格を強めていったと推測される。
 東京大学医学部が1880年に作成した『東京大学医学部一覽:明治13-14年』には当時の医学部の建物群の位置を示した平面図が含まれているが、この中には椿山も描き込まれている(図6)。その様子をよく観察すると、山の周囲に柵が巡らされていることが読み取れる。同じ柵は1883年の「五千分一東京図測量原図:東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍」の中でも描かれている。したがって、少なくとも1880年代には椿山に簡単な保護の手が入っていたことになる。
 その保護を担っていたのはもちろん大学であろうが、前田家が富士山との縁を切ったわけではない。大正元年(1912)12月に製作された前田家敷地の図面「本郷惣絵図(大正)のうち本郷本邸平面図」(公益財団法人前田育徳会所蔵)には、敷地内の北端の東西壁に沿って、ちょうど壁の北向こう側に椿山がある位置に小さな構造物が描かれていて、そこには「富士祠」の文字が添えられている(11)。つまり、椿山が前田家の管理下を離れた後も、同家は自らの敷地内の椿山に最も近い場所に小祠を建てて富士権現を祀っていたのである。


本郷の富士山

図6 1880年『東京大学医学部一覧:明治13-14年』内の平面図に見える椿山(右側)


 明治期の近代化が進むにつれ、東京大学は急速に発展していく。この時期は考古学研究の萌芽期とも重なっており、その中で、椿山が古墳ではないかという説が浮上してくる。そして明治18年(1885)の夏、ついに椿山に発掘調査の手が入る。同山が記紀に出てくる豊城入彦命に関係のある墓ではないかと考えた駒場農学校の福家梅太郎、また坪井正五郎や有坂鉊蔵らによって発掘は主導されたようである(有坂1926)。もうこの頃には「富士山」の呼称を使う者はかなり減っていただろうし、同地を富士信仰の場所とみなす者もほとんどいなかっただろう。
 発掘から出土したのは江戸期の富士権現社に関連する切り石だけだったらしく、調査結果として椿山が古墳であるという説は否定された。このことについて、有坂鉊蔵は1920年代になって『人類学雑誌』にて以下のように回想している(有坂1923、1926)。


  つひこゝからは何も出ませんでした
  下の方から切石が二三出ましたがこれは宮などの壇石と
  思はれるものでした。
  後で聞けばこの外に何もなかつたさうです。
  (有坂1923: 194)


  多くの人夫をかけて瓢形の大きな方の山を掘つたが、
  意外にも神社の石階の石らしい切石を若干掘り上げた
  のみで、古塚らしい香もしなかつた。
  (有坂1926: 64)


 発掘調査については読売新聞も報道している(12)。明治18年(1885)7月10日付の記事は、発掘で出土した「石櫃」には何が入っているだろうか、と興奮ぎみに伝えている。しかし、同年11月1日付の記事では、「開けて悔し」の見出しとともに、石櫃だと思われていたものは実はただの穴であったと報じている。
 入澤達吉も、昭和3年(1928)に行った講演「明治十年以後の東大医学部回顧談」の中で椿山の発掘調査に言及している。

  或る時駒場の農学校の学生に福家梅太郎と云ふ人がありまして、
  是は人類学の坪井正五郎君などの感化を受けたのであるが、
  どうしても椿山は古墳であると云ふ説を立てゝ
  許可を得て自分で鋤鍬を把つて掘りました。
  私共始終見に行つたものである。
  其内に勾玉か石棺か出て来るだろうと云ふて居つたが、
  遂に何にも出ないで仕舞つた。
  (入澤達吉1928: 586-587)


 有坂の回想録を読むと、椿山が古墳であるという説は1885年の発掘の結果、完全に退けられたかのような印象を抱くが、実際には古墳説はその後も残った。そもそも有坂自体が、大正12年(1923)の回想録の中で椿山を「古墳の事」として紹介している(有坂1923: 194)。また鳥居龍蔵も1927年刊の『上代の東京と其周囲』の中で、椿山を古墳として取り扱っている(鳥居1927: 67)。そして昭和11年(1936)には、東京市公報が椿山を「指定外史蹟名勝天然記念物・原史時代遺蹟」として「椿山古墳」の名の下に言及している(昭和11年4月2日発行の東京市公報第2685号)。この「椿山古墳」の名称は今日でも生きていて、行政で言うところの「周知の埋蔵文化財包蔵地」として、文京区の遺跡地図に「文京区遺跡No.37 椿山古墳」が登録されている(13)。
 1885年の椿山の発掘は考古学的また社会的には芳しい成果をあげなかったが、それとは無関係に、前田家の敷地内では富士権現が祀られつづけた。しかし、同家が明治天皇の行幸を受ける準備として敷地内に西洋館と和館の建設(1905年開始)を進めた際に、お社を別の場所に移す案が浮上したようである。このことを1907年刊の『新撰東京名所図会(風俗画報増刊375号):本郷区の部、其の三」は以下のように伝える。


  今小祠を存す、先年前田侯爵、邸宅改築の際、他に之を
  遷さんと欲す、旧加賀鳶松島彦八(消防第四分署一番組
  組頭)乞ふて森川町の自宅に祀れり、幾何もなく
  神威を畏れ、侯爵邸に復す


つまり、前田家敷地内の小さな社で祀られていた富士権現を、かつて前田家に仕えていた加賀鳶で森川町に住んでいた松島彦八の自宅に祠ごと遷座しようとしたが、結局、神威を畏れて祠は前田家の敷地内に戻されたということである。当時の前田家当主は、第十六代目の利為(1885-1942)であった。
 大正15年(1926)に前田家は東京帝国大学と敷地交換を行い、同家は300年以上屋敷を構えてきた本郷を去り、駒場に移っていくことになる。実際の移転は、駒場の新邸がある程度完成した昭和3年(1928)に行われた(本郷区役所1937: 1125)。
 椿山はその後も大学の敷地内に残ることになるが、それまで前田家敷地内で祀られてきた富士権現社は前田家の手を離れ、地元の町会である本富士会の管理下に移されることになった。この経緯を東京帝国大学庶務課が1940年に出版した『懐徳館の由来:附赤門と育徳園』は次のように説明する。


  前田家が敷地移転の際、
  これ(筆者註=「富士神社の祠」)を町会に譲り、
  町会の有志によつて今尚祭祀を続けられて居る。
  懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られて居る
  富士浅間神社といふのが即ちこれである。
   (東京帝国大学庶務課1940: 30)


引用に出てくる「懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られて居る富士浅間神社」とは、今日も春日通り沿いの小さな公園内にある富士浅間社のことである(図7)。1920年代後半に前田家の手を離れて本富士会の管理下に入ってからも、富士権現は本郷の地にて祀られつづけてきたのである。


本郷の富士山

図7 今日の本郷の富士浅間社(筆者撮影)


 一方、かつて富士権現を祀る場所であったことが一層忘れられた椿山は、文字通り椿の生い茂った山として、赤門の後ろに残りつづける。とりたてて目立った印象を与える山ではなかったが、明治期以降、東京帝国大学と縁のあった作家や俳人の作品中にその名が出てくることから、大学教職員や学生の大多数が椿山の名前を認識していたのではないかと推測される。


  赤門を入れば椿の林かな
  (正岡子規1897年『子規全集三巻』)


  今の赤門の傍の方に椿山といふ所があッたが、
  今では僅かに其の跡があるのみである
  (戸川残花1912年『江戸史蹟』)


  ノート暗記に来し頃の椿山今も
  (荻原井泉水1914年『自然の扉』)


  門をはひつて右手寄りには、
  椿の一杯生えた円形の小山があつて、
  冬になると、
  よく鳩がかしはの腹を木の間から見せた
   (馬場孤蝶1942年『明治の東京』)


3. 椿山が消えた後に


 戦後になって、そんな椿山も経済学部新館建設工事のためについに1964年に取り壊される。本郷キャンパス内の名所が消えてしまうことを惜しむ声が学内にあったこと、そして山上に生えていた椿やツツジが工事前に懐徳館に庭の植え替えられたことを1964年6月17日付の東京大学新聞は報告している(15)。また、同記事内には次のようなことも書かれている。


  せめてのささやかなレジスタンスは
  「椿山は“首塚”と異名をもつほど人々に恐れられた
  地なんですよ。包帯のすてたあとに生じた破傷風菌の
  ためなんですが――。
  でも破傷風菌は今でも生きていて、今だに
  “タブーの地”といわれていますがね」との声なるか。
  (東京大学新聞1964年6月17日「消えゆく“古き名所”」)


もともと富士権現が祀られていたことは忘れられても、かつては神域、すなわち怖れの地であったことの社会的記憶が、かたちを変えながら1964年まで残っていたのかもしれない。
 本郷の富士山の物的痕跡が地上から消えた翌年の1965年4月、今度は、約百年間使われてきた行政上の「本富士町」の地名が「本郷七丁目」に変更された。かつての富士山の記憶を細々ととどめてきた地名までもが、公的になくなってしまったのである。本郷の富士山の社会的記憶という意味では、1964-65年はまさに致命的な二年間であった。今日では、「本富士」の地名は本富士警察署と本富士町会に残るばかりである。
 そして、後者の本富士町会こそが、春日通り沿いに残る今日の富士浅間社を管理している組織である。大正13年(1924)に立ち上がった本富士会(本郷区役所1937: 588)を前身とし、昭和21年(1946)に設立された本富士町会は、今でも毎年七月一日(旧暦の六月一日に相当)に同社でお祭りをとり行い、また定期的にお社の掃除や手入れも行っている。
 今日の富士浅間社のそばに置かれている石造物には、奉献者の名前と奉納の日付が刻まれているものがある。日付だけを述べると、手水鉢には「嘉永七寅年正月吉日」、お社前の門にあたる場所に置かれている左右一対の石造物には「大正十年六月吉日」、賽銭箱には「昭和三年六月吉日」、またお社に向かって右奥にある「冨士浅間大神」と刻まれた石碑には「明治十四年六月一日」と刻まれている。「六月一日」や「六月吉日」は、六月一日のお祭りに合わせて石造物が奉献されたことを示唆する。昭和3年(1928)の賽銭箱は、富士浅間社を前田家から譲り受けた直後の六月一日に本富士会が奉納したものと思われるが、その正面には「本富士」の文字をモチーフとした紋が入っており、さらなる調査が求められる(15)。
 また、明治14年(1881)の石碑には「長屋中」、大正10年(1921)の石造物には「南長屋一同」が奉献者として刻まれているが、これらは加賀藩屋敷の南長屋(通称「盲長屋」)があった場所に明治期になって建てられた町家の住民たちを指すと思われる(16)。1881年と1921年の時点では本富士会はまだ設立されていないが、実質的には明治期の南長屋の住民たちが後の本富士会員となったようである。おそらく彼らは、前田家がまだ本郷にいたときから同家敷地内の富士権現社にて六月一日の神事をとり行い、1881年と1921年に上述の石造物を奉献したのだろう。そのような縁があったからこそ、前田家は1928年に駒場に移転する際に本富士会に富士権現社の管理を託したのではないかと考えられる。



参考文献

有坂鉊蔵1923「考古学懐旧談」『人類学雑誌』38巻5号
有坂鉊蔵1926「思ひ出」『人類学雑誌』41巻2号
入澤達吉1928「明治十年以後の東大医学部回顧談」『中外医事新報』1141号
金行信輔2000「描かれた大名屋敷」『加賀殿再訪: 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(東京大学総合研究博物館)
杉森哲也1990「資料4 加賀藩江戸藩邸絵図目録」『東京大学本郷構内の遺跡:山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室)
竹谷靱負2009『富士塚考』(岩田書院)
東京市区調査会1912『東京市及接続郡部地籍台帳 2』(東京市区調査会)
東京大学医学部1880『東京大学医学部一覽:明治13-14年』(東京大学医学部)
東京大学経済学部編1976『東京大学経済学部五十年史』(東京大学経済学部)
東京大学埋蔵文化財調査室2002『東京大学構内遺跡調査研究年報3 1998・1999年度』(東京大学埋蔵文化財調査室)
東京大学埋蔵文化財調査室2008『経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告』(東京大学埋蔵文化財調査室)
東京帝国大学庶務課1940『懐徳館の由来:附赤門と育徳園』(東京帝国大学庶務課)
鳥居龍蔵1927『上代の東京と其周囲』(磯部甲陽堂)
中山学2014「駒込富士神社の成立と歴史的展開」『東京都文京区 駒込神明町貝塚 第3地点―駒込備蓄倉庫等建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告―』(文京区教育委員会)
原祐一2002「2 総合研究棟(文・経・教・社研)地点発掘調査略報」『東京大学構内遺跡調査研究年報3:1998・1999年度』(東京大学埋蔵文化財調査室)
藤井恵介2005「東京大学本郷キャンパスの歴史と建築」『東京大学』(東京大学総合研究博物館)
文京区町会連合会2014『文京区町会連合会:創立60周年記念誌六十年のあゆみ』
文京ふるさと歴史館1995『江戸の新興宗教―文京の富士講―』(文京区教育委員会)
本郷区役所編1937『本郷区史』(本郷区役所)
宮崎勝美1990「加賀藩本郷邸とその周辺」『東京大学本郷構内の遺跡:山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室)
宮崎勝美2000「江戸本郷の加賀屋敷」『加賀殿再訪: 東京大学本郷キャンパスの遺跡』(東京大学総合研究博物館)
森下徹1990「育徳園」『東京大学本郷構内の遺跡:山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室)

(1) この他には、小寺武久氏による未公刊の卒業論文「東京大学及び構内建築物を中心とした近代建築史」(東京大学建築学科に1960年提出)にも1960年頃の椿山の写真が出ており、また東京大学経済学部所蔵の写真記録帳にも1964年頃撮影の椿山の様子が写っている。
(2) 慶長19年(1614)から寛永8年(1631)頃に三浦浄心が記した『慶長見聞集』は、本郷の富士山について次のように述べている:「神田山の近処本郷といふ在所に昔より小塚のうへにほこら一つあり、冨士浅間立せ給ふといへども近所の者信敬せざれば、他人これを知らず、然る処に近隣こまごめという里に人ありて、浅間こまごめへ飛来り給ふといひて塚をつき其上に草庵を結び御幣立おきつればまうでの袖群集せり」。
(3) 文政8年(1825)頃に曲亭馬琴らがまとめた随筆集『兎園小説』は、本郷の富士山について次のように述べている:「江戸本郷加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯六月朔日雪ふりたる所なり、この雪冨士の形につもりたるゆえに、其所へ浅間の宮を造立し毎年六月朔日まつりをなす、その比本郷に桔梗屋何かし、水野兵九郎、源右衛門といふもの三人にて、祭の事をとりはからひけるとぞ、その後右浅間の宮の所も加州町や志きへ囲いこみとなりても、以前のごとく参詣ありて御屋敷の門を出入しけるをいかがしきとて同所御弓町真光寺へ浅間の宮を移されしが、この地不浄なりといふ夢の告ありしによりて程なく駒込の原へ遷座あり。今の駒込の冨士これなり。駒込へうつされしは寛永三戌年なり」。また、文化・文政期(1804-30年)に編まれ、文政13年(1830)に完成した地誌『新編武蔵風土記稿』の巻之十九(豊島郡之十一)は、同山について次のように記す:「寛文の頃記せる縁起に、天正元年五月木村戸右衛門牛久保隼人と云民、浅間の霊夢によりて本郷の内にありし古塚より、行基手刻の牛王板及剣一振幣帛等を得たり、故に其所に一社を造立し富士浅間を勧請す、同き六月朔日社辺に市を立近郷の者群集せり、其後松平筑前守邸中に入しをもて寛永六年今の所に移れりと云」。
(4) しかし中山学(2014: 43-47)は、『慶長見聞集』の文章が、本郷の富士浅間が駒込に遷座されたことを暗示していない可能性を提起する。関連史料群を再精査した中山は、駒込の富士神社は駿河国から独自に富士権現が勧請されて成立したものであり、一方、本郷の富士権現は地元の人々の信敬が足りなかったために自然に衰微していった、と読み取ることも可能だと指摘する。この指摘は、史実と伝承、また記録と記憶との間の乖離がいかに生じるかを洞察する。
(5) 竹谷(2009: 49-52)によると、元和年間に加賀藩敷地内に含まれることになった富士山に人々は以前と変わらず自由にアクセスできていたようだが、それが万治2年(1659)年に同藩下屋敷内に囲い込まれたことによって、いよいよ日常的には近づけなくなった。
(6) 『三壷聞書』と『政隣記』にはこの火事が「四月十九日」に起こったと記されているが、同火事についての『徳川実記』や『加賀藩史料』の記述を見ると、これが「三月二十九日」の誤りであったことが推測できる。
(7) 「前田家本郷屋敷絵図」については森下徹1990「育徳園」の52頁および註11を参照。また「前田家本郷屋敷略図」の写真が東京大学埋蔵文化財調査室編1990『東京大学本郷構内の遺跡:山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』に収められている(写真13)。
(8) 富田景周1823『東邸沿革図譜』(石川県図書館協会1938『景周先生小著集』に再録)、129-30頁。
(9) 東京帝国大学庶務課編1940『懐徳館の由来:附赤門と育徳園』には、「富士神社が駒込神明町に遷座された後も、同丘上に富士神社の小祠が前田家の氏神として祀られてあつた」と記されている(30頁)。ただし、この記述の根拠となった史料が示されていないため、信憑性の判断には注意を要する。
(10) 厳密に言うと、明治5年(1872)につけられた町名は「本郷本富士町」であり、明治44年(1911年)に冠称の「本郷」を除いて「本富士町」となり、その名は昭和40年(1965)まで残った。
(11) 東京大学埋蔵文化財調査室の堀内秀樹氏よりご教授いただいた。
(12) 明治18年(1885)7月10日付の読売新聞朝刊には「椿山の石櫃」という見出しで以下のように書かれている:「本郷の東京大学医学部の赤門を入りて右の方に椿山といふ小高き丘あり此山の来歴を聞くに今より二百余年前まだ加州家へ邸地として賜はらざりし以前より有るものにて其頃ハ山の上に一つの祠あり富士の社と称へ来たりが加州家の邸地となりし時此祠を駒込に移し(今の駒込の富士と云ふハ是なり)その跡へ浴室を建てられしに其頃同家に仕へし女中がこの浴室にて変死せしより是こそお富士様の祟りならんなど当時の人が云ひ囃せしより同家にても此山の周囲へ垣根をなし浴室ハ其儘立腐れとなされたり此頃より椿の木数多生ひ出でしに何時となく椿山と名を付けしとか然るに此の山の下にハ古代の宝物又は変死せし女の屍も埋あるなど様々云ひ伝ふるに付き去る頃或人が前田家に就き其の旧記の取調を講はれたれど只言伝へに左様な事あるのみにて委しき事ハ知れずとあると大学総理加藤弘之君が聞き込まれ此地ハ近き湯島大塚に並びて古戦記にも見えたる地なり何にさま彼の塚にハ由緒ある事ならんと宮内省二等属兼大学講師大澤清臣君と商議せられ六七日前とか駒場農学校の生徒を招き人夫を集へて此山の片隅を掘せしに韓銭二つより外ハ何物も出ざりしに尚二間ほども深く掘て見ると下に四尺四方の石櫃あり因て加藤総理より此趣きを内務省へ伺はれ其指令を待ちて櫃の蓋を開かるべしと云ふが如何なる物の出るならんと今の世に清少納言あらバ見たきものといふ中へ此も一かど加へらるべし」。また、明治18年(1885)11月1日付の読売新聞朝刊の「開けて悔し」という見出しで以下のように書かれている:「前号の紙上へいかなる物が出るならんと書き載せし本郷元富士町旧加賀邸のうちにて今ハ東京大学の附属地なる椿山の石室ハいろいろ評議のうへ此ほど掘り改められしに這ハ如何に思ふにハ違ひて何もなく只の石穴なりしといふ」
(13) ただし、この「文京区遺跡No.37 椿山古墳」は、もともと椿山があった場所からずれて遺跡地図上に登録されている。東京大学埋蔵文化財調査室2008『経済学部学術交流研究棟地点発掘調査概要報告』の10頁を参照。
(14) 「椿山のおよそ百本の椿、ツツジなどが、椿山を管理している施設部のてで、懐徳館の庭に置きかえられている。この移植は、この七月椿山に建てられる予定の経済学部新館のため、東大の歴史に由緒深い椿山が切り崩されるのを惜しむ多くの人々の要望に応じて行われるもの。」(東京大学新聞1964年6月17日「消えゆく“古き名所”」)。
(15) この紋は富士講の一般的な講紋に似たデザインとなっているが、本富士町に相当する場所に富士講が存在したことを示す史料は今のところは見つかっていない(文京ふるさと歴史館1995: 18-9を参照)。
(16) 前田家がこれらの町家を所有し、貸していた(東京市区調査会1912: 87、本郷区役所1937: 1121)。

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