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死者と生者の共同性
1番大教室を満たした約120名の聴衆を前に、まず稲上毅・人文社会系研究科長から、最近ご母堂を亡くされた経験に言及した心に残るご挨拶をいただいた。続いて総合司会の関根清三教授が、かつて祖先崇拝の思想を日本人の美徳としたラフカディオ・ハーンを引いて、現在の日本人の傾向と諸文明の比較を旨とする、このシンポジウムの趣旨について述べた。こうした趣旨に沿ってシンポジウムは、3部から構成された。 第1部は、「現代哲学は死をどう主題化してきたか」というテーマで進められた。G・ペルトナー教授が、「現代の哲学的な死の理解の諸相」と題して重厚な基調講演を行った。来世や輪廻等を想定した形而上学的な死についてもはや語ることをせず、無として死を捉える傾向を指摘して、参加者に感銘を与えた。続いて関根教授がコメンテータとして、現代のハイデッガー的な無が、西洋の伝統的な非存在や東洋の絶対無とどう関係するか、またそのニヒリズムの哲学が切り落としがちな他者問題を掬い取って、生者の記憶の中に生き続ける死者との共同性についてどう考えるかといった問題を指摘した。フロアーからも活発な質問と、それに対するペルトナー氏の丁寧な応答があり、充実した第1部となった。 明けて29日(土)は雨にもかかわらず前日とほぼ同数の聴衆が集まり、第2部のシンポジウム「諸文明における死者と生者」へと進んだ。 プリンストン大学のS・タイザー教授と、総合文化研究科の宮本久雄教授が発題を担当した。タイザー教授は、スライドを多用して仏教における死の幾何学について語り、宮本教授はヘブライ的なハヤトロギアという氏固有の観点から、現代における象徴的な意味での死(例えば無権利な難民)と生(難民共同体)の間に立って祝祭的空間をいかにして創出するかについての構想を提示した。コメンテータは東文研の関守ゲイノー助教授と塩尻和子助教授が担当し、それぞれ修験道やイスラム思想という専門領域との関わりで論じた。 続いて、第3部のシンポジウム「死者と生者の現在」が開催された。パネリストは渡辺裕教授、渡辺哲夫教授、J・フォード教授であり、それぞれのコメントは菅野覚明助教授、F・ランベッリ教授、川村邦光教授が担当された。 渡辺(裕)氏は、葬送行進曲やレクイエムの演奏を流しながら、西洋音楽にみる死生観の「近代」について語られた。コメンテータからは政治との関わり等が問題とされた。渡辺(哲夫)氏は、父親を殺した統合失調症の患者の例を引いて、生者と生者の共同性という表層ではなく、生者と死者の共同性という深層にまで遡らないとカタストローフに陥るとして、精神病理学的視点から現代に警鐘を鳴らした。最後にフォード氏は、ホロコースト・ヒロシマ以降、無意味な大量死の意味づけは、死者に近しい生者の記憶において将来そのような大量死を防ぐ手立てとする以外にないであろうという見通しについて語られた。 最後に拠点リーダーの島薗進教授が、このシンポジウムに集った全ての方々、先生方、研究員たちへの謝辞を述べて、盛大な拍手の中に閉会となった。 (事業推進担当者・関根清三) HOME > 活動報告(21世紀COE)
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