哲学会 -The Society of Philosophy-

哲学会について


哲学会
 哲学会は直接東京大学の機構に属するものではないが、本学の哲学科のなかで生まれ、現在にいたるまで哲学研究室が中心にたって運営されている。

哲学会の設立
 その誕生は明治十七年(一八八四)一月二十六日にさかのぼる。当事者の記録によれば、学会設立の機運はまず当時新進気鋭の学士であった井上圓了、井上哲次郎、有賀長雄、三宅雄二郎、棚橋一郎等の間で熟し、これに加藤弘之、西周、西村茂樹、外山正一等の諸先輩が賛同し、会員二九名をもって発足したという。その後毎月の例会に講演と討論を重ねるうちに会員は次第に増加し、明治十九年には役員を定め、会長加藤弘之、副会長外山正一とした。

『哲学雑誌』の刊行
 明治二十年二月、機関誌として月刊『哲学会雑誌』第一冊第一号が発行された。その巻頭に会長加藤の「本会雑誌ノ発刊ヲ祝シ併セテ会員諸君二質ス」と題された一文があり、当時の学界一般の風情がうかがわれて興味深いのでその一節を引用する。

 然ルニ我邦二至リテハ前述ノ如ク今般始メテ一個ノ哲学雑誌ヲ発行スルヲ得ルニ至リタル程ノ幼稚ナル状態ナレバ、各派其学会ヲ設立シテ相ヒ競争スル如キハ固ヨリ思ヒモ寄ラヌ事ト云ハザルベカラズ。是ヲ以テ今日二於テハ印度哲学者モ支那哲学者モ西洋哲学者モ皆相合シテ此一哲学会ヲ組成シテ、其中二於テ互二相研究スルヲ以テ足レリトセザルヲ得ザルナリ。所謂猫モ杓子モ共二合同セル哲学会ニシテ、恰カモ八百屋哲学会ノ名ヲ下シテ可ナラント思ハルル程ノモノナリ。是レ今日ノ我邦二於テハ已ムヲ得ザルノ事ニシテ、各派学会ノ競争ノ如キハ猶之ヲ数十午ノ進歩ノ時ニ期セザルヲ得ザルナリ。
 我哲学会ノ幼稚ナル状態ハ前述ノ如シト雖モ、然レドモ苟モ哲学二志ス者ハ哲理ノ進歩発達ヲ以テ其本旨トスベキハ固ヨリ論ヲ俟タズ。故二印度若クハ支那ノ哲学ヲ奉ズル人々ノ如キモ、必ズシモ釈迦孔孟ヲ以テ万世不朽ノ本尊ト崇ムルノ意念ヲ抱ク事ナク、只管真理ノ在ル所ヲ探討尋究スル事ヲ以テ其志トセザルべカラズ。即チ真理是レ本尊トスルノ心ナカルベカラザルナリ。然レドモ又西洋諸派ノ哲学ヲ修ムル人々ノ如キモ、強チ釈迦孔孟ノ主義ヲ以テ陳腐ノ空論トナサズ、其中猶真理ノ存スルモノアラバ好テ之ヲ採択スルノ念慮ナカルベカラザルハ勿論ナリ。然ラザレバ是亦西洋主義ヲ以テ本尊トナスモノナレバナリ。是レ皆真理ヲ探究スルノ道二反シ、哲学ノ本意二戻ルモノト云フベキナリ。先ヅ本尊ヲ立テ而シテ之二頼リテ真理ヲ求ムルガ如キハ、是レ即チ宗教ニシテ決シテ哲学ニアラザルナリ。本会ハ宗教会ニアラズ全ク哲学会ナレバ、本尊是レ真理タリトノ妄念ヲ棄テ、真理是レ本尊タリトノ主義ヲ取ルコソ当然ナルベシト余ハ思考スルナリ。今本誌ノ発刊二際シ聊カ卑見ヲ述ベテ会員諸君二質ス。

『哲学雑誌』と改題
 これにも見られるように、哲学会は元来は明治期における広義の哲学科の領域全体をおおうものであった。したがって月例会その他の会合におげる講演にせよ、『哲学雑誌』(明治二十五年六月から改題)に掲載される論文や記事にせよ、それらの内容はきわめて多種多様であり、あらゆる方面の学者が相寄って研究を発表し、意見を述べ、討論の花を咲かせていた。しかしそこに含まれていた諸分野が次第に独立した学科として整備され、それぞれの学会を持つようになるにつれて、この会の重心は狭義の哲学科に集中されていった。それでも例えば評議員には各分野の教授が名を連らねていたし、その名残りは現在にも見られる。
 他方、哲学会は当初わが国で唯一の、したがって全国的なものであったが、時を経るにつれ東京大学以外の諸大学においても哲学関係の学会が作られ、その機関誌が刊行されるようになった。そのうえ後には新たに全国的な組織として日本哲学会が設立されるにいたった。こうして哲学会は、その普通名詞の形をそのまま固有名としてはいるが、実際上は主として東京大学哲学科に関係のある者から構成されている。ただし原則上は、学科的にも地域的にもあくまで開放されたものであることにかわりがない。
 哲学会はこの種の研究組織としては世界最古の伝統をもつものの一つである。戦後の時期には経済的に危機に陥り、運営の健全化と機関誌の存続に苦労した。その間特に山崎正一、串田孫一、岩崎武雄、桂壽一等が衝にあたった。現在では『哲学雑誌』は年刊となり、その他の諸行事も以前より縮小されてはいるが、わが国における哲学研究の水準を支えて活動をつづけている。

(『東京大學百年史 文学部』より抜粋)