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5: 北栄(曽我)環状列石
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No.
HKE_01
内容
北栄(曽我)環状列石 第1号・第2号・第3号(東から撮影)
撮影年
1950
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
36_02
注記
26 狩太 29.11済 予備調査
解説
北栄(曽我)環状列石では、駒井の調査時に4基の環状列石が確認され、発掘調査されている。これはそのうちの第1号(画面右手奥)・第2号(画面左手奥)・第3号(画面左手手前)を撮影したものである。1950年の予備調査の際の写真とみられる。
No.
HKE_02
内容
北栄(曽我)環状列石 全景(西から撮影)
撮影年
1951
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
『音江』図版15-2
箱番号
43_11
注記
26 ストーンサークル 2
解説
遺跡の全景。畑の中に作られた区画内に4基の環状列石が残っている様子がわかる。右手前の立石が第4号で、そこから左手奥に向かって第2号、第1号が並び、右手奥に第3号が位置する。調査開始時の撮影で、一番手前にある円形の石の集積は清掃時に浮いた石を集めたものとみられる。
No.
HKE_03
内容
北栄(曽我)環状列石 調査風景(西から撮影)
撮影年
1951
原版
35mm
報告書の図版番号
箱番号
S2_03
注記
(注記なし)
解説
この遺跡の調査に際しては、旧・狩太町の町長や助役、狩太中学校の教員や生徒など、地元住民の多数の援助があったとされる(狩太町教育委員会編1957)。これは狩太中学校の生徒が調査に参加している様子を撮影したものとみられる。この写真もHKE_02と同じく、調査開始時に撮影されたものであろう。
No.
HKE_04
内容
北栄(曽我)環状列石 全景(南から撮影)
撮影年
1951
原版
35mm
報告書の図版番号
箱番号
S2_10
注記
狩太
解説
遺跡の全景で、調査開始時の撮影とみられる。手前右側が第3号、その左奥が第1号、その左隣やや手前が第2号、その左側やや手前が第4号である。
No.
HKE_05
内容
北栄(曽我)環状列石 第1号(南から撮影)
撮影年
1950
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
36_01
注記
26 狩太 29.11済 予備調査
解説
第1号の環状列石は直径約1.5mで、外周に立石がめぐっている。立石内部の表層に円形の石などからなる積石の一部が確認できる。1950年の予備調査の際の撮影とみられる。
No.
HKE_06
内容
北栄(曽我)環状列石 第1号(南から撮影)
撮影年
1951
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
H45_003
注記
考古学29.11済
考古学2 遺跡
24 地鎮山
24年 ストーン・サークル
忍路地鎮山
解説
第1号の調査開始時の撮影とみられる。立石内部の表層に積石の一部が確認できる。
No.
HKE_07
内容
北栄(曽我)環状列石 第1号(南から撮影)
撮影年
1951
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
H45_002
注記
考古学29.11済
考古学2 遺跡
24 地鎮山
24年 ストーン・サークル
忍路地鎮山
解説
立石の内部を掘り下げ、積石を検出した際の様子。第1号の積石の下層では、平面形が一辺約1mの方形を呈する土坑が検出された。『音江』ではこの土坑は墓と認定されているが、土坑内から遺物は出土していない。
No.
HKE_08
内容
北栄(曽我)環状列石 第2号(東から撮影)
撮影年
1950
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
36_04
注記
26 狩太 29.11済 予備調査
解説
第2号の環状列石は直径約1.5mで、外周に立石がめぐっている。立石内部には円形の石の積石があったとされており、表層にその一部が確認できる。1950年の予備調査の際の撮影とみられる。
No.
HKE_09
内容
北栄(曽我)環状列石 第2号 墓坑(東から撮影)
撮影年
1951
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
H49_014
注記
○○○製○用具
解説
第2号の積石の下層には平石が3点ほどあり、その下部からは、立石外周とほぼ重なる大きさの、長辺約1.5m・短辺約1.2mの平面形が長方形の墓坑が検出された。この写真は墓坑の北西隅の床面付近を撮影したものである。この墓坑の床面中央からはヒスイ製の玉2点が出土している。
No.
HKE_10
内容
北栄(曽我)環状列石 第3号(西から撮影)
撮影年
1950
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
36_03
注記
26 狩太 29.11済 予備調査
解説
第3号の環状列石は直径約1.5mで、外周には立石があるが、西側には大きな石がなく、北東側では二重にめぐっている。立石内部には円形の石による積石があったとされているが、表層では確認できないようである。1950年の予備調査の際の撮影とみられる。
No.
HKE_11
内容
北栄(曽我)環状列石 第3号(南から撮影)
撮影年
1951
原版
キャビネ判(乾板)
報告書の図版番号
箱番号
H45_001
注記
考古学29.11済
考古学2 遺跡
24 地鎮山
24年 ストーン・サークル
忍路地鎮山
解説
調査開始時の撮影とみられる。立石内部には円形の石の積石があったとされているが、表層では確認できないようである。左手奥には調査中の第1号が写っている。
No.
HKE_12
内容
北栄(曽我)環状列石 第3号 土器出土状況(西から撮影?)
撮影年
1951
原版
35mm
報告書の図版番号
箱番号
S2_11
注記
狩太第三号
解説
『音江』では、立石内部の「厚さ二十センチほどの積石を取り除いてみると、その下層、幾らかの石に混って土器の半かけなものが一個取り出された」とされる。これはその土器の出土状況である。土器のさらに下層では、長辺約1.5m・短辺約1.2mの平面形が長方形の墓坑が検出された。墓坑からはヒスイ製の玉2点と石錐1点が出土したほか、遺体の痕跡とみられる黒い腐蝕土が検出されている。
No.
HKE_13
内容
北栄(曽我)環状列石 第4号 確認時の状況(東から撮影)
撮影年
1951
原版
35mm
報告書の図版番号
『音江』図版19-1※
箱番号
S2_12
注記
狩太
解説
第4号は、駒井が調査した時点ですでに破壊されており、原形をとどめていなかったとされる。これはその確認時の状況で、元々は直径約2mで、西側には大きな立石があり、表層には積石があったと想定されている。下層には積石が残っており、その下部では一辺2mの平面形が方形の墓坑が検出されている。墓坑の床面からはヒスイ製の玉5点が出土している。
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