東京大学大学院人文社会系研究科附属北海文化研究常呂実習施設所蔵 駒井和愛の北海道調査 発掘調査写真 デジタルアーカイブ

3 掲載写真について

(1)資料の概要と点数

東京大学大学院人文社会系研究科考古学研究室・附属北海文化研究常呂実習施設には、駒井和愛が北海道で行った考古学調査に関連する写真等の記録が所蔵されている。本サイトの公開にあたり、今回、内容調査及びデジタル化の対象としたのは、そのうちの1949(昭和23)年から1956(昭和31)年までの期間に道内各地で実施された調査と、1958(昭和33)年の尾白内貝塚の調査の写真である。

2020(令和2)年度までに行われた整理作業の結果、対象となる資料の内訳と点数は以下のとおりと判明した。ただし、所蔵されている全ての写真資料に対する整理が完了していないため、今回の調査対象に当てはまる写真がまだ所蔵資料の中に残されている可能性もある。

  • A. 常呂実習施設所蔵 キャビネ判ガラス乾板 11箱・計115点(環状列石関連)
  • B. 考古学研究室所蔵 キャビネ判ガラス乾板 9箱・計99点(環状列石関連)
  • C. 常呂実習施設所蔵 35mmポジフィルム(スライドマウント) 133点(環状列石関連・尾白内貝塚等)
  • D. 常呂実習施設所蔵 キャビネ判ガラス乾板 9箱・計80点(尾白内貝塚・釧路周辺調査関連)

今回の事業では上記A〜Dの全点を対象としてデジタル化を行い、そのうちのA〜Cについて、下記の①〜⑥を除いた資料を遺跡別に分けて本サイトで公開した。Cのうちの尾白内貝塚分と、Dの尾白内貝塚・釧路周辺調査関連の写真は、後日あらためて追加公開する予定である。公開した資料の点数は、上記Aのうちの59点、Bのうちの53点、Cのうちの42点で、合計154点となる。

A〜Cのうち、公開対象外としたのは以下の資料である。

  • ①撮影や現像に失敗したとみられる、画像が乱れた写真
  • ②出土遺物(出土状況写真を除く)、実測図、出版物を撮影した写真
  • ③人物の集合写真
  • ④被写体となっている対象(遺構・風景など)の特定が困難な写真
  • ⑤画像がほぼ同一の、重複する写真
  • ⑥駒井が報告した遺跡と直接には関係しない、風景・人物・資料等の写真

(2)データの見方

各写真に付したデータについて解説する。

Webコンテンツ番号:

本サイトの公開にあたり、公開対象とした写真に対して遺跡毎の整理番号を新たに付与した。

撮影年:

撮影年は、写真が保管されていた箱の注記ではなく、撮影された内容と調査の記録を照合することによって判断した。遺跡の遠景など、撮影年の確定が困難であった写真については箱の注記などから推定し、データの末尾に「?」を付加している。

報告書の図版番号:

本資料には過去に駒井の著作や論文に掲載された写真が含まれている。それらについて掲載された書名・論文名と図版番号を記した。ただし、重複して掲載されている写真については、記載を省略したものもある。末尾に※を付したものは、報告書とほぼ同じ時点とアングルでの撮影だが、同一の写真ではないものである。

原版・箱番号・注記:

本資料の規格には、キャビネ判(12cm×16.5cm)のガラス乾板と、35mmのカラーないしモノクロのポジフィルム(いずれもスライドマウントに納められたもの)の2種がある。前者は全て販売時に使われる紙箱に、後者はスライドファイルシート(1シート20コマ)に、それぞれ収められていた。

「箱番号」の項には、写真が収められていた紙箱またはシートの整理番号と、そこに収納されていた個々の写真の番号を、H49_004(本郷の考古学研究室所蔵のNo.49の箱の4点目)のような表記で記載している。箱番号の前に付された記号は以下のことを示している。数字のみでアルファベットのない例は上記(1)項のAに相当する常呂実習施設所蔵の乾板、「H」は上記のBに相当する2020(令和2)年まで考古学研究室に所蔵されていた乾板、「S」は上記のCに相当する35mmポジフィルムである。

「注記」の項には、写真の収められていた紙箱、またはスライドマウントに注記されていた情報を転載している。ただし、紙箱の注記については、注記の情報と、納められていた写真の内容との間に食い違いがある例が多く認められた。

(3)所在が不明な写真

『音江』に掲載されている環状列石の遺跡や遺構の図版のうち、今回の整理作業で原版に相当するとみられる写真が特定できたのは18点である。報告書に用いられた図版のうちのおよそ8割が、原版の所在を確認できなかったことになる。これらの原版については、今回の整理作業が開始される以前のいずれかの時点で所在が不明になったとみられるが、その経緯や理由については明らかではない。

(4)公開までの経緯

今回、整理作業とデジタル化の対象とした資料は、元々は考古学研究室に保管されていたものである。そのうち、上記(1)項のA ・Dに相当する乾板と、Cに相当する35mmフィルムは、モヨロ貝塚などの写真資料とともに、2001(平成13)年の夏に常呂実習施設に移管された。移管後まもなく、当時、施設に勤務していた宇田川洋を中心として整理作業が開始され、コンタクトプリントによる紙焼き写真の作成、報告書掲載図版との対比などが行われた。

その後、東京大学未来社会協創推進本部登録プロジェクト「人文学における国際的地域・社会連携の推進」事業の一環として、2019(令和元)年度から本資料のデジタルアーカイブ化が図られることになった。宇田川から整理作業を引き継いだ熊木俊朗の主導のもと、考古学研究室に所蔵されていた上記(1)項のBの乾板を含めて被写体の同定やデジタル化が本格的に進められ、webサイト上での公開準備が整えられた。このような過程を経て、2020(令和2)年度末に154点の写真が本サイトにて公開された。

なお、考古学研究室に所蔵されていた上記(1)項のBの乾板は、2020(令和2)年度末に常呂実習施設に移管される予定である。以後は、本資料の原版、デジタル化されたデータ、台帳等は、全て常呂実習施設で保管される。

(5)本アーカイブ関係者

発掘調査参加者(『音江』12-13頁を一部改変して転載)
1949(昭和24)年
(地鎮山)駒井和愛、名取武光、中村子之吉、関野雄、曽野寿彦、中川成夫
1950(昭和25)年
(西崎山(1区))駒井和愛、名取武光、中村子之吉、小林知生、関野雄、曽野寿彦、中川成夫、桜井清彦、佐藤達夫
1951(昭和26)年
(西崎山西(2区)・北栄・滝台)駒井和愛、名取武光、護雅夫、中村子之吉、近藤勇、中川成夫、加地稔
(尾白内)駒井和愛、小林露竹、川又洋、中川成夫、桜井清彦
1952(昭和27)年
(西崎山西(2区)・西崎山南(3区)・音江)駒井和愛、名取武光、池田輝海、川上礼吉、中川成夫、吉田章一郎
(尾白内)駒井和愛、小林露竹、川又洋、千代肇、桜井清彦、中川成夫、吉田章一郎
1953(昭和28)年
(音江)駒井和愛、池田輝海、川上礼吉、鈴木仁平、市場義人、吉田章一郎
(尾白内)駒井和愛、小林露竹、川又洋、桜井清彦、長谷川富士子
1955(昭和30)年
(音江)駒井和愛、池田輝海、川上礼吉、鈴木仁平、市場義人、吉田章一郎
1956(昭和31)年
(音江)駒井和愛、池田輝海、川上礼吉、市場義人、吉田章一郎、加藤晋平
1958(昭和33)年
(尾白内)駒井和愛、小林露竹、桜井清彦、貞末堯司、杉山荘平、河村喜一
写真整理作業
熊木俊朗、宇田川洋、山根美紀、夏木大吾、鈴木舞、工藤景史、楊暁輝、2019(令和元)年度大学院集中講義「考古資料論」受講者、2019(令和元)年度東京大学体験活動プログラム「北海道の遺跡博物館における学芸員体験と冬のオホーツク文化体験」参加者
解説文作成・メタデータ編集
熊木俊朗
英文作成
鈴木舞
協力者(五十音順、敬称略)
石川岳彦、石川直章、瀬川拓郎、豊原熙司、中塚凪沙、西脇対名夫、福田正宏、山戸大知
小樽市教育委員会、北見市教育委員会、東京大学大学院人文社会系研究科考古学研究室、北海道教育庁生涯学習推進局文化財・博物館課、余市町教育委員会