オリガ・ペトローヴァ教授特別講義レポート

ウクライナ・バロックとピンゼル

2010年11月12日(金)午後4時〜6時 法文1号館1階314教室
特別講師:オリガ・ペトローヴァ教授
コメンテーター:沼野充義
司会・プレトーク:加藤有子

2010年11月12日、キエフ(ウクライナ)のモヒラ・アカデミー大学で教鞭を取る美術批評家であり画家のオリガ・ペトローヴァ教授の講演会が開かれた。テーマは「ウクライナ・バロックとピンゼル」。2011年秋、ルーヴル美術館で開かれるピンゼル展に先駆けての講演会である。
 ヨハン・ゲオルグ・ピンゼルは18世紀に現在のウクライナ西部国境地帯に突然現れ、宗教的モチーフのバロック的木造の彫像を残した彫刻家である。その生涯はほとんど知られていない。作品の大部分はソ連時代に失われ、本格的評価が始まったのは近年のことだ。
 ピンゼルが作品を残したリヴィウ(ポーランド語でルヴフ、ドイツ語でレムベルク)を中心とするウクライナとポーランドの国境地帯はガリツィアとも呼ばれ、ポーランド文化の影響の強い地域である。中世はキエフ・ルーシ下にあり、その分裂後はガリツィア公国、ガリツィア・ヴォルイニ大公国の領土となる。14世紀以降、この一帯は正式にポーランド領に組み込まれ、1772年のポーランド第一分割ではオーストリア帝国領になった。ピンゼルが制作した18世紀半ば前後、リヴィウ周辺はポーランド領だったことになる。
 バルト海から黒海に通じる水路、陸路の交通の要衝であるリヴィウは、中世、国際的な貿易都市に発展した。ポーランド人やユダヤ人、ドイツ人など職人や商人が流れ込み、第二次大戦までは多文化性を誇った都市である。経済の発展は文化の発展も促し、文化的中心地としても重要な役割を果たしてきた。両大戦間期、一帯は再びポーランド領になり、第二次大戦後はソ連邦ウクライナ領、1991年には独立したウクライナ共和国領となって現在に至る。

ペトローヴァ氏の講演は図版を交えつつ、ウクライナ・バロックの説明に始まり、ピンゼル作品の解説に展開した。まず、ウクライナ・バロックの最大の特徴として「装飾性」が挙げられた。ペトローヴァ氏によれば、バロック美術に顕著に現れた装飾への欲求はウクライナ人にも特徴的なものだという。17、18世紀のウクライナの肖像画に描かれたフメルニツキーのような英雄は、豪華な衣装をまとってはいるが、その見かけとは裏腹に禁欲的で内省的表情をたたえる。この二重性こそ、ウクライナ独立を求める当時の時代の雰囲気と精神性の反映であり、それがウクライナ・バロック美術の一特徴をなした。
 ペトローヴァ氏は対立するものの共存としてバロック文化の精神性を提示し、これを軸にウクライナ・バロック特有の性質を説明していく。東方的なものと西欧文化の折衷主義、装飾への欲求と禁欲的精神性の共存をウクライナ・バロックの特徴として挙げ、最初に提示した大きなバロック文化の流れに位置付けた。
 続いてピンゼルの紹介に入る。出自は知られておらず、素性を意図的に隠していたと推測されているらしい。そのバロック風作品をペトローヴァ氏はゴシックに共鳴するものと捉えた。

普段耳にする機会のないウクライナ美術、ガリツィア地域のバロック文化に対し、会場の関心も高かった。なかでもポーランド南部の古都クラクフで活躍し、同地のバロック建築で名高い聖マリア教会の祭壇の作者である後期ゴシックのドイツ人彫刻家ヴィト・ストヴォシュ(ドイツ語名フェイト・ストシュ)作品をピンゼルが見て、影響を受けた可能性があるのでは、という会場からの指摘は、ペトローヴァ氏の捉えるピンゼルの特徴(ゴシックとの関連)にも合致するだけに、非常に興味深いものだった。クラクフ経由という説が仮に成り立つならば、謎とされるピンゼルの出自を考えるうえでも大きな手掛かりになるだろう。このほか、ピンゼルという名前の響きからするとドイツ系ではないかという指摘、ポーランド語でピンゼル派が「リヴィウ・ロココ彫刻」とも呼ばれることや時代と制作地等を参照しつつ、「ウクライナ・バロック」という呼称についての問い、ピンゼル研究の現状とポーランド・ウクライナ国境地帯の文化遺産保護をめぐる二国間協力の進捗状況に対する質問が出た。これに対して、ピンゼルは偽名を使っていた可能性があり、名前から出自を推測するのは難しいこと、18世紀ではあっても作風はロココではなくバロックと呼ぶべきこと、等の回答があった。ただ、全体が長引いたこともあるが、専門的質問が出始めた頃に質疑が打ち切られてしまったのは残念だった。そのペトローヴァ氏によれば、ピンゼル研究はこれまでほぼボリス・ヴォズニツキ氏(国立リヴィウ美術ギャラリー)一人が行っており、調査と研究自体がこれからだという。研究の進展が注目される。

今回の講演会はペトローヴァ氏の案内でウクライナを旅し、ピンゼル作品とその保存に尽力したヴォズニツキ氏に出会った片山ふえ氏、その旅行記の版元である未知谷の飯島徹氏の提案で行われた。記して感謝する。

*講演原稿を掲載しています。 原文(ロシア語)

現代文芸論研究室助教・加藤有子