「倫理学」という学問に、人が抱くイメージや期待にはおそらくさまざまなものがあるだろう。日常の行為の善悪について研究するということを思い浮かべる人もあるであろうし、また、ソクラテスの生に重なるような「よき生」の追求を思い描く人もあるだろう。自らの人生についての問いを直接重ねようとする人もあるだろうし、また、今日的な社会問題への積極的な発言を期待する人もいよう。倫理学専修課程に進学してくる学生諸君の思いも、そのようにきわめて多様なものであろう。
しかし、それが文学部のなかで、しかも思想系の学問分野のなかでの倫理学研究となると、そのありかたも限定されてくる。文学部の学問が原典テクストの精密な読解を身上とするように、倫理学専修課程の学問も、倫理学についての原典テクスト、なかんずく古典のテクストの読解をその基本とすることになる。その点では思想史研究が中心となるのであり、現実的課題とのかかわりは間接的なものにとどまるということになろう。そのことはしかし、倫理という言葉に対する各人各様の思いを否定するものでは決してない。むしろ古典の読解にこそ、それぞれの思いがもっとも豊かな奥行きをもって現実化する場面があるというのが、われわれの確信である。
したがって、倫理学専修課程は、独断と空理空論を控えるという最低限の謙虚さを要求される以外は、きわめて自由な雰囲気に満ちている。かつてこの研究室の主任教員であった和辻哲郎は、日本近代において特筆すべき倫理学の体系を築き上げたが、それは、西洋思想と東洋思想の融合および規範学としての倫理学と事実の学としての諸学の融合を目指したものである。さらに、和辻は、倫理学以外に広く人文科学一般の分野でめざましい成果を上げたことで知られているが、この多様な学問領野に開かれているという性格は、今日においてなお生きていると言えるのである。学生の研究対象の選択も各人の大幅な自由に任されており、実際、これまでの卒業生の研究テーマも、洋の東西を問わず、また古代から現代に至るまで、まことに多彩である。
倫理学専修課程の講義・演習の対象領域は、西洋の倫理思想と日本のそれとに二大別される。倫理学がいち早く自覚的な形態をとった西洋の思想伝統を学ぶことは、日本倫理思想史を専攻しようとする学生にとっても欠かすことはできない。一方、西洋の倫理学に関心を持つ者にとっても、自らが背負う伝統との対話は必要である。相異なる領域への幅広い目配りが求められるのが、当専修課程の特色である。
このように、倫理学専修課程は、一方では古典的学問研究を尊重しつつも、他方では、哲学、社会科学、宗教学、日本思想等の諸学問に開かれた幅広い内容を持つ学問を目指しているという点で、思想系の学問分野のなかでも特徴を示していると言える。そのことは、当専修課程を卒業し、そののち研究者の道に入った先輩の学問にも明らかである。そのような条件をどう生かすかは、学生諸君の自発的研究に期待されている。
(※以上、東京大学文学部発行「PROSPECTUS 2019」より一部改訂・省略のうえ抜粋)