人生色々。会社も色々。
― ある中国語をちょっと習ったことがある冷凍食品メーカー社員の初めての中国出張日記 ―

F


1999年3月8日
 正式入社は4月からであるが、このころから会社に顔を出し始める。

3月30日
 上司に付いての中国出張が決定する。
 仕事の内容は、某スーパーで販売する鶏肉を使った惣菜5種類の試作である。レシピは日本においての試作でおおよそ決まっている。これを中国工場で使用している原料で再現し、日本に持ち帰る。

4月6日
 朝6時に羽田空港に集合。関空経由で広州白雲空港へ。中国の工場の車でS市へ行き、宿泊するホテルに向かう。ホテルの近くに寸詰まりのエッフェル塔が建っていて、江沢民国家主席(当時)の字で「世界之窗」と大書してある。ここは世界中の観光名所をミニチュアで再現したテーマパークである。後日、取引先の皆様をしばしばここに案内することになった。日本コーナーには、赤提灯をずらりと釣った桂離宮とコンクリ製の富士山がある。
 ホテルの部屋に荷物を置くと、すぐ工場に向かい、(工場は私の会社が直営しているのではなく、協力工場である。)工場の人々と会う。総経理(『オバQ』の小池さんに似ている)・副総経理・経理と順に紹介されていく。日本語が出来る経理のDさんが、妙にしなしなしたお姉さんを示して「はい、この人は共産党のWさんです。」とフシギな事を言う。この工場には約1週間滞在したが、Wさんはお茶汲み以外のことはあまりしないようであった。
 テストキッチンには、これから実際に私たちと仕事をするL小姐(アンパンマンに似ている)が居た。上司はL小姐の前に、小さな袋に入った白い粉を次々と並べた。
「これがpH調整剤(保存料)、これがこの前話した魚介類の加熱による収縮を防ぐ〇〇〇、これが…、それでこれが説明書。」
 全部食品添加物であった。当時は中国製の食品添加物はまだ品質が一定していなかったので、日本から持ち込むことが多かった。人相の悪い食品会社の社員が、いけないものの運び屋と間違えられてたまに空港で捕まっている。

 今回の仕事の全体について説明し、明日の試作に必要な材料を買うことをL小姐に依頼する。

 事務所のガラス窓が時折びりびりと振動する。外に目を凝らすと、発破をかけて山を丸ごと吹っ飛ばしているのが見えた。

4月7日
 今日から本格的な作業に入る。
 試作は一度につき一品ずつ行う。L小姐たちにしてみれば、和食の惣菜は初めて作る料理であるから、平行して製作すると混乱を来たしかねないからである。
 日本で作ったレシピをもとに私が中国語で手順を指示し、L小姐とその子分が実際の作業を行う。しかし、私が手順を告げるごとにL小姐は、
「その方法だと原料の廃棄率が高くなってウチが損をしてしまいます。」
「その方法では商品の安全が確保出来ません。」
「その方法よりはかくかくしかじかの方法の方がうまくいくと思います。」
「その手順は必要なことでしょうか?」
と打ち返してくる。それぞれに対して、
「廃棄部分については、ミンチにしてウチから注文している別商品の〇〇に使えば良いはずです。」
「それは確かにそうなので加熱時間を30秒延ばしましょう。」
「その手順はかくかくしかじかな訳で絶対必要です。さもないとかくかくしかじかなことになります。」
という風にきちんと答えないと、絶対作業に取り掛からないのであった。しかし、全ての点について納得し、仕事の全体像がつかめるとL小姐は大変協力的であった。L小姐は仕事に燃えれば燃えるほど質問と提案が湧いて出る性質なのである。上司は質問を打ち切らず、どこまでもL小姐に付き合う(後日、大抵の日本人は付き合いきれないでキレるものである、ということを知ることになる)。そのため私は、試作の間じゅう、「二人いっぺんに喋らないで下さーい!」と叫ぶことになった。(そんな時L小姐は「へへへ〜」と笑う。)
 工場内でも、工員さんと現場主任(どちらも中国人)がシューマイの包み方などをめぐって大戦争をしているのをしばしば見かけたので、きっとこれが中国では普通なのだろう。

 昼食は工場の賄い、といっても大変美味しい。総経理が四川省の出身なので(L小姐もそうである)、工場の食堂の人も四川省から呼んでいるという。蛙の炒め物を出してもらう。食事が終わるとDさんが無理やり私たちを散歩させる。食後の散歩が体に良いという信念があるようである。工場の周りはおおむね野原で、たまに掘っ立て小屋がある。崩れかけた塀に「打井」と書いてある。

 午後も試作。アフター5はホテル近くの屋台で上司とご飯。

4月11日
 日曜日である。中国語が出来ない上司は、私を連れて自由に観光しようとしていたが、経理のDさんが「危ないですから」と言い張って許さなかった。結局Dさんと共に観光した。史跡を見たいというようなことを言ったら、宋少帝陵(南宋最後の皇帝の墓所)と天后宮(媽祖廟)をまわった。それから、私の会社の人で中国の工場に常駐しているPさんの家にお邪魔してお茶を呑んだ。最後に今後の為に本屋に行って仕事で必要になりそうな工具書を見たいと言ったら、Pさんは「「書」は「輸」、つまり博打で負けることと発音が同じであり、よって大変不吉である。だから書店のような恐ろしい場所に足を踏み入れるべきではない。」と却下した。

 Pさんは後に会社を辞めてギャンブラーになった。

4月12日
 一日中試作。
 テストキッチンに入れ替わり立ち代り人が来る。L小姐の恋人で工場の現場主任のCさんが用も無いのに来て油を売る。Dさんが、「ウチの会社で開発した新商品なんですが」と、バニラやレモングラスで香りをつけた鶏の空揚げを持ってくる。Pさんがぶらっと現れて私達の試作品をつまみ、こんな不味いものは売れないであろう、という。
 
4月13日
 一日中試作。
 今日でホテルを替わる。今までのところは12日までしか部屋が取れてなかったのである。新しいホテルは山奥のダム湖のほとりにある。門から建物までの間が大変遠い。その長いアプローチには隙間無く赤い春節提灯が釣ってあり、前衛芸術の様相を呈している。部屋に備え付けの絵葉書を見ると、このホテルの周りのダム湖や山やゴルフ場を褒め称えた華麗な駢文を、あいだみつを風の書体で書いたものであった。

4月14日
 籠に入った鶏や蛇やダルメシアンを見ながらホテルのレストランで朝ごはんを食べる。

 午前中に社長(中国の総経理ではなく私達の会社の社長)が来て、試作品を食べる。全部ボツになり、午後は突貫工事で作り直しをする。

4月15日
 午前中に観光の途中で工場に寄ったお客さんがあり、観光のお供をする。目的地はS市の火車站のそばにある商業城である。ボコボコな縫製のプラダのポーチが、ロゴが異常に細いシャネルの財布が、あやしいエルメスが、見たことも無い形状のヴィトンが、一山いくら感覚で売っている所である。
「あ、これすごく可愛い。」
 上司が買ったミュールは、甲の部分に精緻なビーズ細工が施された見事なものだったが、かかとが当たる部分に「SHISEIDO」の見慣れたロゴが印刷してある。後日上司がこれを履いて会社の近所のコンビニに買い物に行った時、ヒールが折れて転倒流血した。

 昼食後、工場に戻り試作の残りを行う。

4月16日
 S市での仕事は昨日で終わり、今日は広東省F市にある工場(やはり協力工場である)へ移動する。F市工場から運転手さんが迎えに来ており、冷凍した試作品を持って車に乗る。この運転手さんは元人民解放軍で、とにかく速く走ることが生き甲斐である。高速道路を車線無視で飛ばしまくり、F市へ。

続く

この頁閉じる