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第60回美学会全国大会
実行委員会事務局

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東京都文京区本郷7-3-1

東京大学大学院
人文社会系研究科
美学芸術学研究室内

TEL&FAX: 03-5841-8958
MAIL: bigaku60@gmail.com
当番校企画


第60回美学会全国大会の当番校企画では、「特別講演」「パネル企画」「若手フォーラム」の開催を予定しております。パネル企画及び若手フォーラムの《タイムテーブル》《要旨》は以下に掲載しておりますので、ご参照ください。


特別講演


10月11日() 16:40-18:10 @法文一号館(21教室)

講演者 アレン・カールソン教授 (アルバータ大学、カナダ)

題目  「環境美学の現在と環境保護論が求めるもの


パネル企画《タイムテーブル》


10月10日(土) パネル企画Ⅰ @法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 パネルA
[環境の美学
――自然・都市・日常――]
<一番大教室>
パネルB
[メディア論と美学]
<二番大教室>
15:30/18:00 環境美学の射程
*安西信一(東京大学)
メディア論の憑依
*前川修(神戸大学)
生態学的都市論の可能性
──「ベンヤミン的方法」における多孔性──
田中純(東京大学)
メディアと「コモンセンス(共通感覚)」
和田伸一郎(中部大学)
山を描く、石を拾う
──大地の肌理を読む美学──
桑島秀樹(広島大学)
「ポストメディア」の系譜
――「インターメディア」と「エキスパンデッド・シネマ」を中心に――
門林岳史(関西大学)
10月12日() パネル企画Ⅱ @法文二号館(一番大教室、二番大教室)
開始/終了 パネルA
[芸術とグローバリズム
――そのあらたな潮流――]
<一番大教室>
パネルB
[アートは二度死ぬ、あるいは死なない:
ホワイト・キューブのポリティクス]
<二番大教室>
13:30/16:00 芸術とグローバリズム
*中川真(大阪市立大学)
失われたコンテキスト(大地)を求めて
*外山紀久子(埼玉大学)
フランスの文化政策のダイナミズムと私
平田オリザ(大阪大学)
「拡張」と「彫刻」の考古学的序説
林道郎(上智大学)
ROCIプロジェクトにおける現代美術のグローバル・モデルとその功罪
池上裕子(大阪大学)
ホワイト・キューブ以前、モダンアートはいかに展示されたか
田中正之(武蔵野美術大学)


若手フォーラム《タイムテーブル》


10月11日() @法文一号館(112、113、212、214、312、314教室)
開始/終了 A. 崇高論
<113教室>
B. 美学
<212教室>
C. 西洋美術
<214教室>
9:30/10:00 A-1 星野太
(東京大学)
B-1 加藤隆文
(京都大学)
C-1 白成淑
(文星芸術大学)
10:00/10:30 A-2 岩崎真美
(東京大学)
B-2 斎藤菜生子
(東京藝術大学)
C-2 小松浩之
(京都大学)
10:35/11:05 A-3 髙藤大樹
(同志社大学)

都合により、辞退されました。
B-3 吉成優
(東京大学)
C-3 髙城靖之
(慶應義塾大学)
11:05/11:35 A-4 松井淳
(東京藝術大学)
B-4 Pyle, Eric Allan
(広島大学)
C-4 岸本督司
(京都大学)
開始/終了 D. 日本美術
/パフォーマンス
<312教室>
E. 音楽
<314教室>
F. 映像論
<112教室>
9:30/10:00 D-1 塙萌衣
(学習院大学)
E-1 柴田康太郎
(東京大学)
F-1 レア・アミット
(東京藝術大学)
10:00/10:30 D-2 福永礼恩
(大阪大学)
E-2 福地勝美
(成城大学)
F-2 真部佳織
(神戸大学)
10:35/11:05 D-3 川野惠子
(東京大学)
E-3 中川航
(東京大学)
F-3 逢坂文哉
(大阪大学)
11:05/11:35 D-4 清野則正
(名古屋市立大学)
E-4 黒田育世
(東京大学)
F-4 木村智哉
(千葉大学)







特別講演《要旨》



10月11日() 特別講演



アレン・カールソン(アルバータ大学、カナダ)

環境美学の現在と環境保護論が求めるもの

 自然の美的体験は、自然環境の保護と維持にとってきわめて重要であったし、今もなお重要であり続けている。それゆえこの試論では、現代の環境美学と環境保護論との間の関係性について論じることとする。最初に、自然の美的鑑賞についての二つの伝統的な立場、すなわちピクチャレスクな風景という観点からのアプローチと芸術の形式主義的理論について考察しよう。環境保護論者の中には、これら二つの見方と結びつく自然の美的鑑賞の様態に欠点を見出す者もある。それらは人間中心的で景観という観念にとらわれており、表面的で主観的であり、道徳的に中身がないというのが彼らの批判である。自然への伝統的な美学的アプローチが持つこうした短所をふまえるならば、環境保護論の五つの要請が見えてくる。すなわち、自然に関する美学は、中心を持たず(acentric)、環境に焦点を合わせたものであり(enviromentfocused)、真面目で客観的であり、道徳的関与を含み込むものであるべきなのだ。そこで本論では、現代の環境美学の二つの立場である関与(engagement)の美学と科学的認識主義の美学とを調べ、それぞれを環境保護論の五つの要請に即して評価することとしたい。
(太田 峰夫・村上 龍 訳)


パネル企画《要旨》



10月10日(土) パネル企画Ⅰ

パネルA. [環境の美学――自然・都市・日常――]


安西 信一(東京大学)

環境美学の射程

 通常「環境美学」(environmental aesthetics)と呼ばれるのは、1970年代に始まり、80年代以降本格化した、主に英米圏における美学の新思潮をさす。それは環境倫理学などとともに、現代の環境問題への関心の高まりに対応して展開してきた。それゆえそこには、当然「自然」の美的側面に関する考察が含まれる。しかし、環境が人間や生物を取り巻くあらゆるものを含みうる以上、環境美学が対象とすべきものは無限に多様ともいえる。たとえばそこには、自然のみならず、従来の美学の主な対象である諸芸術、自然と芸術の中間ともいえる風景・景観、そして庭園、郊外、建築、都市、さらには日常性全体までもが含まれうる。また環境は五感全体を巻き込み、単なる受動的観照のみならず、知的・能動的な介入や、デザイン・加工の行為の対象でもある。それゆえ環境美学は、究極的には、人間の身体・社会・存在の全体をカヴァーせねばならない。こうした広がりは、十年ほど前に出たアメリカ美学会誌の環境美学特集号(The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 56: 2 [1998])を一瞥すれば明らかであろう。
 このような美学を、実りある仕方で統一的に考えうるのか。そこで賭けられているもの、その根本問題は何か。このシンポジウムでは、田中氏、桑島氏に、各々、都市と自然という、環境美学の中でもある意味で対極にあるといえる二つの主題について報告していただく。お二人の報告は、戦略的に、あくまで具体的な事象の観察や記述から出発しようとする。それゆえ私(安西)の報告では、敢えて全体を概括するような枠組み――できるだけ開かれた――を提示するよう努めたい。そのため、まず環境美学と呼ばれてきた研究の概略を簡単に振り返る。むろん狭義の環境美学自体にも、すでに十分な研究の蓄積があり、ここでの概括も部分的なものに留まらざるをえないが。
 さらにその上で、田中氏、桑島氏の両報告に通低しうるような二つの主題、風景と日常性について簡単に言及したい。
 一方の風景は、西洋近代に「発見」されたとされる。この解釈は事実の重要な一面を指摘しているであろうが、S・シャーマが雄弁に示した通り、風景には前近代的なものを含む古い記憶が重層的に書き込まれている。彼も示唆する通り、こうした視点は環境をめぐる近年の言説からは抜け落ちやすい。本報告ではその欠を補うべく、風景の古層、重層性・多層性に注意を向けたい。
 他方、日常性は、ライト、スミス編『日常生活の美学』(2005)に代表されるように、最近の美学で脚光を浴びつつある。そこには、美的「無関心性」「自律性」、「高級/低級感覚・芸術」の区別など、近代西洋美学の前提そのものを超えようとする問題意識が顕著である。同時に日常性の美学は、環境美学全般と同様、美的なものが従来の閉域を超えて溢れ出す今日の状況に対応している。こうしたいわゆる「世界の審美化」は、多くの内在的・政治的問題をはらむ。これらの諸点に言及することで、議論を聴衆に開きたいとおもう。


田中 純(東京大学)

生態学的都市論の可能性
──「ベンヤミン的方法」における多孔性──

 佐々木正人はチャールズ・ダーウィンの『ミミズと土』に生物の行動を記述する新しい方法を見出し、「ダーウィン的方法」と名づけている。それは明確な輪郭をもった「主体」としての動物による行動を決まりきって安定した反復として描き出すのではなく、眼前に現前しない行為群をその行為が利用した「もの」を通して示す記述法であり、そこで行為はそれが「識別し利用した物の性質の集合」として記述される。この性質をJ・J・ギブソンは「アフォーダンス」と呼んだ。ダーウィン的方法は、多数の行為のみが見出すことのできる意味のレベルにおける環境の記述によって、その行為群を表現するのである。
 他方、エドワード・S・リードによれば、行為によって発見される環境の性質、すなわちアフォーダンスとは、ある動物個体群との関係のなかで現われる環境の特性であり、このような環境は種の「生態的ニッチ」と呼ばれる。ヒトもまた、ほかの動物種とは異なる、独自の生態的ニッチに住んでいる。生態心理学的に見た場合のヒトの特異性は、群棲環境をなすその生態的ニッチに由来しており、そこに存在する基本的なアフォーダンス群の経験から、ヒトの思考もまた創発するのだという。
 以上のような生態心理学的観点には、現生人類の生態的ニッチにほかならない「都市」をめぐって、いわば「生態学的都市論」を構想する鍵があるように思われる。それは、都市という群棲環境とヒトの個体群との関わり合いを細部まで注意深く観察し、群としての集団の行為が埋め込まれた多数の事物を列挙することでようやく触知可能になる都市環境の意味のレベルを浮かび上がらせる方法である。
 『パサージュ論』をはじめとするヴァルター・ベンヤミンの都市論は、都市という群棲環境内において、パサージュをはじめとする人工の生態的ニッチが有していたアフォーダンスを、そうした意味のレベルをなす「イメージ(Bild)」として浮上させる営みであったと言ってよい。特に『パサージュ論』における引用のモンタージュは、無数の行為の痕跡を羅列するダーウィン的方法に通じている。「身体空間(Leibraum)」や「イメージ空間(Bildraum)」といった、身体と環境の相互浸透を表わす概念もまた同様である。
 本報告はこのような「生態学的都市論」の可能性をスケッチしたうえで、具体的な着眼点として、ベンヤミンがパサージュという特殊な生態的ニッチを発見するきっかけになったと思われるナポリ体験、とりわけそこでナポリの特性とされた「多孔性(Porosität)」の概念の検討を行なう。私的空間と公的空間、休日と平日など、対極的な要素の相互浸透を可能にしているものがこの多孔性である。それは日常性が非日常的な危機によって穴を穿たれた状態でもある(この点は政治-神学的な含意も有する)。多孔的群棲環境を抽象化した思考モデルや多孔性をコンセプトに取り入れた現代建築の動向などにも論及することにより、議論をアクチュアルな問題に接続したい。


桑島 秀樹(広島大学)

山を描く、石を拾う
──大地の肌理を読む美学──

 本発表のねらいは、われわれ人間がその上に立ち、ときに眺め、ときに弄んだりする「大地」の身近な構成素、「山」と「石」をめぐる美学的問題群の提起である(だが、農民が耕してきた「土」やハイデガーの「大地との闘争」までは考察対象としない)。あくまでも科学革命と啓蒙思想が生んだ自然を読む眼―観察と記述―を前提とする。したがってここでの人間とは、外的自然に対して素朴に措定された近代的主体と見てもよい。近代以降、人間は「山」や「石」に対して、どのような美的観察記述ないしは芸術制作の態度を採ってきたのか。このことを二、三の事例に即して考えてみたい。
 《山を描く》ことにかんしては、J・ラスキンとG・ジンメルの山岳美学を取りあげる。ラスキンは、『近代画家論』のなか、J・M・W・ターナー絵画の近代性を、その自然描写の精緻さに認めた(ロンドン・ナショナルギャラリーでの、クロードとターナーの古今比較展示を見よ)。自然を細部まで個別描写する「科学の眼」は、山岳風景(画)の三区分―「中央高山脈」「傍系低山地」「前景大地」―において顕著となる。光と色彩に満ちた「中央高山脈」(アルプス山頂)に認められる「天」の崇高さと同等のものは、「前景大地」を全面に描いた「北イングランド・シリーズ」(たとえば《ティーズ渓谷上流の滝》自作銅版画)に劣らず認められる。これはまさに「地」の崇高さにもとづく新たな美学の誕生といえまいか。ターナーは、その「地質学」の重視から、「岩」と「雲」の画家と呼ぶに相応しい(ラスキン=ターナーの地質学的美学)。
 さて「山」は、山麓の草木、山腹の岩塊、山頂の氷雪から成る。こうした諸要素に注目し、アルプスの諸相を「アルペン=エステーティク」として提示したのが、ジンメルだった。彼はまず「山はほんとうに描き得るのか」と「山」の本質特性を哲学的に問うことからはじめる。そして「人間」や「海」との比較から、「山」の本質を時空間的な「没形式性」「超越性」と規定し、本来的に「山は描き得ない」とした。そのうえで、空間力学的な印象にもとづき山岳景観を三つの領域―「万年雪(山塊上部)」「岩壁・氷壁(山塊下部)」「平原牧地(全景)」―に区分し、独自の山岳美学を展開する。「山塊」部分は、隆起・侵食という上下方向への力の拮抗(山腹:「地」の崇高)と、その力の上方への完全昇華(山頂:「天」の崇高)から説明される。他方、「平原牧地」からの「全景」は、自然風景を彩るその装飾性から人間生活の一点景だとしている(山麓:「ピクチャレスク」の美)。
 ジンメルにおいて「山」は絵画化を本質的に拒む存在だった。しかし、その「断片/かけら」たる「岩」や「石」ならば、手に取ることもでき、鑑賞や所有の対象となろう。古来「石」と人間には、崇拝・装飾・愛玩など様々な美的かかわりがあった。ここでは、A・ブルトンやR・カイヨワらを魅了した「石目文様の美学」の系譜に少しく触れたうえで、最後に「変哲もない石ころ」や「化石」にまで議論をひろげ、《石を拾う》美学の可能性を模索したい。


パネルB. [メディア論と美学]


前川 修(神戸大学)

メディア論の憑依

 メディアはつねに「霊媒」でもあった。
 写真や映画であれ、電信や電話であれ、テレビやインターネットであれ、メディアはつねに霊の憑依の「媒体」となってきたのである。たとえば、電気的なメディアのこうした側面に焦点を合わせた研究、ジェフリー・スカンス『憑依されたメディア』によれば、現在に至るまでの150年間、メディアは、新たに登場するたびごとに、多種多様な逸話やフィクションのなかで心霊譚の素材となってきた。電信電話の発明から、ラジオやテレビ放送の開始や拡大を経て、現在に直接つながるインターネットの普及に至るまで、それ自身、生を帯びた不気味な形象として、メディアはその特徴――「同時性」、「親密性」、「即時性」――を露にしてきたという。
 彼岸との交信を説く近代心霊主義思想に端を発し、電気/エーテルの大海原に孤独に漂流する魂との交信を物語る小説、あるいは、全世界を一元的なラジオ・ネットワークで覆いつくす電気的現前(の崩壊)の恐怖を語る寓話、私たちをのみこむ非-場所/閉域としてのテレビへの恐怖を唱える心霊テレビ説、さらには同様の事態を多幸症的に寿ぐポストモダン批評にいたるまで、大衆文化においてであれ、理論においてであれ、メディアの現前性は、新たなメディアの登場ごとに周期的に不気味なものとして姿を現し、感覚や身体の、自身からの遊離とメディアとの関係を、そのつど異なる文脈のなかでイメージ化させてきたのであり、しかもその集約的な形が現在のメディア言説にも現れているというのである。
 ここには、メディアをめぐる典型的な語りが顕著に示されているのかもしれない。一方で、各メディウムが各々ドミナントである時代とその作用圏が、そのつど限定されてしまい、他方で、メディアは、その各々を包摂する、ある時点でドミナントなメディウムの立場から均質に統合されてしまう。夾雑物を排除した純粋なメディアがつねに起源に据えられ、メディアの時空間を一枚岩的に捉える語りがここにはある。
 しかし、このようにメディアを還元し、均質化する語りは、霊媒=メディウム相互の重なりやずれゆえに生じる力学を整序し、霊の多方向的で時間錯誤的な憑依を祓ってしまいかねない。たとえば、メタ・メディア一元論を説くレフ・マノヴィッチであれ、ニュー・メディアの理論を唱えるマーク・ハンセンであれ、ある面では、こうした典型的な語りへと行き着いてしまっていることは否定できないだろう。
 本発表では、このような均質化や還元に抗うメディアの不均質さ、メディア相互の交錯やずれの現れを、1970年代のメディア(論)の美的言説への憑依に見てとるポスト・メディア論(ロザリンド・クラウス等)から考察を始めてみたい。


和田 伸一郎(中部大学)

メディアと「コモンセンス(共通感覚)」

 近年まで、「マスメディア」は、政治的空間と社会的空間の分断を、つなげつつ-隔てるという役割を担ってくる中で、人々を社会的空間に閉じ込め、その〈外〉に対する関心を失わせてきた(戦争報道においてこれを完成させたのは、おそらく1991年の湾岸戦争報道である。これは、政治的なもの、〈現実的なもの〉を内部化し、それを無害な何か、例えば、戦争をテレビゲーム的な映像に変換した。)。
 しかし、ここで「空間」とは言っても、「マスメディア」は、言論と視聴覚情報を左右するものなのだから、空間を物理的に閉塞化するというよりは、空間に対する感性を〈内向化〉させることに貢献したというべきだろう。
 マクルーハンは、〈共通感覚〉(あるいは〈感覚比率〉)の概念を参照項にしつつ、活字、テレビなど視覚メディアは、視覚を他の諸感覚から切り離す、と論じた。しかし、他方で、〈感覚比率〉の概念は、切り離された視覚を他の諸感覚との相互作用へと向かわせる、メディアの可能性を示唆するものでもあった。
 ここではこれを参照しつつ、感性の〈内向化〉あるいは〈外向化〉ということを論じたいと思う。内向化は、社会空間と政治空間を分断しつつ進行するのであり、あるいは、現実界を想像界から切り離しつつ進行する。これに対し外向化は、人を政治空間へと向かわせ、〈現実界への情熱〉を生み出す。
 では、私たちの内向化された心は、どうやって外へのアクセスを果たすのか。
 内向化を打ち破った出来事の一つとして、2001年のアメリカ同時多発テロがあった。この出来事は、社会的空間に閉じ込められていた〈想像界〉に、〈現実界〉を暴力的に闖入させた。
 これ以降、想像界を充実させる役割を担ってきた工場であるハリウッドすら、現実界の闖入を描かなければ、映画的なリアリティーが維持できないと判断したところがあった。こうしていくつかの映画が撮られた。
 また、他方で、劇的な現実界の闖入という〈スペクタクル〉的虚構を拒否した映画のうちのいくつかは、閉塞した内部に踏みとどまりつつも、その内部性が微細な崩壊をいくつもはらんでいることを注意深く観察しようとした。そしてその亀裂は、外部性への予感をはらむものだった。
 またさらに、視聴覚的、言論的状況に新たに加わったインターネットが、技術的達成によって(ほとんどすべての住居、身体を網羅するインフラの整備、端末の高性能化、小型化)、閉塞した内部空間に、マスメディアを軽々とまたいで、外部性を流入させ、あるいは人々に外へのアクセスを可能にした(例えば、2009年のイラン危機)。そして、この動きはいまやマスメディア業界の再編までもたらそうとしつつある。
 しかし、それだけにとどまらない。
 マクルーハンの定式を借りるなら、内向化によって生じた身体/感性の孤立は、共通感覚が自ら望む比率均衡化の傾向を乱すものだが、これを立て直す動きとして、外部性(他の身体、他の感性)との連携が求められつつあるというべきだろうか。
 このとき、〈共通感覚 common sense〉について何を論じることができるだろうか。
 ここにあるのはもはや孤独な二者間の、心理学的なcommunicationではなく、また、政治空間から分断された社会的なcommunityでもない。メディア研究はこれまで、社会学、心理学に拘束されすぎてきたのであるが、common senseという概念を通して、見えてくる何かがあるかをここで考えてみたい。


門林 岳史(関西大学)

「ポストメディア」の系譜
――「インターメディア」と「エキスパンデッド・シネマ」を中心に――

 近年、「ポストメディア」ないし「ポストメディウム」なる概念が静かに提起されはじめているようだ(フェリックス・ガタリ、ロザリンド・クラウス、レフ・マノヴィッチ、ペーター・ヴァイベル)。緩やかな影響関係を感じさせながらも、おおむね相互に独立して提起されているようにみえるこの概念は、論者によってその文脈が異なるものの、多くの場合、「間メディア性」ないし「複合メディア性」といった意味合いで用いられており、「ポスト–」という接頭辞が添えられることによってこの概念が新たに提起しうる理論的射程は、今のところ十分に汲みつくされていないと言ってよい。
 報告者は、この「ポストメディア」概念がテクノロジーと人間の関わりを理解するにあたって持ちうる今日的意義を理論的に考察する研究プロジェクトを新たに組織しようとしている。本報告では、そのための準備として、「ポストメディア」概念に先行する諸概念の系譜を整理し、そうした系譜の延長線上で、現在提起されている「ポストメディア」概念がどのような点で先行する諸概念を受け継いでおり、またどのような点で新たな理論的射程を切り開く潜勢力を備えているのかを考察したい。具体的には、ディック・ヒギンズの「インターメディア」概念及びジーン・ヤングブロッドの「エキスパンデッド・シネマ」概念を手掛かりとして、一九六〇〜七〇年代において、複合的なメディア環境が芸術創作に対してどのような美学的可能性を提示していたのかを振り返ることを予定している。
 マーシャル・マクルーハンが「メディアのグル」として旋風を巻き起こしたことに象徴されるように、六〇年代とはテクノロジーが切り開きうる未来に対する楽観と悲観が一つの基調をなしていた時代と捉えられる。「インターメディア」も「エキスパンデッド・シネマ」も、多かれ少なかれこうした背景のなかで浮かび上がってきた美学的概念であると言って間違いはないだろう。このような過去への一瞥をもって本発表が提起したいのは、次のような問いである。すなわち、「ポストメディア」概念の今日的意義とは(もしそのようなものがあるとすれば)、一定程度まではそうした過去のメディアへの熱狂の反復として理解されるのではないか。この問いを反語的に受け止めることで、「ポストメディア」概念が、メディアとテクノロジーをめぐる今日的状況の何を名指しえているのかを明らかにすることが、報告者の最終的な目的である。本発表では、こうした目的のために必要とされる言説分析を着実に進め、その暫定的な成果を報告することにしたい。




10月12日() パネル企画Ⅱ

パネルA. [芸術とグローバリズム――そのあらたな潮流――]


中川 真(大阪市立大学)

芸術とグローバリズム

 グローバリズムは、周知のように多次元的な現象であり、政治、経済、文化、技術、環境などの多くの領域の活動、そしてそれらの相互作用を伴うものであり、その全体を見通すことは不可能である。常に変成してゆく事態にこそ、グローバリズムの特質があるからであるが、それでも、グローバリズムをどう捉えるのか、その視点、スタンスを近年のグローバリズム研究を参考にして、整理しておく必要はあるだろう。『グローバル文化とは何か』の著書である David Held によれば、グローバル論、伝統論、変容論という3つの論点に分かれる。グローバル論者は、諸領域におけるグローバル化の歩みは必然のものであり、ナショナルな差異、自律性、主権が弱まり、均質でグローバルな文化と経済が生まれていると考える。但し、ここには、グローバル化を歓迎する立場と、文化等の均質化を否定的にとらえる立場、この2つの下位区分がある。 Tomlinson の「文化帝国主義」の議論はここに属する。伝統論者は、現状をグローバル化と捉えること自体に懐疑的であり、植民地時代以前からの交易型の世界結合の延長線上に捉え、国民国家の働く余地はまだ多く残されていると考える。変容論者は、上記2者の議論を極端なものとして捉え、グローバル化は不可避の終着点ではなく、逆転可能であり、より市民的なガバナンス・システムを、グローバルな動きとローカルな諸機関の調整のなかで浮かび上がらせようと主張する。すなわちグローバルとローカルの相互作用に脈絡をつけることに意義を見出そうとするのである。
 私の立場は、第3の変容論である。金融危機に端を発する世界的な恐慌がグローバリズムの上流であるアメリカ、EU、日本を直撃し、「格差」や「貧困」を作りだしてきた当該の国々の内部で、いっそう深刻な「格差」と「貧困」を生み出し、その意味で、欧米を中心とするグローバルな経済戦略は破綻してしまった。しかし、そこから生じた問題はなお加速化しており、「第四世界」といわれる社会的排除のブラックホール(日本の寄せ場も含まれる)を各地に産出している。そういった現状のなかで、変容論者的にいえば、まさにこの時代に、ローカルを軸とした下からのガバナンスを、トランスナショナルなネットワークのなかで形成し、新たな構造をつくることが求められている。そして、それに芸術はどのように関わるのか? あるいは関われるのか? ここでは、イギリスや日本における排除された場における「コミュニティアート」を例にして考えてみたい。そのなかから、反グローバリズム的な芸術の様相を垣間見るが、同時に、それはハイアート中心の芸術のヒエラルキーを揺さぶることにもなる。
 本パネルでは、「芸術とグローバリズム」に関して、それぞれ異なったアプローチが示されるが、最新の潮流はいかなるものか、ということは共通して見据えていきたいと思う。


平田 オリザ(大阪大学)

フランスの文化政策のダイナミズムと私

 私がフランスで演劇活動を始めるようになった九○年代後半、フランスの文化政策、とりわけ演劇に関する支援の中心は、アジア・アフリカの作家とのコラボレーションであった。私の作品が、相次いでフランスの国立劇場で取り上げられたのも、この流れと無縁ではないと考えている。
 九○年代後半のフランスが抱える最大の国内問題は移民問題であり、多文化共生型社会の維持が、国家の大きな課題となっていた。
 この現状自体は、いまでも変わらないが、しかし今世紀に入ると、フランスの文化政策は中東欧を強く意識したものとなり、支援の対象も、欧州域内の共同作業が多くなった。これは、EUの拡大、共通通貨ユーロの誕生を受けて、欧州内でフランスがプレゼンスを保つためには中東欧圏との連携が不可欠であり、これがフランスの外交政策の大きな課題になったからに他ならない。
 このように、欧州各国においては、その時々の国内外の政治状況が、文化政策に直接的に反映され、芸術家もその埒外にいることはできない。残念ながら日本の芸術家、とりわけ舞台関係者は、こうした経験に乏しく、グローバリズムといった事柄を、観念としてしか捉えることのできない傾向が強い。
 一方グローバリズムの流れは、芸術の作品それ自体にも功罪双方の影響を与えている。
 言語を使うために、もっとも国境を越えにくいと思われていた演劇においてさえも、ここ十年ほどの間に、国際共同事業が一般化し、ここ数年の大きな演劇賞の過半を、それらの作品が占めるまでになっている。
 私自身これまで、日韓、日中、日仏などの共同作品に関わり、さらに本年は、日本・フランス・イランの三カ国の演出家、俳優による作品制作を行った。字幕ソフトの飛躍的な発達、電子メール、インターネットなどによって情報の共有が容易にできるようになったことなどが、このような環境を保証していることはたしかだろう。
 また、一国の文化政策が国策と無縁ではいられない以上、国際共同作品と、文化侵略の境界は曖昧になり、芸術家は常に侵略の先兵となる可能性を背負わされる。
私たち芸術家も、そのような懸念を抜きに、無邪気に国際共同作業を推し進めることのできない時代を生きている。
 共同作業と文化侵略の分水嶺はどこにあるのか。芸術家の立場から、その困難な問いかけについて考えてみたい。


池上 裕子(大阪大学)

ROCIプロジェクトにおける現代美術のグローバル・モデルとその功罪

 本発表は、アメリカの美術家、ロバート・ラウシェンバーグが1980年代に行った国際交流プロジェクト、ROCI(Rauschenberg Overseas Cultural Interchange)を通して、グローバル化が進む今日の現代美術のあり方を考察する。とりわけ、彼が1980年代前半から半ばにかけて中国と日本で行った滞在制作と個展を比較・検討することで、現在では一般的となっているレジデンス型の制作モデルの功罪を明らかにしたい。
 ラウシェンバーグは1960年代から頻繁に外国を訪れ、特に西側陣営の諸国で積極的に展示・制作活動に携わっていた。だが、1982年に初めて中国の安徽省で滞在制作を行ったことから、政治体制の異なる国で美術を媒体とした文化交流を推進するプロジェクト、ROCIを1984年に正式に立ち上げる。このプロジェクトの期間中、ラウシェンバーグは旧東独、旧ソ連、ベネズエラ、チリなど、アメリカの現代美術に関する情報がほとんど遮断されている非民主主義国家を訪れ、現地の美術コミュニティとの交流を通じて作品を制作し、地元の美術館で展覧会を開いた。
 ROCI開催国の一つ、中国では、文化大革命に対する反省から政府が採用した文化開放政策が、「文化熱(culture fever)」と呼ばれる熱狂的な西洋文化摂取の動きを文化人や学生の間にもたらしていた。こうした事情は、ペレストロイカ前夜の旧ソ連においても同様である。ラウシェンバーグの国際交流計画は、コミュニケーションが閉ざされた文化の間に対話のチャンネルを作ろうとする革新性を持つ一方で、時の共産主義国家のアジェンダと合致するものでもあったのだ。
 西側陣営に属する日本がROCIの舞台に選ばれたのは、彼が1982年から信楽で陶板の作品を制作していたからである。陶板を開発した大塚オーミ陶業株式会社は、ラウシェンバーグに白羽の矢を立てて滞在制作の費用を出し、建築資材としては不発だった陶板を美術作品のメディウムとして新たに売り出すことに成功した。中国の美術家がラウシェンバーグに感銘を受け、いかに思想統制をかいくぐって「自由」な作品を作り出すかという切実な問題に向き合ったのに対し、バブル経済に突入しようとしていた日本では、ラウシェンバーグというセレブリティの市場価値が注目されたのだ。
 近年、レジデンス型の制作やいわゆる「コミュニティ・アート」は、地域振興の手段として、また美術家による文化交流の場として、その有用性が称揚されている。だが一方で、国際的に成功した美術家は、しばしば現地の人々に低賃金労働を外注するという、グローバル企業のような振る舞いをしている。ROCIにおける制作者と現地の人々の思惑のずれ(あるいは奇妙な符号)や経済格差は、今日の現代美術においても未解決のまま残された問題であると言えよう。


パネルB. [アートは二度死ぬ、あるいは死なない:ホワイト・キューブのポリティクス]


外山 紀久子(埼玉大学)

失われたコンテキスト(大地)を求めて

 現代アートは「ホワイト・キューブ(=欧米中心の美術館・ギャラリー・市場システム)」というそのインフラに対し、批判と依存の交錯する両義的な反応を示してきた。そもそもアート・コレクションの成立が自律化・脱魔術化の過程と連動するものであったとすると、近代アート〜モダニズムまではこの過程の進行に比較的破綻なく組み入れられていくのに対し、現代アート(およびその先駆例)にはしばしばそこから逃れようとする傾向が指摘され、同時にその多くは再び「ホワイト・キューブ」内部に回収される経路を辿ってきた。
 そのような試みのなかで、近代の外部(とくに古代的・非西洋的なもの)へ接続しようとする動きが間欠的に噴出するが、概して「プリミティヴィズム」「オリエンタリズム」の枠組みのなかで(他者の搾取=先住民や非西洋のオーセンティックな文化を欧米側が流用し誤読したものとして)批判されるか、「エクセントリック」な傍流として無視されるかのいずれかであったように思われる。「場所」「大地」への帰属を支えていた超越的次元の自明性が失われ、しかも世界中の文化資源へのアクセス可能性が加速度的に進展する状況にあって、すでにひとたび根こぎになった近代的主体がそのホームレス&サイトレスの身分を克服することができるのか。サイト・スペシフィシティを標榜した実践の数々、その再定義によってコミュニティとの協働を図るニュー・ジャンル・パブリック・アート、あるいは一種架空の奉納・儀式によって垂直軸を召還するかに見える神遊び(もどき)が、その空虚を埋める力を持っているのかどうか、一律の判断は不可能だ。
 したがって、「大文字のArtの貧困化に抗して、前芸術段階の呪術的ないし生活技術的側面の復活を企てることで<芸術の終わり>を越えてその再生をもたらすもの」というユートピアンな脱近代の図式を描くことは許されないだろう。他方、まさに1960年代前後から、(ケージやボイスが主導したような)「自己表現」から「自己改造」へ、発信から受信のアートへという転回が種々のメディアを横断して出現してくる。そのなかには、近代化の代償として私たちが手放してきたと思われる「生の技法」(および「死の作法」)の一端を想起させる――芸術はその名を与えられる以前、起源において、そのような諸技法の核心部分に埋め込まれていたのでは、という大風呂敷仮説すら誘発するかもしれない――ケースが認められる。そのときの「ホワイト・キューブ」は、やはり擬似アウラを醸成しフェティッシュの殿堂を守護する装置として糾弾されるのだろうか。あるいは鎮められ浄められた空無の心という受信の術の要諦に親和的な空間を提供するものとして、自己を更新すると言えるのだろうか。
 以上、「?」に溢れた問題群を、いくつかのややマイナーな事例を参照しながら考えてみたい。


林 道郎(上智大学)

「拡張」と「彫刻」の考古学的序説

 60年代後半の美術には多元的な展開が見られたが、その中でひときわ大きな流れを形成したのは、イリュージョンの拒絶(Anti Illusion展、1969)であり、より一般的な言い方をすれば表象批判的な傾向だった。これは、従来の絵画中心主義的な傾向を相対化することにつながり、イリュージョンの条件として重要な働きをしていたフレームによる「内」と「外」の境界の問題化へとつながっていった。つまり、美術制作は、制度化された枠の中での行為にとどまらず、広く「現実」あるいは「世界」への介入という様相をもつようになっていく。いわゆるホワイト・キューブとしての展示空間が、ブライアン・オドーハティなどによって制度的な「フレーム」として問題視されるようになる(Inside the White Cube, 1976 )のも、広い意味でのフレーム批判の中でのことである。
 このような問題意識を凝縮的にうけとめたのは、絵画に代わって「彫刻」という営みだった。ミニマリズムからコンセプチュアル・アート、そしてアース・ワークスといった流れの中で、「彫刻」という概念がそれまでにないかたちで拡張使用され、様々な実験のトポスとして浮上してくる。ロザリンド・クラウスの「拡張された場における彫刻」(1979)は、そのような傾向の一場面に回顧的に光を当てた記念碑的な論であったが、精査すると、実はこの論の指摘以上に70年前後の「彫刻」概念の拡張は広く、かえって、この論が見えなくさせてしまった側面があることも否めない。その見落とされた「彫刻」概念の外縁を探り、それをフレームの無化への欲望が生み出した特異な兆候として見ることによって、制度論的な美術の問い直しの考古学的な再考を試みたい。それは同時に、60年代後半から70年前後にかけてのキーワードであった「拡張」という概念――その源泉の一つはマクルーハン理論である――に賭けられていたものに改めて照明を当てるという作業へとつながっていくだろう。
 制度という概念そのものをどうとらえるのか。往々にしてそれを語る者の視点は、制度の外部のどこか――不可能などこか――に無意識に措定されるが、そのような視点から「制度」を抑圧的なものとばかり捉えることでことはすまない。とりわけ、美術という「制度」が内発的な差異・ノイズを算出することで自己維持をはかる――その点では資本主義という制度の鬼子のような――ものであるとすれば、そのシステムをどのように作動させるのかという、語用論的・実践的な視点が不可欠になってくるはずだ。70年前後の「彫刻」と「拡張」をめぐる検証を通じて、さらには、その後の現代美術の展開をも視野に入れた上で、そのような視点につながる可能性(あるいは不可能性)を考えてみたい。


田中 正之(武蔵野美術大学)

ホワイト・キューブ以前、モダンアートはいかに展示されたか

 いわゆるホワイト・キューブ的な展示室のなかに、標準的な高さと均等な間隔をもってモダンアートの作品が展示されるようになったのは、異論はあるものの一般には1929年に開館したニューヨーク近代美術館から始まるとされている。ニューヨーク近代美術館は、ポスト印象派を扱った最初の展覧会以降、とくに1936年に開催された『キュビスムと抽象芸術』展を代表として、モダンアートを美術館という制度に回収し、歴史化するにあたって大きな役割を果たした。それは、通常モダニズムと呼ばれる歴史観であり美学を示すものであったが、そのモダニズム的なモダンアート理解は、同館が行った展覧会の展示にも如実に示されていた(たとえば、作品を展示空間からは自律したものとして扱う点や、観者の身体性を平準化して扱うといった点など)。
 しかし、そのようなモダニズム的な展示は、いまだモダンアートが歴史化されず、また美術館という制度に回収されてしまう以前においては、必ずしも一般的なものではなかった。1936年の『キュビスムと抽象美術』展が、モダンアートの歴史化という点において、その翌年にパリで開催されたふたつの展覧会、つまり『アンデパンダンの巨匠たち』展(プティ・パレ)と『アンデパンダン美術の起源と発展』展(ジュ・ド・ポーム)というアンデパンダン派と当時呼ばれたモダン・アートの歴史を回顧的に示す二つの展覧会と、ある種のせめぎ合いをなしていたのと同じように、モダンアートをいかに展示するかという点においても、20世紀の初頭には、複数の試みのせめぎ合いがみられた。
 本発表は、これらホワイト・キューブ以前のさまざまなモダンアートの展示の試みを確認することを目的としている。発表で取り上げることとなる主な展覧会は、1903年のドイツにおけるムンク展、1910年のドレスデン、アルノルト画廊におけるブリュッケの展覧会、1911年のミュンヘンでの『青騎士』展、1912年のサロン・ドートンヌの第11室におけるキュビストやピカビア、クプカ、そしてモディリアーニらの作品の展示、1914年のカジミール・マレーヴィッチによる『0,10:最後の未来派絵画』展などである。こういった期間限定的な展覧会に加えて、世界で最初の公立の近代美術館とも言えるベルリンのクロンプリンツパレ(20世紀前半のナショナル・ギャラリーの現代美術のための別館)における館長ルートヴィヒ・ユスティよる展示や、エッセンのヴォルフガング美術館の展示、1927年にエル・リシツキーがデザインしたハノーファー美術館の「抽象のキャビネット」の展示など、美術館のコレクションの常設展示も取り上げる。



若手フォーラム《要旨》


会場A. 崇高論


A-1 星野 太(東京大学)

情念の相互感染
――バーク『崇高と美の観念の起源』における詩、言語、情念――

 本発表は、エドマンド・バークによる『崇高と美の観念の起源』(1757)の包括的な読解を通じて、同書末尾における「情念(passion)」論の射程を見定めることを主要な目的とする。
 知られるように、バークは同書の第五部において、詩(言語芸術)の本質を「模倣」ではなくむしろ「共感」に結びつけながら、言葉が他者の「情念」に対してもつ影響力について論じている。『崇高と美の観念の起源』の中でもとりわけ印象的なこの箇所については従来さまざまな形で議論が重ねられてきたが、本発表が試みるのは、これを伝統的な修辞学=弁論術の議論と突き合わせながら論じていくことである。たとえばアリストテレスが『弁論術』の第二巻において、聞き手の「情念(pathos)」に対する働きかけについて数章を割いていることは周知の通りであり、バークの書と主題的に無縁ではない偽ロンギノスの『崇高論』においても、「情念」は「崇高」の第二の源泉として(あるいはより本質的な言語の媒質として)、きわめて重要な役割を付与されている。むろん西洋思想史における「情念」をめぐる問題はそれ自体で極めて大きな主題を構成しており、この点を論じる上では16世紀におけるストア哲学の復興や、17世紀以降における情念論の変容といった問題にも適宜目を向ける必要があるだろう。
 上記のような手続きを踏む背後には、偽ロンギノスの『崇高論』とバークの『崇高と美の観念の起源』を結ぶ点を情念論の中に見出そうという目論見がある。バークが『崇高と美の観念の起源』の本文中で偽ロンギノスに言及するのはたった一度だけであり、しかも初版に存在した序文での批判的な言及は1759年の第二版において削除されてしまっている。なるほど確かに、17世紀後半から18世紀にかけてのイギリスでは、ボワローの翻訳に端を発するフランスの『崇高論』受容とは異なる系譜がすでに胚胎されており、バークにとって偽ロンギノスのテクストは自説を展開する上で必ずしも言及すべき対象ではなかったのかもしれない。だが他方で、バークが同書の末尾において詩を絵画に対して優位に置いているくだりには、上記の問題を考える上で見過ごすことのできない内容・表現が多数存在する。具体的に挙げていけば、「われわれの情念の相互感染(the contagion of our passion)」といった記述や、「明晰な表現(clear expression)」と「力強い表現(strong expression)」の区別の必要性を説く箇所などがそれに当たる。
 本発表では、上記のような具体的な記述の分析を通じてバーク自身の情念論の射程を見極めるとともに、そこに見られる伝統的な修辞学=弁論術との共振関係を提示していくことにしたい。


A-2 岩崎 真美(東京大学)

ラスキンにおける「寄生的崇高」
――「崇高」と「ピクチャレスク」の理念的接続――

 伝ロンギノスの『崇高について』に由来する「崇高」という理念は、修辞学の枠組みを超え、十八世紀イギリスにおいて風景を視覚的に捉える際の概念的枠組みとなった。一方バークは『崇高と美の観念の起源』の中で、最も強力な情緒を生み出し得る崇高を表現する媒体として、模倣的な芸術たる絵画は不適当であると述べる。しかしギルピン、プライス、ナイトといった理論家たちが「崇高」と「美」に関連させて定義づけようとした「ピクチャレスク」を巡る議論は、視覚的自然を素材とした構図の内部に限られていた。よって可視性に還元できない「崇高」から、風景、絵画、庭園といった視覚的対象に限定された「ピクチャレスク」への移行を説明するには、両者を接続させる議論を待たねばならない。
 十八世紀後半から十九世紀初頭にわたるこうした美学の潮流は、ヴィクトリア朝の思想家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)によって「寄生的崇高」=「ピクチャレスク」と図式化される。「寄生的」という否定的な含意も相俟って、彼の立場は屡々ピクチャレスクという美意識へ批判的であったとされる。しかし本発表では先行研究のこうした見方から脱し、『近代画家論』第一巻(1843)における彼の崇高論を明らかにした後、『建築の七燈』(1849)における先述の図式へと繋がるその思考を辿りたい。自己維持と関連させたバークの崇高論に対し、ラスキンは「死の観照」を提唱することで、対象から距離を保つ視座を獲得する。その上で、「崇高」が事物それ自体に内在する質に由来するとした従来の議論とは一線を画し、「事物の偶有性に拠る、ないしは最も本質的でない性質に依拠した崇高」としての「寄生的崇高」を「ピクチャレスク」と結びつけた。ゆえに「寄生的」とは「偶然的」ないし「外部的」と換言し得る。以前のピクチャレスク論が受けていた絵画という空間的枠組みの限定から逃れるために、偶然性という時間的契機を導入したラスキンの試みを捉え返す作業は意義あるものと思われる。
 ところでナイトは『趣味の諸原理をめぐる分析的研究』の中で、崇高さを生み出すものの例として、「力」(power)や「壮大」さ(greatness)、「無限」(infinity)を挙げている。従って死による欠如ではなく、死の壮大さが精神を高めるとしたラスキンの崇高論は、「全面的欠如」を恐怖と捉えたバークとは異なり、自己の内に力として感ずる生の感情に基づいている点において、ナイトの崇高論に接近していると考えられる。こうしたラスキンの思考過程を辿ることにより、いかなる人間的な枠組みからも溢れ出ようとする「崇高」から、内部に力を位置づけることで自己を確立しつつ、周囲をとりまく世界を視覚的に構成し、制御することのできる創造性を強調した「ピクチャレスク」へと議論を接続する必要性を感得することが可能となるのである。


A-3 髙藤 大樹(同志社大学)

ヘーゲル美学と風景概念

都合により、辞退されました。


A-4 松井 淳(東京藝術大学)

至高性と崇高

 ジョルジュ・バタイユ(Georges Batille,1897-1962)の美学的著作は少なくない。ケルト民族にバロック的な美の萌芽を見出した『アカデミックな馬』、サドやプルーストといった作家を悪というテーマから論じた『文学と悪』、とりわけラスコーの壁画に人間独自の自体的な理性活動を見出した『ラスコーの壁画、または芸術の誕生』は有名である。だが、本論文はこれらを論じるという方法ではなく、彼の思想の中心をなす「至高性souveraineté」の概念の解明を通じて、バタイユの思想を美学的に見直す方法をとる。バタイユの美学的著作を論じるのではなく、バタイユの著作を貫く思想を美学的観点から論じる。至高性の他にも「内的体験expérience intérieure」、「非-知non-savoir」、「侵犯transgression」、といった重要な概念があるが、その中でも至高性の概念は彼の思想の根幹を形成する概念であるように思われる。本論文の目的は、体系づけられて展開されたわけではないバタイユの至高性概念を明らかにすること(Ⅰ)、バタイユの思想を美学の領域と接合する予備作業(Ⅱ)、以上である。
 至高性概念の重要性にもかかわらず、それが学問的に注目されることが少なかった最大の理由は、至高性概念の本質が認識を拒絶することにあると考えられる。「至高性はなにものでもない(La souveraineté n’est RIEN.)」とバタイユは言う。
認識不可能と言われる至高性を描き出すために、まず第一節では、至高性を有用性という対立概念に沿って明らかにする。両者は富に対する姿勢において対立する。
 第二節では、至高性概念と伝統的な美的範疇である「崇高das Erhabene」概念との近親性を示す。崇高に関するカントの議論を利用する。明らかでない至高性概念を明らかにするために強固な体系性を有するカントとの比較が要請される。以上の議論の出発点として、概念の近親性とは何をもって主張できるのかという点から本論文は論じる。
 第三節では、至高性概念と有用性概念との現代における対立を見ていく。その際に注目するのは、至高性と有用性の双方にまたがる「賭けjeu」「投機jeu」の概念である。
 以上から結論が導ける。バタイユは至高性をなにものでもないと述べたが、その意味するところは、至高性がすべてのものとりわけ有用なものを、何ものでもないものと感じ、それらを振り捨てようとする心意の働きである、ということだ。


会場B. 美学


B-1 加藤 隆文(京都大学)

パースのプラグマティズムと美学

 「プラグマティズム」とは19世紀後半にアメリカで生まれた哲学上の立場のことであるが、美学・芸術学においても、たとえば、ドイツ系アメリカ人の美学者シュスターマン(R. Shusterman, 1949- )が1992年にPragmatist Aestheticsと題した著作を出版している。しかし、彼が継承しているデューイ(J. Dewey, 1859- 1952)の芸術論は、デューイ自身によって、プラグマティズムの立場から述べたものではないと明言されている。本発表では、彼らとは距離をおき、美学の観点からプラグマティズムを語る切り口を見出すために、アメリカの哲学者パース(C. S. Peirce, 1839- 1914)の思想に焦点を当てる。そして、(1)パースにとってプラグマティズムとは何なのか、(2)パースのプラグマティズムは私たちにとって何でありうるのか、ということを論じたい。
 (1)パースの思想は非常にスケールの大きい体系的なものであり、彼のプラグマティズムは、彼の思想体系全体の中で理解されるべきである。本発表では、「記号論」「アブダクション」「プラグマティズム」という3つのキーワードを設定し、それらを、ひとつの連続した体系において語る見取り図を提案する。「表象体Representamen」「対象Object」「解釈項Interpretant」の三項関係において為される記号作用は、まさにアブダクションに他ならない。逆に言えば、アブダクションによって、いわゆる無限の記号過程が成り立っている。また、プラグマティズムは、アブダクションの論理なのである。
 (2)では、こうしたパースのプラグマティズムを、私たちはどのように受け取るべきなのか。一つには、アブダクションによる記号生成過程を、人間の開かれた創意工夫の過程のようなものと考え、プラグマティズムを人間主義的に受容する態度がありうる。これは、デューイの芸術論やシュスターマンの美学とも通じる。しかしむしろ、「ヒューマンでない」ことこそが重要なのではないか。パースは、プラグマティズムの「砥石命題cotary propositions」というものを論じている。それは、「最初ニ感覚ノ中ニナカッタモノハ、知性ノ中ニナイ」「知覚判断perceptual judgmentは一般的要素を含む」「アブダクティブな推論は、明確な境界線なしに、知覚判断になる」という3つの命題である。これらを考え合わせると、アブダクションとは、創意工夫の過程と言うよりはむしろ、習慣形成の過程、あるいは、システム生成の過程と言うべきである。そこには、必ずしも人間性の介在はなくてよい。パースの記号論とは、どのようにして記号がある習慣あるいはシステムを参照しているのかという説明であり、プラグマティズムとは、その習慣形成・システム生成の論理なのである。


B-2 斎藤 菜生子(東京藝術大学)

アーサー・ダントにおける芸術終焉論と批評原理

 アメリカの哲学者であり美術批評家のアーサー・ダント(1924-)は、1980年代以来「芸術の終焉」について著作や美術批評の中で頻繁に論じている。こうした一連の芸術終焉論は、「芸術の死」あるいは「絵画の死」というダントいわくイデオロギー的な主張との比較や、グリーンバーグのモダニズム芸術の物語の根底にある芸術哲学への批判、そして何より分析哲学を出自とするダントがヘーゲルの歴史哲学を支持したことによって注目を集めてきた。しかし同時に、その芸術終焉のモデルがヘーゲルからの引用を絡めて論じられていることや、ダント自身の論旨の言い換えによっていくつかの混乱と誤解を生じてきた。
 近年のダントの著作では、自身の芸術終焉論への誤解に答えるかたちで、より明確な説明が試みられている。ヘーゲルの芸術終焉論への依拠によって、芸術が哲学になったときに芸術の歴史が終わると主張したと解されている点については、ダント自身は芸術が哲学になるとは考えていないと言明し、むしろ芸術は自身に哲学的問いを発することで自己意識に達したという、哲学する芸術の姿を想像している。ウォーホルの《ブリロ・ボックス》(1964年)は芸術とは何かという哲学的問いをそれ自体で体現している好例とされる。そして、ダントは芸術が終わりを迎えてもそれ以降作品がつくられなくなるともそれ以降の作品が無意味になるとも考えていない。むしろ終焉の後にこそ、真の芸術哲学を備えた作品が生まれるというわけである。終焉後の70年代以降は様々な表現手段を模索するかつてないプルラリズムになったが、その深層構造の理解の下に制作された作品にも魅力を感じている。
 とりわけ近年ダントは、雑誌のコラムのみならず展覧会カタログや作家の作品集において美術批評の活動に力を入れているが、現在も芸術終焉論を保持し、それをふまえて自身の批評原理とも言うべき姿勢を示している。終焉以後の「ポスト・ヒストリカル」という歴史的に進むべき方向を規定されない時代においては、なんでも芸術となりうる。しかし、ダントはすべてが芸術になるとは言わない。彼における芸術とは、それが何かを表し、すなわち何らかの意味をもち、その意味を物体を通して具現化しているものである。そして批評家としてなすべきことは、作家と見る人とを仲介すべく、作品が表している意味を明らかにし、その意味を物体がどう体現しているかを説明することだと言う。本発表は、ダントの芸術終焉論への一定の総括の試みをふまえて、終焉以後に彼が実践している美術批評の根本姿勢の把握を試みるものである。


B-3 吉成 優(東京大学)

ディドロの美術論における人体表現の美と合目的性の問題

 「美しい自然の模倣」「真善美の照応」といった古典(主義)的な定式が徐々に効力を失いつつあった18世紀中葉にあって、当時の藝術論は、伝統的な価値観の体系と、そこから脱却しようとする動きとの間で揺れていた。ディドロ(1713-1784)の美術論もまた、そうした過渡的な時代の傾向を反映している。以下では「習慣的職能による身体の変異」というディドロの美術論に通底する思考モデルに注目することで、ディドロの模倣論が多分に古典的で、とくにプラトンからの影響を色濃く残しつつも、同時に「美と合目的性の不一致」という契機を内に含んでいることを明らかにする。
 (1)人体の美について言及したディドロの藝術論のうちで最も広く知られているものは、1767年の『サロン評』序文における「理想的モデルmodèle ideal」説である。藝術家が真に模倣すべきは心中に形成される「理想的(=観念的)モデル」であって、実在するモデルや、その身体各部の組み合わせではない。アンドレ、バトゥー等、古典主義者の説く「美しい自然の模倣」を批判するために呈示された同説の要諦はこの点にあるといえる。そしてこの批判の前提となっているのが、現実のモデルは習慣や職能による身体の「歪曲」「変異」を被っているという考え方である。
 (2)しかしながら、この67年の序文における量的に限られた記述に留まる限り、この「職能による変異」について厳密な理解を得ることはできない。そこで、よすがとなるのが、ベルヴェデーレのアポロン像や、アンティノウス像のような古代の彫刻と、自然状態の「未開人homme sauvage」に関するディドロの議論である。ディドロはホガースの『美の分析論』(1753)を自由訳するかたちで、アンティノウスとヘラクレスの身体を対比しているが、このときホガースが「最もプロポーションの整った身体が最も高い機能を有する」という考えに基づいてアンティノウスの身体のうちに万能性を認めているのに対して、ディドロはアポロンやアンティノウスを、ヘラクレスと対比して「無為の人間homme oisif」と呼んでいる。ディドロの理解では、アポロンやアンティノウスは「未だ何もしたことがない」ものとして位置づけられる。
 (3)ディドロは、同じ「変異」のメカニズムを自然状態から社会状態état de sociétéへと移行する際の人間の身体にも見出している。人間の身体は社会状態(=社会における職能)に置かれることで、その職能に適した形態を得るにいたるが、同時に自然状態の中で保持されていたプロポーションの美を喪失する。この文脈において「未開人」の身体は、美しいが、しかし社会的には何もできないものとされる。
 したがって、ディドロの説く「変異」とは、無為で楽園的な自然状態から、労苦に満ちた社会状態への移行と、それに伴う身体構造の適応に他ならない。ここで「変異」を受ける前の理想的な人体像に見出される「無為oisiveté」という性格は、美と合目的性との間の一致が(強く要求される一方で)緩慢に否定されつつあった十八世紀後半の時代的傾向を映し出していると同時に、19世紀における唯美主義的な反合目的性の美学の萌芽として位置づけられる。


B-4 Pyle, Eric Allan(広島大学)

ウィリアム・ブレイクの認識論
――反ロック的認識論からキリスト教的道徳律廃棄論へ――

 ウィリアム・ブレイク(1757-1827)には、神秘主義者としての一般的な評価もあって、彼が当時の哲学と深く関わっていたとの印象は薄い。しかし、実際には、彼はジョン・ロック、その他啓蒙主義思想家の著作に通じ、その思想を批判的に考察していた。ブレイクは、自身の宗教的着想は天からもたらされ直接開示されたものだと主張するが、実の所、彼は同時代の知的議論に深くコミットしていた。多くの研究者がブレイクのロックに対する反発について分析し、彼独自の宗教的・道徳的信念を研究した。本発表では、それらの検証を踏まえて、ブレイクの反経験主義的認識論が彼の創作活動を支える宗教的道徳論と不可分の関係にあることを明らかにしたい。
 ブレイクは画家J. レイノルズの『絵画論』の余白にロック主義哲学に対する怒りの反対表明を書き込み、スイスの詩人J.K.ラバターの著作に注釈をつけた。これらの検討が、まずは彼独自の知的理論を把握する導入部となる。彼は、現実に知覚した経験から抽出された概念は「より上級である」とするロックの考えに異を唱えて、そのような抽象化されたものの性質は死者の亡霊だと論じた。彼曰く、具体性を伴わずに抽出された性質は現実の存在たり得ない。このような直接的な意見の理解を基にすれば、彼の全作品を下支えするものと同種の認識論的思考の証左を 『天国と地獄の結婚』や『エルサレム』といった詩的作品に求めることが出来るであろう。ある種のキーワード、たとえば「亡霊」が登場する時、その詩が叙事詩であれ、象徴的であれ、非現実世界を描いたものであれ、彼の作品世界における知的基礎としての独自の認識論を読者は想起することになる。
 これらの宗教詩には、彼の認識論、道徳論及び宗教観が、互いに矛盾なく不可分なままで彼が解釈したイエスのメッセージに関連している証拠も見出せるであろう。彼の道徳においては、ロックの普遍的な抽象化された性質は、旧約聖書におけるモーゼの一般的戒律と、どちらも個々の生命がそこになく死んだ状態だという点で等価となる。対照的に、ブレイクの考えるイエスの道徳には、個別の行為それぞれに許しと正義があり、逆に言えば個別の具体的正義としてのみ真の戒律が存在し得る。彼にとって、旧約聖書の一般的戒律を拒絶してイエスから個人的許しのメッセージを受け取るということは、人が道徳の亡霊から解放されることである。この見解の独自性は、イエスが自由を授けると同時に、人々を認識論的、道徳的および宗教的に各々が生きている世界、最早ロックの主張するがごとき抽象概念の世界ではない、そこに回帰させたと主張している点にある。
 ブレイクの謎めいた表現のいずれにも、背後には彼自身による独自の哲学的考察が連なっている。この考察の吟味を通じて、作品が伝える道徳的・神秘的メッセージの重層性もいっそう明らかになるであろう。


会場C. 西洋美術


C-1 白 成淑(文星芸術大学)

ルーカス・クラーナハの工房「宗教改革祭壇画」
――初期プロテスタントにおける図像表現――

 宗教改革期における図像表現の変化に関しては、松原典子論文「対抗宗教改革期のスペインにおける説教と美術」などカトリック側における変遷を対象にしたものが多く見られる。また、16世紀後半に起きる反宗教改革の新図像を論じた若桑みどり論文「反宗教改革期のカトリック教会における宗教図像の変革」がある。
 小論は上記二論文が扱った時期に先立つ、カトリックからプロテスタントへ移行する最初期を取り上げ、この時点におけるプロテスタント側の図像の変化、特にマルティン・ルターが直接関わった祭壇画を対象にその図像の持つ意義を論じている。
 宗教改革初期においては、教会内部の装飾が剥ぎ取られ無装飾へと向かう方向性が取り上げられることが多いが、その草創期においては、決してそのような傾向のみが存在したのではなかった。プロテスタントの先頭を切ったマルティン・ルター、彼自身を描いた祭壇画さえ存在しているのだ。小論はヴィッテンベルクに残るこの祭壇画を取り上げ、初期プロテスタントにおけるマルティン・ルターに関わる教会装飾の原点を確認するものである。
 ドイツの中部北東に位置するヴィッテンベルクの聖マリア教会にある祭壇画「宗教改革祭壇画」は、カトリックからプロテスタントの移行期における教会美術の中で、マルティン・ルターの意図を明確に表現した作例として現存し、重要な位置を占めている。
 宗教改革はマルティン・ルターによって口火がきられ、当然教会美術にも変化を強いた。その結果、教会の中に置かれていた聖画や祭壇画が排除され、華麗だった教会の装飾は取り払われた。しかしヴィッテンベルクの聖マリア教会は早い時期にプロテスタント教会に変ったにもかかわらず、他の教会と状況が異なりその内部の装飾が残存している。特に「宗教改革祭壇画」は今も祭壇の中央に配され,礼拝に重要な役割を果たしているのである。その「宗教改革祭壇画」の意義は画家ルーカス・クラーナハ(1472-1553)とマルティン・ルター(1483-1546)の関係を明示していることであるといえる。画家クラーナハとマルティン・ルターの関係は、その当初、どのように結ばれたかについて明確には判明していないとされる。しかし二人は人生の中で最も重要な時期を共にし、助け合った。信仰によって固く結ばれた二人はヴィッテンベルクという場所で活動を始め、これが「宗教改革祭壇画」の描かれた出発点となるのである。1521年、急進的な改革を主張する者たちが現われ、ヴィッテンベルクにも聖像破壊運動が波及した。しかしルターは翌年、この破壊運動を停止させ、その後、土地の有力貴族に新たに祭壇画を作るよう説得した。その結果、ルーカス・クラーナハ父子の工房の卓越した技術によって祭壇画として実現したものが「宗教改革祭壇画」なのである。この祭壇画が当時の時代的変化であるカトリックからプロテスタントに移る転換期に位置することを、図像表現を通して論証したい。


C-2 小松 浩之(京都大学)

技を隠す技ars est celare artem
――ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノ、または絵画問答』の再考――

 『アレティーノ、または絵画問答』(1557)は、16世紀ヴェネツィアで活動したポリグラフォ(雑文家)、ロドヴィーコ・ドルチェ(1508/1510‐1568)による絵画理論で、19世紀後半にいたるまで、芸術家や芸術理論家・批評家に広く参照されたものであった。このテクストは、ヴェネツィア派の画家ティツィアーノを称揚したことでも知られるが、本発表では、同じく16世紀を代表する芸術家であるミケランジェロとラファエッロを比較し、後者の優位を主張したことに注目する。この比較論でドルチェは、ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』(1550、1568)に代表されるミケランジェロを頂点としたマニエリスム観を批判した。その一方でラファエッロの卓越が称揚され、物語画の規範を重んじる絵画観が提示されている。以上のことを踏まえて、『アレティーノ』は先行研究において、トレント公会議(1545‐1563)以降に表面化してくる、マニエリスム批判と古典主義的な絵画観の先駆的なテクストとされている。さらに、『アレティーノ』で示されたラファエッロを称揚する絵画観は、アントニオ・ピネッリ(1977、1993)が指摘するように、16世紀後半のマニエリスムから離反する画家たちの様式的な問題系とも関わるものである。マニエリスムからバロックへという様式の転換期を迎えたイタリアにおける作品の制作と受容の態度を知るうえで、『アレティーノ』においてドルチェが用いた批評用語や概念を明らかにすることが鍵となるのである。
 ドルチェは、このミケランジェロとラファエッロの比較論において、前者に「困難さdifficoltà」、後者に「流暢さfacilità」という批評用語を適用しているが、これらはともに15世紀フィレンツェの絵画批評のなかで形作られてきたものであった。『アレティーノ』における「困難さ」、「流暢さ」という用語は、16世紀イタリアにおける理想的な宮廷人の振る舞いを指す「さりげなさsprezzatura」という概念との関連が多くの研究者によって指摘されている。実際にドルチェはこの「さりげなさ」を、彩色をめぐる議論において援用してもいる。このような批評用語は、これまでの絵画批評の流れのなかで捉えることのできるものであり、なおかつ同時代的な言説とも連関するものであった。ドルチェの批評用語の体系は、近年、パオロ・ダンジェロ(2005)によって「技を隠す技ars est celare artem」という古代修辞学以来の伝統のなかに位置づけられた。ダンジェロによれば、ドルチェは「技を隠すことの急速な普及に決定的な役割を果たした」人物であるという。
 本発表では、この比較論において用いられた「困難さ」、「流暢さ」という慣習的な批評用語や「さりげなさ」という同時代的な概念と、「技を隠す技」という修辞学のトポスとの関係を示したうえで、『アレティーノ』にみられるドルチェの絵画観に考察を加える。このことによって16世紀後半のイタリアにおける絵画の理論と制作の密接な関わりが明らかになるだろう。


C-3 髙城 靖之(慶應義塾大学)

ホーホストラーテンにおける「目を欺く」こと
――『絵画芸術の高等画派序論Inleyding tot de Hooge Schoole der Schilderkonst』を中心に――

 本発表では、17世紀オランダにおけるトロンプ・ルイユの名手として知られる画家サミュエル・ファン・ホーホストラーテンSamuel van Hoogstraten(1627-78)について、その理論家としての面を中心に論じていく。彼は、時の神聖ローマ皇帝フェルディナンド3世からも称賛されるなど、17世紀において最も高い評価を受けたオランダ人画家の一人である。彼が最晩年に執筆し、死後に弟のフランソワによって出版された『絵画芸術の高等画派序論Inleyding tot de Hooge Schoole der Schilderkonst』(1678)は、この時代のオランダにおいて書かれた数少ない理論書の一つとして、絵画研究者たちから重要視され、幾度となく引用されてきた。しかし、それらの引用は、それぞれの研究者が都合のいい個所を抜き出しただけに過ぎず、この理論書自体に対する考察は十分に行われているとは言えない。
 この理論書についての研究は、ホーホストラーテンの作品や経歴に対する研究と同様、近年始まったばかりであり、刊行された研究書は概説的なものを含めて数冊にとどまっている。これらの研究によって、従来はフランスやイタリアの古典主義的アカデミズムをオランダに紹介したものと捉えられてきたこの理論書が、同時代のオランダ絵画の特徴であるリアリズムの追求を肯定的に評価していることが指摘された。実際、彼は「見かけ」や「迫真性」を重要視しており、なかでも彼が強調しているのは「(目を)欺くbedriegen」ということである。絵画の目的とは何かを論じている部分で、彼は、絵画を「眼に見えるあらゆる自然の姿が生み出すすべての観念や概念を表象し、素描と色彩をもって目を欺く科学である」と規定している。
 「目を欺く」というのは、プラトン以来、絵画を否定的に捉える人々がその根拠として挙げている特徴である。ホーホストラーテンは、プラトンの言葉を知りながらも、それを絵画にとって重要な特質として肯定的に捉え直している。また、フィリップ・アンゲルなどをはじめとしたホーホストラーテンと同時代に活躍した他のオランダの理論家たちも、自身の著作や講演において、この特質に言及している。本発表では、こうしたオランダの理論家の言説と、フランスやイタリアのアカデミズム理論を比較しつつ、この「欺く」ことがホーホストラーテンにとってどのような意味を持つのかを考察していく。そして、このような絵画観が、彼の作品、とりわけ超絶技巧的な面のみが強調される彼のトロンプ・ルイユ作品とどのように関係しているのかを明らかにする。


C-4 岸本 督司(京都大学)

アドルフ・ロースにおける素材と使用
――その初期のエッセイおよび実作を手がかりに――

 アドルフ・ロース(1870~1933)は世紀転換期のウィーンを主な舞台として活躍した建築家である。彼は1897年ごろ、内装や家具の設計からそのキャリアをスタートすると同時に論客として頭角を現し、「装飾と犯罪」などにおいて当時のウィーンの虚飾にあふれた都市イメージを痛烈に批判した。晩年には、「ラウムプラン」と呼ばれる独自の空間構成を作り上げるが、そのルーツや意義は明確にされているとは言いがたい。
 発表者は、ロースの建築思想について考えるとき、その根底の一つとして、素材が重要な位置を占めると考える。それゆえ本発表においては、彼の初期論考、および初期のアパートの室内空間についての考察を通して、その後の建築思想を基礎付ける素材についての思考を明らかにすることを目的とする。
 「建築マテリアルについて」と題された1898年の論考において、ロースは一キログラムの金と石を比較し、建築素材としては等価であると断言する。この一文は、素材の高級さという考えを否定するものとして、ウィーン建築における素材のイミテーションを弾劾する、いわば文化批評的な側面から捉えられるものである。しかし、同時にこのことは、ロース建築にとって素材がどのようなものとして扱われているかを示している。つまりイミテーションの対象となるのは、表面だけである。ロースにとって素材はまずもって表面として、すなわち目に見えて触ることの出来るものとして考えられている。そうしたロースの素材についての思考は、次なる論考「被覆の原則について」でより明確にされる。そこでは住居の内部空間、つまり住民がくつろぐ空間の周囲をめぐる素材の決定が建築家の仕事の第一義であり、それをささえる構造を作り上げるのは二義的な仕事とされるのである。また、ロースの空間を作り上げる構成要素として、その内部に置かれる家具も重要である。同時期の論考「ロトンダの室内空間」においてロースはくつろぐことの出来る空間の例として、自らの子供時代の室内空間を挙げ、一つ一つの家具を自分の小さいころの動作の対象として描き出している。ここにおいてもその家具の素材がまさに手で触れることの出来るものとして重要視されていることは明らかである。このように、素材を肌に触れうる表面という点から主に考えていたロースは、新しい構造部材である鉄筋コンクリートがいかに建築表現に生かされうるかを中心的な関心の一つとしていた当時の多くの近代建築家たちとは著しい対照を成していたと言えるだろう。
 以上のように、ロースの触知的素材観は彼の建築思想の特徴をなしていると思われるにもかかわらず、ロースが素材を重要視したという事実は知られているにせよ、これについて思想、実作の両面から具体的に考察した研究が十分になされているとは言えない。こうした観点から本発表においては、「ガラスと陶器」(1898)のような1900年前後の初期エッセイに見られる素材についての記述と、同時期にロースによって設計された、「アドルフ・ロースのアパート」(1903)などのいくつかのアパート内装および家具を手がかりに、ロースがこの時期、素材およびその使用についてどのような考え方を持っていたのかを明らかにし、のちのラウムプランへ向けてその思考がいかに進んでいったのかを理解するうえでの端緒とする。


会場D. 日本美術/パフォーマンス


D-1 塙 萌衣(学習院大学)

明治30~40年代における竹内栖鳳の屛風制作

 京都の画家・竹内栖鳳は、明治30~40年代前半に水墨を基調とし、主題・素材・構図の点で特徴的な屛風を複数制作しているが、これらの作品については、これまでほとんど言及されていない。現在は、所在不明の作品も多く、図版でしか確認できないものが大半を占めている。しかし、栖鳳が明治後半期にこれらの屛風を制作していたことは確かであり、画風を大きく変える渡欧前後の時期に生み出された作品群は、栖鳳の画業を考えるうえで重要であると発表者は考える。
 竹内栖鳳について論じる際、明治33年(1900)パリ万国博覧会への出品を兼ねた西欧美術視察旅行の経験は、画業の転換点として重要な事項であり、既に多く論じられるところである。栖鳳は渡欧後、「和蘭春光・伊太利秋色」「羅馬古城趾真景(羅馬之図)」や「獅子」といった、明らかに渡欧中に画の構想、素材のインスピレーションを得た、六曲一双屏風の大画面絵画を描き、評判をとっている 。一方で、明治30~40年代には、金屛風ないし、それに準じる素材を使用した作品を複数制作した。現在、大型画集、展覧会図録等の図版で確認できるのは40点ほどであり、そのモティーフは主として、雀、鷺、烏、鵜、千鳥、犬、虎、獅子、風景であり、技法は水墨を基調としている。注目すべきは、栖鳳がこれらの屛風をこの時期に集中して制作したこと、そして、屛風を積極的に作品形式として選択し、水墨の表現を好んで用いていることである。
 栖鳳の金屛風は、すべて同じ描法で描かれているのではなく、いくつかの描法を使い分けて制作されている。例えば、同時期に描かれた獅子を主題とした作品と、烏を主題とした作品とを比べてみると、前者が一見すると墨を主軸としているように見えつつも、実際は墨・セピア・顔料を複雑に混ぜ合わせ、背景も微妙な色遣いを用いて制作されているのに対し、後者は、金地に墨のみで描かれた室町時代の作品を喚起する画風の水墨画である。これらの作品には、日本画の素材と作品形式への強い関心が示されており、栖鳳が制作に際して、その描法を意識的に使い分けていたことを示している。墨への関心は、明治20年代の徹底的な古画学習の影響も大きいが、水墨による表現と屛風という作品形式をいかに使用するかという、栖鳳の試行錯誤のようなものが、渡欧をはさむ、明治30~40年代の屛風作品から見てとることができるのは非常に興味深い。
 発表者は、明治30~40年代に制作された竹内栖鳳の金屛風を諸資料から数え上げ、主題・素材・構図による分類を行うことによって、その特徴を分析した。これらの作品には、日本画の素材・画面形式を再度栖鳳自身の中で捉えなおし、制作に応用していく過程がうかがわれる。これまで十分に検討されてきたとは言い難い栖鳳の金屛風を、画業中の重要な作品として位置づけることが本発表の目的である。


D-2 福永 礼恩(大阪大学)

小磯良平画『母子群像』(1956年)についての一考察

 小磯良平(1903-1988)は、昭和全期に活動した洋画家である。その画業は、油彩画、パステル画や新聞小説の挿絵など多岐にわたる。画風は具象画を主とした、例えば『斉唱』(1941)や『室内(A)』(1975)などのように、“清澄・静謐・典雅”と形容される評価が一般的である。その真髄は “無名性”“抽象的人間像”といった特定の対象を想起させない普遍性、絵画によって作家個人の“思想や意思の伝達を企図しない”といったメッセージ性を排する“芸術至上主義”に立脚した創作活動にあるという。しかし、これらが小磯作品に通底する特徴のすべてなのであろうか。
 その画業にあって、1956年に制作された『母子群像』は、初見時“4人の女性に幼児1人”が3組合わさった群像の不思議な画面構成、幾分不気味さが漂う人物の相貌の描写に目が留まった。先述した一般的評価とは一線を画す特異な存在であると享受した。この作品について先行研究は少ない。小磯芸術でどう評価され得るか。主題に何かしらメッセージが含まれないか。女性や母子に抱いた観想が像として投影されていないか。この思弁的なアプローチによる考察は早急であろう。先ずは小磯の画業、特に油彩画に対する志向性の読解から始めたい。
 小磯は生涯、とりわけ油彩画について目指すべき方向性を持っていた。1928~30年にかけて西欧諸国を遊学し、実見した群像表現の獲得である。モニュメンタルな作品の制作、古代ギリシアの彫刻レリーフやルネサンス期の壁画への関心も加わり一層こだわりを強める。また、時代の趨勢が抽象画にある中具象画に固執し、「自分独特の表現は発明できないかも知れぬが、洋流の伝承を十分咀嚼して我邦に植え付けるだけで自分の任務は沢山」と、日本洋画に欠けると考えた西洋美術の基礎を根付かせたいとする使命感があった。敬愛したアングルやシャセリオーらが古典やルネサンスに倣い自身の画業を成し、またマティスやピカソらフォービスムやキュビスムなどの画家にも同様の傾向を認め、そこに西洋画の伝統を確信し、追体験するような姿勢を取った。そして作品を通して「洋流の伝承」を図ったといえよう。
 キリスト教絵画との関わりも看過できない。小磯自身プロテスタントであり、手掛けた「母子像」にはキリスト教絵画の図像、例えばピエロ・デッラ・フランチェスカなどのイタリア・ルネサンス美術への関心とその研究成果が窺われる。
 ここで『母子群像』が制作された1950年代に注目したい。後進の指導として東京藝術大学の教授職に就き、制作面では『働く人びと』(1953)など群像表現による絵画が多く制作され、「母子像」の描き込みが顕著である。一方「ずっと具象ばかりやってきたが、いつも甘ったるい自分がいやで、心のどこかで自分がかわりたいという気持を持っていた」とも回顧し、変容を望む態度を窺わせる。日本洋画界での使命感、芸術性への不変と変容の狭間で揺れる葛藤の時期にあったといえよう。
 本発表では、以上を踏まえ『母子群像』の分析を試みる。その上で残された主題の解釈、再評価への可能性を提示したい。


D-3 川野 惠子(東京大学)

ニジンスキー振付≪牧神の午後≫とキュビスム

 ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の名舞踊手であり、同時に振付家でもあったヴァスラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky,1890 - 1950)は、1912年に≪牧神の午後≫を発表した。記録メディアの発達する以前における舞踊作品の振付は、上演されたと同時に消滅し、楽譜のような確固とした記録媒体を持たないため、その研究には舞台美術や台本が大きな役割を持つ。≪牧神の午後≫の研究史も例外ではなく、考察の対象が舞台美術なのか振付なのか、やや不明確なままに論じられてきた。すなわち、この作品の振付はかねてから、その成立契機として、原作であるマラルメの詩とバクストによる舞台美術に共通して取り上げられた古典古代のギリシア芸術との関連が言及されてきた。≪牧神の午後≫の制作時期にバクストがルーブル美術館でギリシア芸術のコレクションを見たという証言があり、近年ではJ=M.ネクトゥーによって、制作の参考にしたと推定されるギリシアの壺絵(前4世紀、ルーブル美術館蔵)の存在も指摘されている。
 現存するバクストの舞台美術画や衣装を参照すると、たしかにこの作品の題材や舞台美術が古代ギリシアの壺絵の場面設定に接近していることは認めてよい。しかし、振付と壺絵の人間表現には重要な差異が存在する。古代ギリシアの壺絵に描かれた人物像は、自然主義表現の完成期以前の作品ゆえ、≪牧神の午後≫の身体と同様に肢体を平面的に結合しているとはいえ、丸みを帯びた肉付け表現により、紛れもなく自然主義表現への志向を示し、また頭部・胴体部・脚部をなだらかに連結しており、身体の分節に不自然なねじれはない。しかし≪牧神の午後≫の身体は明らかに、そうした分節の有機性を放棄している。なぜなら、頭部と脚部は横の側面を、胴体部は正面を観客席に向け、その胴体には、壺絵の人体の分節には認められない不自然なねじれが付与されている。
 こうした特異な分節表現に着目すると、ニジンスキーの振付に古代ギリシア芸術の影響を指摘するのは適当ではない。発表者はこの点に関して、この作品の振付が上演当時「キュビスムの身振り」と批評された事実、およびニジンスキー自身も言及した「キュビスム」絵画との関係をあらためて振付解釈の手がかりとする。従来のニジンスキー研究は、「キュビスム」を同時代の前衛的な表現を示唆するクリシェーとみなし、身体のポーズやムーブメントの平面性や幾何学性を漠然と指摘するにとどまるが、より深い解釈が可能なのである。
 そこで、≪牧神の午後≫の振付とキュビスムの絵画を比較検討しよう。すると、振付のキュビスム的な特徴として、個々のダンサーの動きとフォーメーションについて、五点の特徴を指摘できる。つまり、平面性、反自然主義、多視点性、地と図の崩壊、舞踊構成要素である動きと線の独立である。とすれば、≪牧神の午後≫の振付は、ダンス・クラシックを拒否し、身体そのもの、あるいはポーズとムーブメントの関係を、生命的な統一体としてではなく、あえて積極的に、ねじれや断片の接合として提示する試みにほかならない。キュビスムの実験を洞察したその革新的振付は、舞踊に近代革命をもたらす重要な契機となったのである。


D-4 清野 則正(名古屋市立大学)

コラボレーション・アートにおける媒介概念について

 現代アートの中で、現代音楽、コンテンポラリーダンス、映像といった各ジャンルの壁を超えた共同創作による芸術表現は、昨今、コラボレーション・アートという表現形式として新しい地平を切り開きつつある。ダムタイプに代表されるような、音楽、映像、身体表現など多分野による集団創作は、複雑かつ緻密に何層にもわたって重ねられたプリズムのような芸術表現と言うことができるのであり、集団的に「一つの作品」を作りあげていく過程において創作者たちは,互いの創造活動に鑑賞者として接しながら自らも創造していく、という特別な状況に置かれる。今回の発表では、コラボレーションによる創造プロセスに関して、この複雑な表現形式に先立って眼前の空間で起こっている各ジャンルの主張や討論やかけひきといった、創造者間の関係性を美学的課題として取り上げて考察する。
 幾人かのアーティストが同一のテーマやコンセプトを通して、ある種拡散している芸術表現の内側において各表現形式を収束させ、コラボレーションを成立させると考えるのであれば、「多数のアーティスト→作品→鑑賞者、受容者」という、今までの個人のアーティストの作品を前にしての鑑賞と受容という絶対的な前提が崩れ、アーティストもまた鑑賞・受容する主体となる。そして、作品が成立するその前の各芸術的表現や各アーティストたちの関係性が顕在化する地点がコラボレーションなのではないかと仮定できる。
 それでは、私たちの眼前で起きているコラボレーションによるアートとしての実践とはいったいどのようなものなのか。この問題に対して一つの指標となるのは、ニコス・パパステジアディスが、〈The Global Need for Collaboration〉の中で、現代アートの役割を「ある種の媒介の形」として特徴づけたことである。彼の言う媒介は、すなわち作品そのものである。彼にとってコラボレーションにおけるアートの実践とは媒介のプリズムを通して制作のプロセスを再認識することだった。より具体的に言えば、コラボレーション・アート、もしくは「一つの作品」として存在する空間の諸芸術の表現形式の関係性を分解、再構築することにより、コラボレーションの関係性が明確になるということである。また、ジル・ドゥルーズは別の視点から、媒介の主な目的は、事物の流れを変えずに、過去の封鎖的な事物を捉え、新しいルートを見つけることに重点を置くことだと主張した。彼によると、作品という芸術的媒介は、不確定な場所に生じるものであり、そこでは鑑賞者も創造者も自分自身の物語を構築させると結論づけることができるとしている。
 本発表ではこの媒介という概念と、テオドール・W・アドルノの媒介との関係を考慮し、現代までの媒介の概念の変遷を辿ることで、コラボレーション・アートの芸術表現形式とアーティストたちの関係性を明らかにしてゆく。


会場E. 音楽


E-1 柴田 康太郎(東京大学)

1960年代の武満徹による映画音楽のあり方

 本発表は、武満徹(1930-96)の映画音楽について1960年代に限定して考察することにする。ここで「映画音楽」というのは、いわゆる楽器による「音楽」のみならず、場合によってはセリフや効果音など映画の音響全体に関わるものだが、やはり武満にとっては「音楽」として創作がなされていたと思われるからである。さて、97本の映画作品に参加していることからも明らかなように、映画音楽の創作は、武満の創作活動の中でも重要な位置を占めていた。しかしながら、武満徹研究において、映画音楽は注目を集め始めてはいるものの、具体的に映像と音楽の関わりを考察した研究は少ない。それは映画音楽の研究自体がもつ困難のためでもあったが、ここでは近年のミシェル・シオンやリック・アルトマンらの用いた分析の枠組みを援用して考察する。
 60年代には芸術の前衛、芸術の刷新が模索され、大きな盛り上がりをみせたが、映画界でも5大映画会社的なものを商業的として距離を取る動きが見られた。実際この時期の若手作家には、大手映画会社の創作環境を制約の多いものと反発し、独立プロで制作する者も多かった。武満もまた映画会社から距離をとりつつ制作を行った映画作家と映画を作ることが多かったが、それも映画音楽において多様な試みを目指したからだともいえる。武満が映画音楽について、しばしば「いかに映像から音を削るか」ということの重要性を語ったことも、単に武満にとっての映画音楽の創作が、音楽や音楽によって映像を演出する音の付加作業と、映像から想定しうる音楽が十分である場合には、サウンド・トラックから音楽を削る音の捨象作業との2側面を持つものだったことを示すだけでなく、かつての5大映画社的な音楽への反発とも位置づけられよう。このような意識を受けて、先行研究も実験的な表現の多い独立プロの作品に注目されることが多かった。
 だが、武満は50年代後半から松竹の中村登の作品に多数関わっていたし、60年代に入ってからもメロドラマのような作品を含め、より実験的でない作品にも関わっていた。また、武満にとってこの時期は、羽仁進との仕事で撮影段階から映画に関わる経験を経て、50年代とは異なるかたちで映画への関わりを本格化させた時期でもあった。この意味で、武満にとっての60年代は単に映画音楽においての前衛であったということでは捉えられず、むしろ武満徹の映画音楽を武満の創作の中で位置づけるためには、実験的な映画に限らず広い視野において武満の創作を捉えなおさなければならない。これまでも、同じ60年代の独立プロの映像につけた音楽と、プリペアド・ピアノを含めた楽器の選択や音楽のテクスチャーについても近いことや、その音楽を入れるタイミングについても同じような効果を持ったものもあることが指摘されている。そこで本発表では、武満徹の1960年代における映画音楽の創作活動を、実験的な映画に限らず考察するため、映像からどのように音が削られており、またどのような音がいかに付加されているかという観点から、具体的な映画作品を分析して考察する。


E-2 福地 勝美(成城大学)

セシリア運動に及ぼしたE. T. A. ホフマンの影響について
――A. J. ティボーとの関連を通して――

 セシリア(チェチーリア)運動は、19世紀の南ドイツ、レーゲンスブルクを中心に起こった教会音楽改革運動で、1820年代に始まり、1868年、F. X. ヴィットによるAllgemeiner deutscher Cäcilien-Verein(全ドイツ・セシリア協会)創立時に最盛期を迎えた。本発表は、この時期のセシリア運動に見られるホフマンの影響を論じる。
 セシリア主義者は、16世紀のア・カペラやパレストリーナ風の教会音楽を理想とし、パレストリーナに倣った作品を制作した。彼らの主張は、一般に、1825年に出版されたティボーの著書『音芸術の純粋性について』に依拠するところが大きいとされている。それより前にホフマンも同様のことを論じているにも拘わらず、セシリア運動に対するホフマンの影響を考察した先行研究は少ない。ホフマンは、1814年にライプツィヒの「一般音楽新聞」に寄稿したエッセイ「新旧の教会音楽」の中で、「現代」の教会音楽は世俗化と啓蒙主義により軽薄化していると憂え、パレストリーナ再評価を唱えた。だが、彼は、同時に「(器楽を知った)現代の作曲家には、パレストリーナ風の音楽を作ることはできない」と述べており、単純なパレストリーナ復興運動とはその点で一線を画している。実際、ホフマンの言から半世紀以上後に、セシリア主義者たちが量産したパレストリーナ風の教会音楽作品は、「(単なる)パレストリーナの模倣」と多くの評者から斥けられた。
 ホフマンのセシリア主義者への影響は、パレストリーナについてのみならず、広くア・カペラという音楽形式についても指摘できる。ホフマンは、教会音楽におけるア・カペラに関して複雑な態度をとった。彼は、器楽音楽優位を標榜しながら、1808年にア・カペラの《6 Canzoni per 4voci 》を創ったが、その翌年には一転して、大規模な管弦楽伴奏付き《ミゼレーレ》を作曲した。一方、セシリア主義者たちは、ア・カペラ重視を唱えながら、自ら「器楽伴奏付き教会音楽」を制作するという矛盾した行動を取っていた。このように、セシリア運動の実態からは、これまで考えられてきたようなティボーの主張ばかりでなく、ホフマンとの類似性が窺える。
 発表者は、かつて別の機会に、セシリア運動がこの種の運動として異例の長続きをした理由の一つとして、運動の実践面で、硬直的でなく弾力的な対応がされていたことを指摘したが、ア・カペラへの対応も、その一例といえる。本発表では、最盛期のセシリア運動が、(彼らが意識していたか否かは別として)、ホフマンの思想の影響を受けていたことを究明し、セシリア運動に関する新しい視点を提示したい。


E-3 中川 航(東京大学)

チェルニーの『ピアノ教本』における「正しい」演奏とテンポ

 1839年に出版されたC.チェルニーの『完全なる理論的・実践的ピアノ教本』(Op.500)は、全3巻と補遺の合わせて4巻からなり、これまでさまざまな角度から検証されてきた。とりわけ第3巻「演奏について」は、単なる入門書や技法書の域を超え、当時の、あるいはチェルニー自身の演奏様式ないしは演奏美学を知ることができる一級の資料としての価値を有する。また、補遺にあたる第4巻「古今のピアノ曲の演奏の技法」で詳細に語られているベートーヴェンの演奏論も、ベートーヴェンの演奏史を語る上で欠かすことのできない資料である。
 さて、チェルニーはその演奏理論において、 何よりもまず「正確さ」を重視していた。それはテンポについても例外ではなく、楽曲の「性格」は「正しい」テンポ選択によって決定される、という彼のテーゼの中に確認することができる。このようなチェルニーのテンポに対する姿勢は、当時一般的になりつつあったメトロノームの存在とも密接にかかわっている。1817年に開発されたメルツェルのメトロノームは、同時期に雨後の筍のごとくあらわれた競合機器が淘汰されてゆくなかで、1840年頃にはかなり広く受容されるようになっていた。もちろんチェルニーもメトロノームの有用性を認識し、『ピアノ教本』においてその適切な使用法について非常に細かく記述している。そこで示されているのは、単なるテンポを指示する器械としての使用法だけではなく、学習者や未熟な演奏家のための補助機器としての活用法である。
 例えば、「アッチェランドやリタルダンドといった演奏表現を加える前に、メトロノームに機械的に合わせて弾けるように練習するべし」というチェルニーの助言は、当時のいわゆる「イン・テンポ」な演奏が、決して機械的なものではなかったことを指し示すとともに、リタルダンドやアッチェランドなど速度の変化を加えるべき場所やその方法を示した「速度の変化について」の項目とも呼応し、楽節に内在するテンポ変動、いわゆる「アゴーギク」の概念を先取していたとも言える。もちろんここでも「正しい」速度変化のあり方が言及されていることは言うまでもない。
 ピアニストというよりは有能なピアノ教師であったチェルニーは、自身のメソッドの集大成としてまとめた『ピアノ教本』のなかで、音楽演奏におけるテンポのありかたをどのように捉えていたのだろうか。メトロノームという機器の存在と、メトロノームが刻む正確なビートが、チェルニーが示そうとしていた「正しい」演奏の姿にどのように関与していたのかについて検討を加えることは、同時代(18世紀後半から19世紀半ばにかけて)の音楽演奏におけるテンポに対する考え方を再度捉え直す足がかりとなるだろう。


E-4 黒田 育世(東京大学)

ヴィクトリア朝英国の音楽リテラシー
:シューベルト受容の背景として

 19世紀ヴィクトリア朝時代の英国におけるフランツ・シューベルトの音楽の受容は、初期の交響曲の世界初演がシデナムのクリスタル・パレスで行われたことからもわかるように、重要な考察の対象である。今日も音楽事典にその名を冠するジョージ・グローヴの活動とアウグスト・マンズの指揮による功績が大きいシューベルトの音楽の普及は、重要であると同時に興味深い現象でもある。広く一般に受容されると同時に、シューベルトの音楽は形式感の欠如、伝統から「逸脱」した和声進行など、批判の対象でもあったからである。本発表はそれらの現象について議論するうえでの背景、すなわち19世紀英国における音楽のリテラシーについての考察を目的とする。形式や和声に関する批判が存在するのは、当時の英国における音楽リテラシーが、それらを可能にするものだったからである。同時代の大陸と同様、英国においてもピアノの普及、合唱への熱意の高まり、公開コンサートの増加などにより、人々の音楽リテラシーは変動の時期を迎えつつあった。当時の演奏会のプログラムノート(公開コンサートと共に発展を遂げた)に見られる詳細な、ほとんど機械的なまでの楽曲分析、および音楽新聞The Musical Times における、シューベルトの新しく出版されたピアノ曲の紹介で、簡単な和声分析が付されている(広告の性格が強いにもかかわらず)事例などからもわかるように、当時、教養のある市民であれば、楽譜が読めることはもとより、機能和声に基づく楽曲分析をも理解できることが求められた。このような音楽リテラシーの普及は、人々の音楽の受容への熱意を増大させるものであったが、同時に規範からの逸脱を批判する背景でもありえたと思われる。ここで言う規範とは楽曲の形式、和声進行を主に指すが、それらを体現する作曲家として、可視的にも、不可視的にもベートーヴェンの存在があることは否定できない。シューベルトの生前から(当時はウィーンの音楽界において)存在した「ベートーヴェン/シューベルト二元論」が、ここでも健在であることがわかる。しかし、音楽リテラシーの普及が、「形式感のあるベートーヴェン/形式感のないシューベルト」という図式を語ることに、さらなる具体的な説得力を与えたように思われる。当時の音楽リテラシーにおいて何が「規範的」でありえたのかを考察することで、シューベルトの音楽が批判される素地がヴィクトリア朝英国に用意されていたことをあきらかにしたい。


会場F. 映像論


F-1 レア・アミット(東京芸術大学)

映画における暴力
――マゾヒズムの美学を巡って――

 本発表では、映画で暴力を観ることは不快であるにも関わらず、同時にそれを観ることを望むという場合があることを述べてみたい。私は、こうした独特な美的経験は一般のマゾヒズムとは区別される「美的なマゾヒズム」の経験として扱えるのではないかと考える。
 グレゴリー・カリーによれは、映画を観るには、想像力を必要であると言う。この説に従ってみてみれば、まず観客は観たシーンが一貫したものであると想像しようとする。例えば、ある俳優がある部屋から出かけ、そして次の場面で彼が別の場所にいるというシーンから、我々は、彼が最初の場所から次の場所へ車で移動した、と想像する。そして映画のようなフィクションの経験にはこのような「空所」を埋める想像力のほかに、より本質的な形での想像力が関与している。観客はそれが虚構であると知りつつ、あたかも現実であるかのように想像しながら見ている。いわゆる「不信の宙づり(suspension of disbelief)」によって虚構の内容を現実と信じることがなければ、虚構の世界の面白さは失われるだろう。しかも映画映像は現実世界を模倣するという点で優れているため、他のどの表現媒体よりもたやすく、観客たちにフィクションであると知りながら、それをリアルなものと想像させることができる。
 認知心理学の研究によれば、映画の観客が暴力シーンを現実として想像してみるとき、観客の反応は肯定的ではなく、強い不快を感じている。だがそれらの研究では、こういう不快の経験をなぜ観客があえて見たいと望むのかは明らかではない。
 故意にスクリーン上に暴力の描写を求めることの説明として, しばしばあげられるのが、映画学者であるスティーヴン・プリンスやローラ・マルヴィによって述べられるサディズム説である。すなわち、他の人々の肉体的苦痛を楽しむ変態性欲である。しかし、スクリーン上に描かれている暴力行為は現実にはもちろん、想像でも関与するわけがないため、サディズム説は信じがたい。より理解しやすい説明は、マゾヒズム説である。
 ジル・ドゥルーズはその『マゾッホとサド』で、マゾヒズムとサディズムを全く違うものとしている。サディストは痛みを受けたくない人を痛めつけたいのであるが、マゾヒストは愛する人によって苦しめられたいか、少なくとも、自分を苦しませたい人からは痛みを受けたくないとドゥルーズは主張する。マゾヒストはこの関係のイニシャティブをとる主体なのである。この考えに従うならば、想像された現実の中で不快な経験をさせる映画の暴力シーンに対する関係をコントロールするのは観客である。そして、マゾヒストがそうであるように、観客の現実の安全も確保されている。この「疑似マゾヒズム的関係」のなかで観客は、自分にとって不快で苦痛をもたらす場面をも、進んで引き受け望むのである。いわゆる「悲劇の快」と同質のものと言えよう。


F-2 真部 佳織(神戸大学)

「コンポラ写真」とメディア

 本発表は、1970年代前後に日本写真史においてみられた一傾向である「コンポラ写真」と制作・発表メディアとの関係を再考することを目的とする。従来、1970年代前後に写真雑誌や写真集において作品を発表し始めた若手写真家の活動は、『プロヴォーク』とコンポラ写真の二項対立を軸として語られてきた。すなわち、「アレ・ブレ・ボケ」という戦略的な様式を用いた『プロヴォーク』と、日常をありのままに、あるいは冷笑的に捉えた「コンポラ写真」とが対をなしており、その周辺に「私」や「旅」を被写体とする「私写真」の萌芽が見られるという語り方である。しかしこうした分析は、表現様式における両者の差異を強調するに留まっている。
 そこで、本発表では、両者と同時期に活動していた若手写真家たちを含め、1970年代前後の若手写真家の活動を、制作・発表メディアを軸として捉え直したい。なぜなら、彼らは従来のアマチュア写真家が拠りどころとしていた撮影技術の向上を志向するのみならず、制作から展示、編集、流通にまで関わっていたからである。その際、メディアとして機能したのは[1]自主運営ギャラリー、自費出版[2]写真学校、写真教育[3]写真雑誌である。具体的な事例としては、1968年11月、中平卓馬、多木浩二らを中心として『プロヴォーク』が創刊され、1971年には、「コンポラ写真」の特徴とされる写真集の自費出版が話題となる。また1974年には写真家による自主ゼミ「WORK SHOP」が開催され、その後70年代半ばから新たに自主運営ギャラリーが創設される。つまり、これらの制作・発表メディアは、制作における既存の表現形式や、既にその内部にヒエラルキーを形成していた発表メディアを無効化するという目的のために機能したといえる。
 しかし、既存の表現様式が袋小路に陥っていた1960年代後半において、その現状に反発していた『プロヴォーク』が結局は表現様式として受容され、コマーシャルフォトの領域で消費された。また、こうしたメディアにおける実践は、1980年代には既存の制作・発表メディアにほぼ回収され、「コンポラ写真」も同時に写真史の主流からは顧みられなくなっていた。こうした背景を加味しながら、1970年代に隆盛した「コンポラ写真」とその周辺の実践にとって、各メディアがいかに機能したかを再考することが本発表の目的である。


F-3 逢坂 文哉(大阪大学)

『浮雲』における成瀬巳喜男の演出

 成瀬巳喜男は1930年に松竹でデビューし、1934年に東宝の前身であるPCLに移籍、その後1969年にこの世を去るまで、東宝を中心に活動した映画監督である。成瀬は日本映画の二つの黄金期とされる1930年代と1950年代に名作を数多く残し、しばしば日本映画の絶頂期を支えた監督の一人であると映画史上で語られる。
 1955年に東宝で製作された『浮雲』は、同年のキネマ旬報ベストテンの第一位に選出されており、成瀬の監督作品の中でも最も知名度の高い作品だと言える。成瀬の所謂「代表作」である本作は、1950年代に名作を数多く生み出してきた所謂「成瀬組」(撮影・玉井正夫、照明・石井長四郎、美術・中古智)や脚本家・水木洋子との仕事を語る上でも、1951年の『めし』から続く成瀬の「林芙美子原作もの」を語る上でも、最も重要な作品として挙げられることが多い。公開当時の批評雑誌の評価や作品の知名度だけで成瀬の作品群における『浮雲』の重要性を決めることは早計だが、多くの人がこの作品に高い評価が与えている以上、1950年代の成瀬を語る場合、『浮雲』を避けて通ることはできない。
 本発表の目的は、成瀬の「代表作」である『浮雲』を再考することにある。成瀬は撮影所のシステムの枠の中で映画を取り続けた監督であった。したがって、成瀬に作品の主題や原作とする小説の決定権が全面的に委ねられていたとは言い難い。また、成瀬が多くの場合、俳優に細かな演技指導を行わなかったことも知られている。成瀬の関心と製作者や脚本家の関心、あるいは成瀬の演出と俳優の表現の混同を回避するために最も有効なのは、脚本とそれに基づく映像表現を相互に参照しながら、作品分析を進めていくことだと言えよう。そこから製作者および脚本家とは別の、成瀬自身の演出意図を浮かびあがらせることができるだろう。
 ことに、登場人物の視線を成瀬がどう把えているかに着目したい。『浮雲』の大部分を占めるのは、森雅之と高峰秀子、二人の主演俳優が演じる男女の会話のシーンだ。成瀬は、固定カメラによる複数のカットを用いてこれらの会話シーンを構成している。アングルやショットサイズの異なる短いカットでシーンを組み立てることによって、俳優の表情の微妙な変化を捉えるだけではなく、登場人物が何に目を向け、何から目をそらしているのかを印象づけていくのである。こうしたカット構成によってなされる登場人物の視線に関する演出を基点に考察を進めれば、俳優の演技をもとにしながらも、成瀬の演出がどこに狙いを定めているかが明瞭になるだろう。本発表においては、『浮雲』の物語全体を見つめているのは誰なのか、すなわち成瀬がこの作品の視点をどこに置いているのかを導き出していきたい。そうすれば、成瀬巳喜男の監督作品としての『浮雲』の魅力が解き明かされ、監督・成瀬像の一端が明らかになるはずだ。


F-4 木村 智哉(千葉大学)

1960年前後の日本におけるアニメーションの変革と相克

 本発表では、日本における1950年代半ばから60年代末までの時期を主たる対象とし、この時期に起こったアニメーション制作の状況と表現との変革について論ずる。
 近年の研究では、当時本格的に日本でのアニメーション製作の現場へ導入されていった動画の簡略化を、経済的制約の観点からだけでなく、新たな映像表現の開発として再評価する議論が見られるようになってきた。だがこれらの研究には問題も見受けられる。一つは、現在までの歴史的展開を「発展」や「成功」のそれとみなす視点により、しばしば簡略化の肯定的側面を論ずることが、あらかじめの前提とされているかに思える点である。また今一つは、動画の簡略化が新たな表現技法であることを根拠として、他の時代や地域に於ける同様の技法を同一の評価軸で扱う傾向が見られることである。しかし、本来あらゆる表現技法が伴う特定の歴史的・社会的な文脈への注目を欠いた評価と普遍化は、かえってその表現が持ち得た歴史的可能性の追求を阻害するのではないだろうか。
 発表者は、こうした近年の研究動向に対し、前述の期間を対象として、必ずしもアニメーションの領域のみに留まらない、一連の文化現象の思想的潮流を探っていく。
 第一に、当時における新たな映像表現への注目について論ずる。具体的には「実験工房」など新進の芸術家達による映像作品制作の実践、大手映画産業の衰退と、その内外での革新の萌芽、そしてテレビという新媒体における特有の表現の追及といった動向である。
 また第二に、当時の日本の制作者たちに影響を与えた海外アニメーション作品の諸特徴について論ずる。50年代初頭から国内公開が開始される一連のディズニー長編作品、そして、やや遅れてそれとは異なるスタイルを提起していった『やぶにらみの暴君』や『線と色の即興詩』、アメリカ製の各種テレビ作品など、多岐に渡る作品群がこれに当たる。
 以上の二点を踏まえて第三に、当時次々に国内で設立されていった新たなアニメーション製作スタジオと、それに対抗する個人作家たちとの動向について論ずる。ここで対象とするのは、最大手の企業である東映動画、手塚治虫の虫プロダクションなどの中小規模のスタジオ、そして草月アートセンターでの「アニメーション三人の会」の活動などである。これら複数の場での取り組みは、全体として、大資本を投入した長編アニメーション特有の映像表現から、少人数でも制作可能な簡略化された表現への移行を促すものであった。だがこの動画の簡略化は、経済的な合理性という側面をも伴っていたため、むしろ新旧の映像産業の側によっても積極的に取り込まれていくことになる。
 本発表は、こうした新たな表現の追及、そしてその秩序への取り込みと意味の変容、また、その中での制作者たち各々の企図と葛藤について、相互連関的に考察するものである。



若手フォーラム募集要項
募集は締め切らせていただきました。

第60回美学会全国大会では、当番校企画として「若手フォーラム」を行います。この「フォーラム」は大学院修士課程以上の若手研究者に、研究発表の機会を提供するための企画です。発表を希望される方は、下記の要領を熟読の上、申し込み手続きをとって下さいますよう、よろしくお願いいたします。


■日時: 2009年10月11日(日)午前
■場所: 東京大学法文一号館
■発表時間: 20分 質疑応答10分
参加資格: 原則として大学院修士課程以上の美学会会員のみとさせていただきます。ただし、学会への入会手続きが完了していない方も、美学会に入会申込書を提出し、今年度6月6日の委員会において入会承認を得られれば、申し込むことができます(入会手続きの詳細は以下のURLをご参照ください http://wwwsoc.nii.ac.jp/bigaku/nyukai.htm)。
申し込まれた発表希望者のうちから、第60回美学会全国大会実行委員会が発表要旨を査読した上で、発表者を決定します。ただし発表が認められた場合も、7月末のプログラム作成時までに会費納入を終え、入会手続きを完了しなければ、自動的に発表の権利を失いますので、ご注意ください。
■申込方法: 以下の項目を明記した書類を第60回美学会全国大会実行委員会若手フォーラム係(wakathetics@gmail.com)まで、メールでお送りください。
  • 1.ご氏名
  • 2.部会
  • 3.ご所属
  • 4.発表題目
  • 5.発表要旨(1200字程度。Word形式の場合はXP対応のフォーマットで( .docで)お送りください)
  • 6.使用機器(DVD・コンピュータなど)
  • 7.連絡先住所・電話番号・メールアドレス
なお、申し込み後の発表題目の変更・発表のキャンセル等には、十分に対応できない場合もございますので、ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
■申込期限: 2009年6月30日(火)


問い合わせ先
〒113-0033 東京都本郷7-3-1
東京大学大学院人文社会研究科美学芸術学研究室
第60回美学会全国大会実行委員会若手フォーラム係
MAIL: wakathetics@gmail.com
FAX: 03-5841-8958

何かご不明な点がある場合は、第60回美学会全国大会実行委員会若手フォーラム係(wakathetics@gmail.com)までお問い合わせください。