『ボーイズ・ドント・クライ』,あるいは,ヘイトクライムのこと

 

 若い友人からの勧めで,映画『ボーイズ・ドント・クライ』を見た.心は男だが体は女であるという性同一性障害(TG)の人間に対するヘイトクライム事件(実話)を扱った作品だ(ヘイトクライムは「憎悪に基づく罪」と訳されることが多いが,定訳はないようだ.私としては「憎悪の罪」と訳したいところなのだが).

 ジーンズにカウボーイ・ハットの主人公ブランドンが,フォールズ・シティという町にやってくる.「彼」は町の女たちの憧れとなり,そしてラナという女性と恋に陥る.万事うまくいっているかに見えた.しかし,とある事件から,「彼」が法律的には女性であることが判明する.ブランドンとラナとの恋愛関係は維持されるが,「彼」は他の人びとの憎悪の対象となってしまう.「彼」は,ならずものたちによってレイプされ,そして,最後には惨殺されてしまう.

 この映画は,アカデミー賞を受賞し,概して,ジャーナリズムの間での評価も高い.しかし私は,映画それ自体には,正直なところ,あまり満足することができなかった.もう少し登場人物たちの心理的葛藤を描写してくれたらよかったと思う.TGの「女性」と恋に陥った女性ラナは,相手が生物学的な意味では女であることを知り,最初は驚くが,やがてそれを受け入れていく.しかし,その心理的な変化の過程が妙に予定調和的に見えてしまうのだ.

 また,この映画のなかで,ヘイトクライムを引き起こした男たちは,いかにも悪者だという描かれ方をしている.これでは,善良な市民がその善意にもかかわらず,偏見と差別を生み出してしまう,といった,この種の犯罪の背景に存在するメカニズムを浮かび上がらせることができないのではないだろうか.私たちは,この事件の結末を,この人間ならやりそうなことだと納得してしまいがちだ.ヘイトクライムが,生まれつきの悪人たちの引き起こす例外的な犯罪とへと横滑りしてしまう可能性がある.

 しかし,ここで扱われているテーマ(TGに対するヘイトクライム)は,映画それ自体を離れて私に重くのしかかる.とくに結末はやりきれないという感じで,映画を見終わったあと,しばらく呆然としていた.

 日本でも,一昨年,埼玉医大での性転換手術第1号が報道され,TGに対する理解は深まったかにみえる.しかし,まだ,TGとホモ・セクシュアリティを混同している人は多いだろう.その点で,この映画をみることの意味は大きいと思う.

 また,日本社会では,まだヘイトクライムに対する認識はまだ足りない.そもそも新聞記事でヘイトクライムが取り上げられることは少ないし,取り上げられる場合でも,それらは人種的偏見にもとづくヘイトクライムである場合がほとんどである.TGに限らず,セクシュアリティに由来するヘイトクライムが,問題として認識されることは非常に少ない.この点でも,この映画の先見性はあると思う.

 ヘイトクライムは,アメリカの問題だと考えられがちだが,昨年,ロンドンを訪れたとき,警察のガラス窓にヘイトクラムに関する大きなポスターが貼ってあるのを発見したことがあった.このコラムでも一度紹介したことがあるが,そこには,ヘイトクライムの例として,人種差別とならんで,家庭内暴力(domestic violence)やホモフォビア(homophobic crime)などが記されていた.

 この種の問題の社会問題としての構築には,アメリカと日本では10年くらいのタイムラグが存在する,というのが最近の私の臆見である.児童虐待や老人虐待などがそうだった.となると,日本社会でヘイトクライムが一般的な社会問題として認識されるのは2010年頃ということになってしまう.この予想が外れることを願うのではあるのだが.

[2000/8/18]

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