イギリス点描

 3年ぶりに訪れたイギリスからの帰国の飛行機のなかで書いている.『ノッティングヒルの恋人』の機内上映を楽しみにしていたら,僕の席だけビデオが故障していて,見ることができないのだ(『踊る大捜査線』を見終わったところで機械がダウンしてしまった).

 イギリスは日本人にとって特別な存在だ.このことは『先進諸国の社会保障1 イギリス』のあとがきのなかにも,加藤周一と中村真一郎の例を引きながら記した.これは明治の文明開化以来の日本人のアングロマニーの所産だ.丸の内のビル街や学校建築をはじめとして,視覚をとおして,現代の日本人の日常生活のなかにもイギリスは入り込んでいる.

 しかし最近,もう少し別の理由から,イギリスは日本人にとって特別な国だと思うようになった.

 80年代の奢れる日本人は,すでに欧米諸国のcatch upは終わっただとか,日本は欧米とはまったく異なった社会構造だとか,日本的経営はすばらしいだとか,というということをしきりに語っていた.もちろん国によって文化や社会構造が異なることは否定するつもりはないのだが,社会学や社会政策を勉強している人間の目から見ると,いまの日本で起こっていることは,経済的なことはともかく社会的なことに関しては,どうも過去に欧米で生じたことの繰り返しのように思われて仕方がない.時間差はいろいろだと思うが,家族の変化や社会政策の動きなどを見ていると,とくにそう感じることが多い.テレビドラマのなかで描かれるようになった,ポストモダン的な家族像などはまさにそうであろうし,高齢者介護をめぐる社会サービスの動きなどもまさにそのとおりだ.単線的進化論を主張するつもりはないのだが,類似の方が目について仕方がない.

 となると,ヨーロッパやアメリカを見ることは何年か先に日本を見ることになるわけだが,この点からいって,イギリスは日本にとって特別な存在だ.スウェーデンの社会構造や社会政策は,僕らにとって,とてもまねのできないくらい,まぶしい存在だ.とくに理屈がとおるということは,すばらしいことだと思う.また,アメリカ社会というものも,日本社会にくらべてかなり先をいっているような気がする.ADA法や定年制における年齢差別禁止などのラディカリズム.もし日本社会がそこまでたどりつくことがあるとしても相当先のことだろう.その点,イギリスは日本人にとって安心できる存在だ.社会政策のなかでも分野によって異なるが,障害者や高齢者に対する社会サービスでもイギリスが数歩先を歩んでいることはまちがいない.住宅ではさらに進んでいるかもしれない.スウェーデンやアメリカほどではないがイギリスの家族も大きく変化している.しかし,イギリスの場合,日本とあまりかけ離れすぎているということがないので,安心してそこから学ぶことができるし,明日は我が身として彼の社会を観察することができる.明治時代や第二次大戦の敗戦直後とは違った意味で,今日,イギリスは,日本にとって,また特別な存在となってきているのではないだろうか.

 今回の訪問はロンドンが中心だったが,印象深かったことが二つある.ひとつは,next millenniumへむけてのカウントダウンが始まっており,いくつかのモニュメントづくりがおこなわれていたことだ.日本人が「来るべき21世紀」というところを,こちらでは,かなりまえからnext millenniumという表現を用いているということは,「世紀末の詩」というコラムで書いたが,人びとはクリスマス以上に01.01.00という特別な日の到来を楽しみに待っているようだ.

 もうひとつは,数歩先を歩んでいると思われる公共広告の存在だ.ロンドンの地下鉄の駅では,企業の広告と並んで,かなり大きな公共広告のポスターが貼られている.今回目に付いたのは,レイシズム,老人虐待,ホモフォビアなどをたしなめるためのものが,かなりの場所を割いて貼られていたことだった.警察のガラス窓にも,racist crimeやdomestic violenceに関するポスターが貼られていた.それからポスターではないのだが,パブの男子トイレに入ったところ,赤ちゃんのおむつを取り替えるための台が設置されていたのを発見して,意表を突かれた.しかし,よく考えてみれば,当たり前のことだ.

 10年以内には,日本でもこの種のポスターが公共の場所で貼られるようになるだろうか.東京の居酒屋の男子トイレに乳児用のベッドが出現するようになるのは,いつごろのことだろうか.

[1999/9/29]

 

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