普遍論争の経過

  普遍論争 中世において普遍の存在性格をめぐって交わされた論争。

11-12世紀の論争のきっかけ

弁証学(論理学)が依拠する基本テキストの筆頭に位置するポルフュリオス『アリストテレスのカテゴリー論への序論(いわゆるエイサゴゲー)』は、その冒頭に、
「類や種(すなわち普遍)は実在するのか、それとも単に理解のうちに存在するのみなのか」
といった問題提起をしていた。

この著作のボエティウスによるラテン語訳および注解が西欧中世に伝えられていたが、はじめは特に注目されず、学者たちは事実上実在論の立場を受け容れていた。この問題をめぐる議論が起こったのは、11世紀後半になってからである。

音声言語論  議論の端緒は『(エ)イサゴゲー』はそもそも何について論じたものであるかをめぐって、〈もの〉(res)についてであるという見解に対して、〈音声・言葉〉(vox)についてであると主張し、〈音声言語論派〉(vocales)と呼ばれた人々が登場したことにある。

このような主張は『エイサゴゲー』への文法学的アプローチと密接に連関していると思われる。同著は5つの普遍------類、種、種差、固有性、付帯性------を扱うものであった。つまり「動物」といった類、「人間」「猫」などの種、「動物」の内で「人間」を他のものから差異化している「理性的」という種差、「笑い得る」という人間だけが持っている固有性、「白い」「教養がある」といった「人間」などが付帯的に帯びる性質としての付帯性が問題となるのである。ここで、動物とか人間等々のものについて論じているのだ、という考えとは別の考えが文法学をここに適用すると成り立ち得る。「動物」「人間」等々は「普通名詞」だからである。

「名詞は実体と性質を表示する」というのがプリスキアヌス文法学の名詞の説明であって、その立場から『エイサゴゲー』の5つの普遍(普通名詞)の性質について考えようとするのがこの立場であったと思われる。

このようなアプローチをする学者の中から、普遍はものの側には存在せず、ただ多くのものの名称として設置された音声言語であるに過ぎないという主張が結晶した(これがいわゆる初期唯名論)。 この立場の現在知られる代表的人物、ロスセリヌス(Roscelinus)は、普遍を〈音声の流れ〉(flatum vocis) と看做し、かつ「父と子が同一の実体であるとすると、子が受肉した時に、父も受肉したことになってしまう」といって三位一体論に異を唱えたとして、アンセルムスの批判を受けた。


アベラルドゥスの対決

実在論  音声言語論に対して、『(エ)イサゴゲー』は〈もの〉(res)について論じたものだとし、さらには、現実に実在するものは全て個物であることを認めたうえで、しかも普遍は何らかの意味でものの側に帰属するとするのが、音声言語論と対峙した〈実在論派〉(reales) である。アバェラルドゥスの対決相手であるシャンポーのグィレルムス(ギョーム)などがこれに属する(この立場は〈実念論〉と訳されることもあるが、当時の「ものか音声言語か」という議論の枠組みからして不適当)。普遍に関する実在論はいくつかに分類される。

〈質料としての存在者本体〉(essentia materialis)論  これは、例えば個々の人は同一の〈人〉を質料(材料)とし、これに個別の特徴である諸形相が加わって個別化しているのであるから、質料としての〈essentia=存在者本体〉である人そのものが、普遍という性格を帯びているとする。さらに人はひとつの動物という存在者本体を質料としてこれに固有の種差という形相が加わって種的存在となっているものである。こうしてどんどん遡っていくと、実体のカテゴリーについていえば、ついにはすべての個体は結局、実体というひとつの存在者本体を質料としているということになる(つまり存在者本体の数はカテゴリーの数だけになる)(LI 10-13)。シャンポーのギョームは、essentia materialis 論であったが、アバェラルドゥスに論破されて、次の無差異論になったとされる。

この論の背景にはより新プラトン主義の流出説に近い発想があると思われる。すなわち、ポルフュリオスの樹は、その梢から根へと実際に事物が生成してきた contractio の過程と解される。これによると animal rationale mortale は設計図ではなく、生成の過程のある点における存在者を本来指している(これは分かり易さのためちょっと言い過ぎているかもしれない)。contractio の過程は、より類的な存在者をmateria(質料、材料)として、これに differentia(種差)という形相が結び付いて、より種的な存在者になっていく過程であり、その過程はついには種という質料に個別の諸形相が付加して個物となるところにまで到達する、というものであった(ここで質料-形相という用語をこの文脈に即して理解していただきたい)。

この立場は、現実に存在するものはすべて個体であることを認める。そのうえで次のように考える。ここにミヤウチとオオシカという2つの個体がある。ここから2つを2つの個体たらしめている諸形相を取り去ってみるとしよう。するとそこに残るのは、普遍〈人〉として個体差のまったくないいわばのっぺらぼうの人そのものである。これはのっぺらぼうではあるが、すでに血や肉をもち、生きた存在者である。さてこののっぺらぼうの人は、2つの人そのものではなく、一つの人そのものであるという。こうした人そのものを essentiaといい、「ミヤウチとオオシカは essentiaとしては同一の人だ」ということになる。さらには、このお二人は馬のアオともessentia としては同一の動物なのである。云々。この立場は発想としては、蝋細工のようなことを考えていて、蝋のかたまりに形をつけていくことに、質料に形相が付加される過程をなぞらえている。いわばまだ色のつけられていない人型が材料としてあって、これに目鼻が書き込まれていくようなもの、といってもよいだろう。

〈無差異〉(indifferens)論   これは、個々の人から個別の諸形相を取り去る(ないし括弧にいれる)ときに残る存在者本体は同一の人ではなく、essentia として別々の、personaliterに異なる複数のものであるであるが、互いに全く差異がないというその意味で(indifferenter)同一であって、普遍の性格をもつとするものである(LI 13-16)。つまり、遡った場合、個体の数とおなじだけのいわば裸の実体(それ以上の形のない)が存在者本体としてあることになる。これは質料=存在者本体論をちょっと改訂しただけのようにも見えるが、よくつきつめてみると、相当違う。はじめから実体は個体の数と同じだけあるが、indifferensだということになる。個別の差異は、個的形相の付加においてでてくる。

無差異論はさらに、人間の集合を人という種だとする説(集合説)と、人である限りのソクラテスとソクラテスである限りのソクラテスとを区別して前者を普遍とする説(同一説)とに分かれる。後者からすると諸個人は〈人〉という(普遍的)ものにおいて互いに一致するということになる。

唯名論  アバェラルドルゥスは、ロスセリヌスの弟子としてはじめは音声言語論派に属しており、かつ語が多くの個物の名称であるという名指し作用(nominatio)に加えて、「普遍とは多くのものについて述べられ得るような性格をもつものである」というアリストテレスに依拠した定義をかざして、実在論を否定する同派の論拠を補強し、さらには名指し理論の欠点(例えば薔薇がひとつもないという状況における「薔薇」のことばとしての働きは、名指し作用だけでは説明できない)を意識して、語がそれを聞く者の内に理解を生じさせるという狭義の〈表示作用〉(significatio)の理論を展開し、また、諸個人は〈人〉というものにおいてではなく〈人である〉ということ、すなわち人という〈事態〉(status)において一致するとした。創造に先立つ、神のうちなる概念ないしイデアにも肯定的に言及している。

アバェラルドゥスの理論はここからさらに進んで、語は音声が発せられていない時にも存在していること、人が設定したのは音声自体ではなく、一定の表示作用、名指し作用を行うものとしてのある音声タイプである、ということから、音声言語(vox)と〈語〉(sermo)ないし名称(nomen)とを区別したうえで、普遍であるのは前者ではなく後者であると主張するに至った。こうした主張によりアバェラルドゥスとその一派は、自らの独自性を訴えたが、やがて、周囲からも音声言語論派とは別派として〈唯名論派〉(nominales)と呼ばれるようになり、以後もほぼ12世紀を通して、唯名論派と他の諸学派の間で普遍を巡る主張への言及が続いた。---> アベラルドゥスの理論の詳細

概念論  なお実在論と唯名論を調停する第3の立場として概念論が挙げられ、アバェラルドゥスが代表者とされることがあるが、歴史的にいって、彼こそ唯名論派の祖である点で誤りであり、理論的にも「概念が普遍である」とは彼が否定する立場である。またこの限りではオッカムが概念論でもあることになってしまう。そういうわけで概念論を他の二つと明確に差異化して定義した上でなければ、哲学史の記述にこの立場を持ち込むことは危険である。

個体化をめぐる発想  essentia materialis 論の背景には、類から 種、種から個への contractio という新プラトン主義的発想(発想1)があるといったが、当時、神の創造ということの理解に、質料−形相関係を巡る、これと本当は両立しないもう一つの発想があって、この二つは混在していた。それを背景に当時の「現実の個物は如何にして成り立っているか」についての論が立てられていた。

もう一つの発想(発想2)とは創造に先立つ神の内なるイデアが、制作者のうちにある構想ないし設計図、モデルになぞらえて理解され、ことばによる創造という思想と結び付いている。これは、しばしば、創世記冒頭でまず〈無形の質料〉materia informis が創造されたとする解釈と結び付く。無形の質料と設計図があると、あとはデーミウルゴス的制作が成り立つのである。例えば、アンセルムス『モノロギオン』第9、10章を参照------homo すなわち animal rationale mortale は神の内なる ratio にして設計図だったのである。

唯名論者アベラルドルゥスは、material essence論に対しては、全く共感をしめさない。しかし、無差別論のうち、同一説にはやや親近感があるように思われる。つまり、これが諸個人は〈人〉というものにおいて一致するというのに対し、その修正定式 「諸個人は〈人〉というものにおいてではなく〈ひとである〉ということ、すなわち人という〈事態〉(status)において一致する」とした。

この点は彼が、先に挙げた発想2 すなわち設計図モデルを採用していることと関連すると私は推測している。彼はプリスキアヌスの文法学を典拠にして、創造に先立つ、神のうちなる概念ないしイデアに肯定的に言及してもいる(ただし、これが普遍だとは明言しないが)。神の内なるイデアを認めるならばプラトニズムにして実在論になってしまうのでは、と思うのは早計であって、ものにおいて類・種に対応する essentia を認めようとする実在論を否定し、しかも創造という考えを保持する選択肢として、神の内なるイデア説があり得たというべきだろう。ただし、神のうちなるイデア説をとったら唯名論かというと、もちろんそうではない。


14世紀の論争

オッカムが、トマス・アクィナスとドゥンス・スコトゥスの実在論を批判しつつ、唯名論的立場(普遍を言語の側に帰属させる立場)を提示したことに端を発して、14世紀にも普遍を巡る論争が起こった。オッカムの唯名論は、概念を言語の核をなす自然的記号(signum naturale)であるとしたうえで、規約による記号である音声言語ではなく、概念こそが普遍であって、普遍は精神の外にあるような〈もの〉ではないとした。ここから普遍は個物において存在し、個物から実在的にではなく形相的に区別されるというスコトゥス的考えを批判し、また、認識に関しては、普遍ではなく個物こそ認識の基礎的対象であり、そこに普遍的なものであるスペキエスの介在は必要ないとしてトマス的考えを退けた。

オッカムは神の内なるイデアという発想1をも否定して、神が創造以前に見ていたのは、未来に存在する諸個物自体であり、それら諸個物が、見ることの対象であるので、イデアと呼ばれるのだ、と一刀両断の語釈をする(\i Ordinatio\i I dist.35, q.5)。つまり、神は時を越えてすべてを現在のこととして知るのだから(これについては拙論Time and Eternity−Ockham's Logical Point of View, in Franciscan Studies 50 参照)、設計図などという、人間の能力に応じたものを類比的に適用するのは間違いなのである。ところが、設計図がなくなれば、形相か質料かといった個体化の問題もなくってしまう。まさに、オッカムにおいて個体化の問題はなくなると言われる通りである。

こうしたオッカムの主張は、その論理学的方法や明証的認識についての理解、伝統的形而上学および自然神学への懐疑などとともに、オッカム主義と言われる14世紀の思想傾向のなかで受け継がれたため、哲学史上でオッカム主義と14世紀的「唯名論」とはほぼ一致する。例えばビュリダンは急進的なオッカム主義には反対したが唯名論者ではあった。他方、ウィクリフは、教皇を批判し、国家権力の教皇からの独立を主張する点でオッカムと同様の思想傾向を示したが、普遍に関する実在論の立場からオッカム主義を批判した。


参考文献
IWAKUMA Y., `Vocales,' or early nominalists,Traditio XLVII (1992);
SHIMIZU T.,From Vocalism to Nominalism, Didascalia (1995);
ライネルス『中世初期の普遍問題』;
山内志朗『普遍論争』哲学書房1992;
清水哲郎『オッカムの言語哲学』勁草書房 1990.