アベラルドゥスにおける唯名論の成立

中世の論理学および言語哲学は、自由七科のうち文法学(Grammatica)および弁証学(Dialectica)において研究されていた。それらは古代の学問の遺産を受け継ぎつつ展開されたが、文法学と弁証学は別系統の伝統に立つものであったため―文法学の主な典拠はプリスキアヌスであるのに対し、弁証学はアリストテレス論理学に依っていた―、同じ問題を扱うのにも、両学のうちいずれの道具立てで接近するかによって、立場の違いが生じることもあった。同じ用語が両学において別の使われ方をすることもあった―本報告が取り上げる significatio という語もそのような用語のひとつである。

以下では、アベラールが師ロセリヌスの〈音声言語論Vocalism〉から出発し、哲学的思索を通 じて〈唯名論Nominalism〉に至ったこと、かつその過程は文法学的視点と弁証学に遡源する視点とを、言い替えれば意味についての初めに述べた二つの把握を総合して、アベラール的論理学の領野を拓くものであったこと、を提示したい(1)。

1 音声言語論からの出発

アベラールは、少なくともその出発点においては、ロセリヌス(Roscelinus)の弟子と看做されて〈Voca-les〉(音声言語論者)と呼ばれていた(2)。やがてアベラール派は〈Nominales〉 (すなわち唯名論者)と呼ばれるようになるが、それはロセリヌス系の音声言語派が衰退した後のこととされている。ソールズベリのヨハネスの次の証言はその推移をコンパクトに語っている。

「また類や種はほかならぬ音声(voces)であると主張した人々もいた。しかし彼らの見解は既に拒否され、その創始者とともに難なく消えてしまった。ところが今なお彼らの轍を踏む人々がいるのであって―もっとも彼らはその創始者とその教説を公けに認めたがらないのであるが―彼らは名前(nomina)のみを奉じ、事物や概念から奪い上げたものを言葉(sermones)に帰するのである(3)」

ここから、「類や種」すなわち普遍をものの側にではなくことばの側に帰する点では一致しつつも、ことばを vox として把握するか sermo ないし nomenとして把握するかによって、音声言語論と唯名論とが差異化されている、と言うことができる。他方、普遍はvox だとする立場から sermoだとする立場への変化がアベラールに見出されることは、以前からアベラール研究者の常識であり、これをどう評価するかについて様々な議論がなされてきている(4)。

私の見るところでは、この変化は単に用語上の問題だとか、強調点の相違といったことにとどまらず、言語をどう把握するかについての哲学的に意義のある発展である。従ってまた、アベラールを創始者とする派が Vocales と区別されて Nominales と呼ばれることになったことの歴史的経緯はさておいて、理論的にもこの呼び分けは有意味であることになる―以下このことを論じる。

まず、アベラールがロセリヌスから継承した音声言語論はどのようなものであったかから始める。残存する諸著作のうち普遍についての最初のまとまった議論が展開されるもの(以下 LI と呼ぶ)において、アベラールは普遍を何に帰属させるかについて、なんらかもの(res)の側に帰する立場(realism: 普遍=もの論、つまり普遍実在論)を否定し、音声言語(vox)に帰する立場(つまり vocales)に組みしている。それは次のような主張であった。

「普遍的語彙はその案出(inventio)に由来して、複数のものについて個々に述べられるに適したものである。たとえば『ひと』という名称は、この名称がそれらに対して設置されているところの基体である諸物の有り様に応じて(secundum rerum naturam)、人々の個別の名称に結合され得るものである。」(LI 16.25-30)

ここで普遍の定義としてアリストテレスの(とアベラールが看做す)「複数のものについて述べられるに適したものと生まれからしてなっているもの quod de pluribus natum est aptum praedicari」が採用され、パラフレイズされている(5)。一般に、イナガキやワラガイは個であるのに対し、人や動物は普遍であると言われる。その場合「人は普遍である」ということを、 アベラールはこう説明する: 「イナガキは人間である」「ワラガイは人間である」・・・・というように、「複数のものについて述べられ得る」のは「人間」という名称(nomen) である(これが「述べられるに適している」に対応)。次に、ある種の名称が複数のものについて述べられることが可能なのは、一定の諸個物の名称としてこれが設置(impositio)ないし案出(inventio) さ れているからである(これが「生まれからして」のパラフレイズ)。設置によって成り立った、ことば(=音声言語)と諸個物との名称関係―つまり名前の〈名指す働きnominatio〉―に応じて、述定が可能となる。

また、この設置はことばを案出した人が勝手に「これとこれとを人間と呼ぶ」と任意の規約によってグループ分けしたのではなく、自然の側にある分節・秩序の発見に基づいてしたことである。類・種の起源はまさに自然なものとして考えられている。世界の側にある分節を人間は見出し、それに応じて或る音声を名称として選んで〈設置〉した。従って、世界の側にある分節に対応して(secundum rerum naturam)、言い換えれば名称の案出に由来して、名称は述定され得るものとなっている。

とはいえ、普遍実在論を拒否するアベラールは類・種自体がものであることは認めない。「多くのものについて述べられ得る」との普遍の定義は言語にのみ適用し得る。しかも、普遍という性質を備える語、例えば普通名詞「人間」がそれの名称であるものと、例えば固有名詞「イナガキ」が名指すもの(特定の個物)とが何らか区別され、何らかの仕方で個‐普遍関係にあるわけではない、と主張する。

LIにおける普遍についての議論のうち、以上がアベラールが議論の出発点とした音声言語論の主張である。このうち、あるタイプの音声がものの名前として〈設置〉されたことに由来して、名前はものを〈名指す〉働きをし、これが名前の〈表示作用significatio〉に他ならない、という点は、アベラールがロセリヌス等から受け継いだ枠組みであろう。

これに対してこの枠組みを普遍のアリストテレス的定義に乗せて説明する部分にはアベラール自身の工夫が感じられる。というのはここでアベラールはポルフュリオスが『エイサゴゲー』冒頭で提起した問題に答えつつあるのだが、ポルフュリオスの普遍の定義は「・・・・述べられる praedicatur」と無様相で言われているのに対し、アリストテレスのそれは「述べられるのに適したものと生まれつきなっている」となっており、これは可能様相だといえよう。先に引用した普遍についての見解は後者のパラフレイズにほかならず、アベラールは一貫してこの可能様相を入れる点で、意識してポルフュリオスを修正している。だが、このようなアリストテレスの定義の採用は、アベラールのより初期の著作には見出されず(6)、したがって師から受け継いだと言うよりは、どこかの時点で自ら考えついた可能性が高い。

アベラールが引き継いだ(とここで想定した)枠組みは、プリスキアヌスに依拠する、当時の文法学のものである。そもそも〈vox=音声〉について論じることは、プリスキアヌス文法学の基調をなす問題関心であって、弁証学―少なくとも九世紀から十二世紀前半においては、その教程はポルフュリオス『エイサゴゲー』から始まり、アリストテレス『カテゴリー論』へと続くものであった―のそれではなかった(7)。この点一つからしても音声言語論が依拠するところが推定できよう。またプリスキアヌスによる名詞の定義は次のようなものであり、〈significatio=表示〉を〈ことば〉と〈もの〉の関係において考えていることがわかる。

「名詞に固有のことは、実体および性質を表示することである。・・・・・・ 名詞は、文の部分であって、主題となっている物体ないし諸物の各々に共通ないし固有の性質を割り当てるものである。(8)」

さらにC・ミュウズは最近、ことばの名指し機能および設置への関心の集中をプリスキアヌス へのある注釈(十一世紀)に見出したという(9)。これらの点から言って、アベラールはその出発点において、文法学的思考の普遍問題への応用である音声言語論を引き継いでいると言うことができよう。だが、ただ引き継いだだけではなく、これをアリストテレスの定義と折り合わせようとする仕方で、これを弁証学のなかで再把握しようとしているのである。

2 音声言語論の難点

アベラールは以上のように音声言語論を提示した上で、またその難点をも指摘する。すなわちアベラールは普遍語の表示作用(significatio)について二つの面から問題を提示する。その第一は普遍的名称にはその表示する対象であるものがない、ということであり、第二は普遍的名称はいかなるものについての理解をも構成しない、というものである(LI 18,6-9)。

[a 普遍的名称は何の名前か] (LI 18,9-16) 普遍実在論者は、例えば個々人はその諸形相(formae)によっ て互いに異ったものであるが、その形相がそこに附加 される質料(materia) である本質存在者(essentia)と しての人という実体は一つであると言い(10)、あるいは、 個々人はソクラテスであるという点では他人と異なる が、人である限りのソクラテスは他人と一致する(con- venire) などと説明する。従って、問aに対してはこ う答えることになる: 「ひと」という音声は、この一 なる人ないし人である限りの人の名前である。

ところが音声言語論者はものとしての普遍を認めな いのであるから、「では普遍的名辞の表示対象はなく なってしまうではないか」と反論されることになる。 これに対して、試みにこう答えてみよう: 「ひと」は イナガキとワラガイと・・・・の名前として設置されてい るのだ。するとただちに再反論される: ではなぜ「ひ と」はイナガキとワラガイと・・・・の共通の名として設 置されたのかね、またなぜこのマリの名前としては設 置されておらず、代わりにマリやハナやコトには「猫」 という共通の名が設置されているのかね。

ここでもし「イナガキとワラガイと・・・・を同じ名前 で呼ぶことに(しかしマリはそう呼ばないことに)決 めたからだ」と答えるならば、それは、「ひと」とい う名前はイナガキとワラガイと・・・・とに《同名異義的》に適用される、と主張するに等しい。それでは「ひと」 は普遍的名称ではなく、むしろ固有名称であることに なってしまう。世界には沢山の鈴木さんがいるが、だ からといって「鈴木さん」は普遍ではなく固有の名称 であって、多くの個体に対して同名異義的に使用され ている、のと同様だからである。

こうして、音声言語論は「複数の個体に対し共通の 名前が設置されているのは何故か」に答えなければな らない―この難点指摘に続いて展開されるアベラール 自らの普遍理論の第一の論点(後述)は、これへの答 えにほかならなかった。

[b 普遍的名称を聞いて何が理解できるか] (LI 18, 17-19,6) アベラールが指摘する音声言語論の第二の 難点はこうである:音声言語論に従えば、普遍的名称 は聞き手に如何なる理解をも与えないことになってし まう。例えば、語り手はソクラテスを指して「人が家 の中に座っている」と言うことが出来る。しかし聞き 手はこのことを聞いただけではどの個体についてのこ となのか理解できない。だが理解は何かについての理 解としてしかあり得ない。しかも、音声言語論は、こ とばの意味機能をただ〈ものの名前〉として把握する のみであるからには、「何かについての理解」とは「 どの個体を名指しているかが分かること」以外のもの ではあり得ない。したがって、普遍的名称「ひと」は 聞き手の内にいかなる理解をも結果し得ないことにな ってしまう。

ここでアベラールは表示作用を「聞き手の内に理解 を構成する」働きとしてとらえている。そこで右の難 点指摘は結局、「ひと」は表示の働きを行い得ない、 という結論となる。

問bについては、議論の枠組み・道具立て自体がア ベラールの出発点としての音声言語論の普遍理論には 見られない。つまりこれはアベラールが普遍について の議論に新たに導入した視点だと考えられる(11)。そして アベラールはこの難点についても、自らの普遍理論の 第二の論点として、これに答えて普遍的名称は聞き手 に如何なる理解をもたらし得るかを説明しようとする (後述)。

[音声言語論を洗練する試みのはじまり] アベラール は以上の難点指摘によって、彼が受け継ぎ、かつアリ ストテレス的定義に合わせて定式化した音声言語論の 普遍理論を再度見直し、それを自ら改訂しようとし始 めている。こうしたLIの議論の構成は、アベラール における言語理論・普遍理論の展開の過程を反映して いる、と私には思える。すなわち彼は1で提示したよ うな音声言語論を受け継ぎ、彼なりに定式化した段階 を経て、いまやその理論を改訂する段階にある。

アベラールが指摘するその難点はこうまとめることもできる: 問aは音声言語論の文法学的理論の枠内に おける難点の指摘であるのに対し、問bは弁証学の視 点からの接近であって、アリストテレス『命題論』( 16b20)による表示の定義―聞き手の内に理解を構成す ること―に従って問題を捉えている。aとbの視点が それぞれ文法学および弁証学に由来していることは、 両視点を次のように見ることと重ねると示唆的である。

〈表示significatio〉を記号という言語の機能を指 す用語だと考えよう。音声言語論者は、従って難点a を指摘するアベラールは、〈ことばがものを名指す〉 こと(nominatio)として記号の機能を理解し、「世界の 側に既にものの分節が成立しており、それに対応して ことばの側に名称が設置された」と言う。このよ うに把握しかつ語る時、人はものに向かう自分の現実 の立場を離れていわば神の横に立って、〈もの〉と 〈ことば〉とを等分に見比べながら言語について記述 しようとしている。したがってまた、私がある語を使 えるかどうか、聞いて分かるかどうか、に関わらず、 語の表示(即、名称の名指し)は成立している(12)。表示機能があるということは、私が使っているかどうか に依拠していない以上、「既に設置されている」とい うところに成立根拠を求めざるを得ない。しかしなが ら、こうして個々にことばを使う私に先立って成立し ている言語を把握する理論は、言語の公共性を根拠づ けることには苦労しない―それは前提だからである。

だが他方、言語は私たちが使ってはじめて言語であ る以上、いくら言語と世界の関係がすでに成立してい るといっても、それに私が与り得るのでなければ役に 立たない。問bは問aの視点自体に対する問題提起で もある。

問bによってアベラールが導入したのは、ものとこ とばとを等分に見る立場ではなく、ことばを携えても のに対峙している私の現場の視点である。語り手はさ ておいて、聞き手の立場に立ってみた場合、言語から 何かを理解するということが如何にして可能であるか、 と彼は問いかける。この際アベラールが問題にするの は、言語を使う私の現場で言語がなす働きであり、つ まりことばが発話される度毎に聞く人に対して表示と いう働きが適切に遂行されるかどうかである。

しかし、聞いて理解する私の立場に立って見ると、 今度は、表示の働きが適切になされているかどうかを どのように確認できるか、という問題が生じるだろう。 言い替えれば、視点bからは言語の公共性が見え難い のである。

3 LIにおける改訂版音声言語論

難点a、bに対するアベラール自身の対応について、 詳しく分析する余地はない。本報告の意図に沿って、 指摘した難点にどう答えたかに限って言及しよう。

[場面a] ここでの問題は、個別のものが普遍で あるのではなく、また何らかのものに多くのものが一 致するわけでもないのならば、普遍的名称に対応する ものはないことになってしまうのではないか、という ものであった。これに対しアベラールは、音声「ひと」 が個々人を名指すのは、それら諸個体に「ひとである」 という共通性があり、それに応じて名称「ひと」が設 置されたからである、と答える。つまり、ここで諸物 間の〈一致〉という考えは採用しつつも、〈もの〉に おける一致ではなく、〈こと〉における一致を主張す る―諸個体は〈人においてin homine〉ではなく、〈人 であることにおいてin esse hominem〉一致すると言う のである。〈esse hominem〉はさらに、〈人という事 態status hominis〉とも説明される(cf.LI 19.21-20. 14)。つまり「事態 status」は、人であるという〈こ と〉を指しており、把握する我々に対して現われ、何 らかのかたちあることとなった事柄である。言い替え れば、「事態」は、私たちの認識から独立に成り立っ ている、ものないし世界の側のありさま(rerum natura)それ自身ではなく、言語的に適切に把握された (分節化した)、ものの側の状況のことである(13)。

こうして名称の設置は世界の側にある分節に応じて おり、したがって普遍的名称はある諸個物を名指す機 能を持つと説明された。ただし固有名称がある特定の 個物を名指す仕方と普遍的名称の名指し方との間には 違いがある。普遍的名称は「個々に区別されたもの( quae discreta sunt)を名指すのではあるが、しかし、 個々を区別し特定する仕方で(discrete et determi- nate)ではない(LI 29,6)」。

[場面b] 普遍的名称は聞き手のうちに理解を生じさ せ得ないではないか、という難点指摘に応えて、アベ ラールは普遍的名称も「諸個物に到達する理解intel- lectus ad singulas pertinens」を聞き手のうちに構 成すると言う(ここで「理解」とは、ことばを聞いて 何かを理解する働きそのものを指しているのであって、 理解された内容を指しているのではない: LI20.29)。 では、語り手がソクラテスを指して「ひと」と言った ならば、聞き手はソクラテスに到達する理解を持つ( ソクラテスのことだと分かる)のか。否。「諸個物に 到達する」理解、すなわち誰か或る特定の個人を理解 する理解ではなく、諸個人に関わる理解を持つのであ る。つまりその理解の働きは「(諸個人の)共通の似 姿を把握するquorum communem concipit similitudi- nem」 ことであり、その似姿は「すべての人に共通で あって、どの特定の人にも固有ではない omnium com- mune et nullius proprium」という仕方で諸個人に関 係している(LI 21,34)。したがって聞き手は「ひと」 と言われて理解するが、その理解はソクラテスについ てのでも、別の特定の誰かについてのものでもない。

すなわち、「『ひと』はソクラテスをも、また別の特 定の誰かをも真直に表示する(recte significare)とは 言われない(LI 22,2)」。しかし普遍的名称「ひと」は 個物を全く表示しないことにはならない。むしろ諸個 物を「すべての人に共通であって、どの特定の人にも 固有ではない」という仕方で表示するのである。

[LIの表示理論のまとめ] こうして結局、LIにお いて表示関係についてアベラールが導入しているのは 次の4つである(14)。すなわち、

(1) ものを名指す: これは既に言及した場面aにお けることであり、設置に直接由来する作用である。アベラールはこれを広義の〈表示〉として語ることがあ る。

以下の3つは狭義の〈表示〉であり、理解の構成と いう場面bに関っている。

(2) ものを表示する: これは既に場面bとして論じ たことであって、構成された理解がある仕方で諸物に 関わることによって遂行される。

(3) 理解(の働き)を表示する: 狭義の表示は(ア リストテレス命題論に従って定義されるように)「理 解(の働き)を構成する」ことであり、そうである以 上、ことばは理解の働きの記号であることになる。ア ベラールが「理解の表示 significatio intellectus」 と言うときにはこれを指す。

以上の限りでは表示の対象はものか理解かである。 これにさらにアベラールは「名称の第三の表示作用」 (LI 24,29)として、次の関係を付加する。

(4) 形相(forma) を表示する: 〈intellectus〉が理解の働きを指すのに対し、ここで言う「形相」とは「 理解がそれへと向かう形相」「普遍的名称によって概 念把握された共通の形相(=似姿)」のことである( LI 22,25-24,31)。つまりことばが造り出す理解の働き はこの似姿に向かっている以上、ことばはこの似姿の 記号である、ということにもなる。

LIの普遍理論がアベラールが受け継いだ音声言語 論に対して相当な修正を加えるものであったことは、 以上から明かであろう。少なくとも音声言語論が終始 そこにいた場面aは、ことばとものとを等分に見比べ る立場であったのに対し、場面bの導入によって、私 たちは現にことばを聞いて理解するという私の現場に 導かれ、そこで事柄を考えるように誘われるのである。 ではこのような視点の変更によって、アベラールは音 声言語論と決別して、唯名論を創始したと評価すべき であろうか。言い替えれば、音声言語論から唯名論を 差異化する際に、LIの理論を基準にするのは妥当で あろうか。私は、LIのアベラールは、洗練されたと はいえ、なお音声言語論者として位置づけられるべきだ、と考える。その理由の一つは、アベラールの上述 の論点a・bが当時、音声言語論者(Vocales) の理論 として言及されていたことである(15)。また一つは、普 遍=音声言語(vox)論を否定する表現は見出せないことである。

だが、私が挙げたい理由はなによりも、アベラール が導入した視点bは未だ音声言語論と呼ばれるに相応 しい言語理解を示している、ということにある。すなわち〈聞き手がことばを聞いて理解する〉という現場 に定位する際には、表示は、ことばが発話され聞かれ るその都度なされる働きだと把握されている(従って また理解の働きもその都度生じるものである)。言い 替えれば、発話され、聞かれるその都度、ことば(= 表示の働きをするもの)として存在する限りでの〈こ とば〉がここで問題となっている。しかしそれはこと ばを、まさに発話される度毎に存在する個別の音声= vox の次元で―言ってみれば〈flatus vocis〉として(16) ―把握することではないだろうか。この意味でLIの アベラールはまさに優れて音声言語論者である。

こう評価する時、私はアベラールの以降の道行につ いての理解を先取りしてもいる。すなわち、アベラー ルの普遍に関する、残存するまとまった議論のうち最 終のもの(以下 LNPS と呼ぶ)において「音声言 語(vox)ではなく言葉(sermo)が普遍である」としたと きに、アベラールの言語把握は別のものとなっている のであり、そこにおいてこそ彼は適切に nominales=唯名論者と呼ばれ よう。LIの普遍理論以降LNPSのそれに至 る過程は、〈発話される度毎のことば〉という把握を 克服する過程である。

[事態と似姿] 以上、LIにおいては結局、視点aと 視点bとが並立していることを提示した。以下で論じ るように、二つの視点はやがて重なり合って新しい視 点に移行するのだが、すでにLIにおいても二つを単 に併置する理論では済まなくなりそうな局面が顔を出 すことがある―この点に触れておこう。アベラールは 名称の設置ということを巡って、しばしば「設置・案 出した人impositor/inventor」に言及する。その際に 案出者は、ものの側にある分節つまり事態(status)を ことばの助けなしに見出したことになる(この限りで は視点aからの記述)。だが、またその際に「(人と いう)語彙を設置した人は、人という類別(natura)の もとにおかれた諸個体の共通の似姿を概念把握した( LI 20.12-14)」とも言う―これは聞いて似姿を表象す るという文脈ではないにせよ、設置者の立場から見て どのように諸個体間の共通性を認識できたかという話 であり、視点bの一様態といえよう。するとどうなる のか。視点aから〈事態〉と言われることは、視点b からは〈似姿〉に相当するのか?少なくともアベラー ルは、両視点からの記述を並列にしたままで放置でき ないのではないだろうか。だがLIはそれ以上この点 について語らない。またLI以降のアベラールは結局 〈似姿〉に依拠することをやめる方向に進むのである。 それはともかく、設置者は如何にして事態を、しかも 言語の助けなしに把握できたかを考えようとすると、 二つの視点をただ並立させるだけでは済まなくなるこ とは確かであろう(17)。

4 唯名論の成立

[ことばが存在する場の拓け] LNPSの特徴は、諸 研究者が認めるように、音声(vox)ではなく言葉(ser- mo)が普遍であるとするところにある。

「我々は言葉(sermones)が普遍であるという。なぜ なら、これこそが出生に由来して、つまり人間による 設定に由来して、多くのものについて述べられ得る状 態にあるからである。だが、言葉は音声であるという ことは確かであるにせよ、音声もものも決して普 遍ではない。(LNPS 522.28-31)」

ここでもLIと同様アリストテレス的普遍の定義が 使われ、ことばの設定(institutio)が提示される。し かしLNPSではさらに、この設定という観点で音声 と言葉が分けられている。すなわち、同一の語「ひと」 は「音声である」とも「言葉である」とも言えるとは いえ、「『ひと』という言葉は人間が設定した」とは 言えるが、「『ひと』という音声は人間が造った」は 言えない―音声自体は自然的なもの、つまり神による 創造に由来することであるからだ。 そして「多くのも のについて述べられ得る」ということは音声としての 音声のではなく、言葉の設定に起源を持つ(従って言 葉の)性格である。音声と言葉の違いは丁度、同一の ものが「石」でも「像」でもあるとはいえ、「この像 は人間が造った」は言えるが「この石は人間が造った」 は言えないことと対応する―像を像として造ったのは 人間だが、石を石として造ったのは人間ではないので ある。ただし、ここでアベラールは名称( nomen) を否 定して言葉を立てているわけではない。名称が普遍で ある、と言ってもよいのだが、「言葉 sermo」の方を 主として使うのは、一つには「名称」は文法学上の用 語であり、「言葉」こそが論理学の用語であるとの了 解(LI 16.22-25) により、一つには、名詞のみならず、 動詞も普遍であるからであろう。

音声ではなく言葉が問題であると認め、言葉が言葉 であるのは人間による設定に依拠してであると認めることに伴ない、発話の有無にかかわらず言葉は存在す るという言語把握が結果する:

「すなわち、類や種は語る者がない場合にも、変る ことなく存在するのである。というのは私が『類や種 は存在する』と言う際には、それらに何ものも帰属さ せてはおらず、ただ、先に言ったように、既に為され ている設定を示しているのであるから。(LNPS 524.21 -24)」

音声が何かを表示するにしても、音声自体は常に存 在するわけではない。従って、「ひと」という音声は その都度あったり、なかったりするものである。しか し「ひと」という言葉(=人という種すなわち普遍) もあったり、なかったりすると言うべきであろうか。 右の引用でアベラールは、「ひと」という言葉は現に その音声が発せられてはいない時にもある、と主張す る。ただし、それが「ある」とは「言葉の設定が現に 成立している」ということ以上の何かを言うものでは ない。このような仕方でアベラールは言葉について、 それが単に音声が存在することに依存して存在するこ ととは異なる、存在の場を拓く。

[理解・概念の存在] LNPSのこの言語把握は、発 話の都度に理解を構成するという、LIを特徴づけて いた視点にも変更をもたらすように思われる。すなわち、今「ひと」という発声がなされ、それを聞いて聞 き手が何かを理解したとして、そこにおいて重要なの はこの個別的な「ひと」という音声なのではない。そ れは音声としては何の理解も構成しないであろう。重 要なのはその音声が何らかの理解を構成するようなも のとして設定されてあるということである。すなわち、 発話の都度存在する音声ではなく、発話の有無に関わ らず存在する言葉が構成するものとしての理解を問う ことになる。この問いの変化はさらに、その都度の理 解ではないような理解への視点の移行をもたらすはず である。すなわち、LIでは発声を聞く度に構成され るその都度の理解を問うていた(それ故に何らか心理 学的考察がされもした)のに対し、 LNPSではその 都度あったり、なかったりするようなものではないも のとしての理解が考えられてしかるべきであろう。あ るいは、理解の働きはその都度のものであるとしても、 それが向かう形相ないし概念は、理解の働きが現にない時にも「ある」ということになるのではないか。

いずれにせよ、アベラールの「類・種は存在する」 についての上の説明に倣って言えば、「理解(ないし 概念・形相)が存在する」と言うときには、これが何 か或るものであることを主張しているのではなく、理 解の記号である言葉が現に設定されていることを示し ている、ということになるはずである。実際、この移 行ないし変更の過程がLIからLNPSに至る諸著作 の中に見いだせる、と私は解している(18)。いくつ かの論点を手短に挙げておこう。

1 LIにおいては、理解が向かうところの〈形相〉 は、まず「ものの似姿 similitudo rerum 」、「形象 instar」、「想像されたものres imaginaria」などと 呼ばれるように、いわゆる心像であった。しかし、L Iにはまた抽象の理論―ことばの助けによって、世界 の現れの多様性にも拘らず、ものの類別や性質を把握 すること―も含まれており、その文脈では理解が向か う形相は心像ではなく知性的対象であるようだ。こう して二つの要素が並立していた(19)。

だが、LNPS直前の時期に属する『理解について の論考 T.de Int.』においては、アベラールは理解の 働きが想像作用(imaginatio)なしには有り得ないこと を認めるものの、理解の働きをものの類別のなりたち (natura: たとえば人間のそれは「寿命のある理性的 動物」である)および性質に注目するものとして描く (つまり抽象の理論)のみであって、もはや心像との 関係では描かない。

LNPSの「理解(の働き)」・「形相」もこの線 上にある、と解し得る。すなわち形相はもはや心的表 象ないし感覚や想像作用の対象ではなく、知性的把握 の対象となっている。

右に述べた変化は、ことにアリストテレス『命題論』 第一章の「似姿similitudo」をどう解釈するかの変化 として顕わとなっている。すなわち、LI ではこれは 心的表象であるが、LI以前に属する『命題論小注釈 Editio』では、その表象的性格がよりはっきり明言さ れていた:

「心の内なるこれらの情態すなわち理解の働き( intellectus)は、似姿すなわち表象(imaginatio)であ る。というのも理解の働きによって私たちはものがい かにあるかを、それが実際にあるがままに、表象する のだから。」(Editio.74,18-20)

だが、『理解についての論考』では、「似姿」の解 釈にも、もはや表象は登場しない。つまり「似姿」は 心的表象というよりは、知性的に把握されたもののよ うだ:

「アリストテレスは健全な理解の働きをものの似姿 と呼んでいるが、それはそういう理解の働きはものの 事態をそれがあるがままに概念把握する、ということ なのである。個別の理解の働きが健全なのは、それが ものの実際の状況に適合している場合である。」(T. de Int.115,1-6)

2 LIにおいては〈intellectus〉 は「理解の働 き」であって、その向かうところの(表象としての) 形相とは区別されていた。だがLNPSにおいて〈in- tellectus〉 はしばしば「理解された内容」と、従っ てまた「形相」と等しいように思われる。たとえばア ベラールはLNPSで普遍をintellectus に帰属させ る立場を紹介する際に、プリスキアヌスを典拠とし、 その類的および種的形相が提示される箇所を引用する が、それはLIにおいては「形相」を「理解の働き」 から区別する文脈で引用されていた箇所にほかならな い。こうして、理解(の働き)と形相との区別は曖昧 になる。

3 LNPSにおいてアベラールは「ものを表示す る、ただし感覚に従属するようなある形相を伴うこと なしに」という表現をする(LNPS 526,12;527,25)。こ れに非常に近い表現はLIとLNPSξ間に位置する ポルフュリオス注釈(Gl.sec.voc.)にも見られる(127, 27-28;130,10-11)。だが、これらに対応するLIの文 脈はこのような表現を含まない。これはアベラールに おける「理解を媒介にしてものを表示する」というこ との把握の変化を示唆している。すなわちこの媒介は LIにおいては、理解の働きが表象に向かい、その表 象は多くのものに共通の似姿である、という仕方でな されていた。これに対しLNPSでは、媒介となる理 解ないし形相は、表象的なものではなく、知性の対象 と考えられている。この変化が「感覚に従属するよう な形相を伴うことなしに」という断り書きに反映して いると解したい。

[設定されたのは何か] 以上検討したことを念頭に置 いて振り返ってみると、LNPSから先に引用したと ころにおいて、普遍である言葉について「これこそが 出生に由来して、つまり人間による設定に由来して、 多くのものについて述べられ得る状態にある」とアベ ラールが述べた際に、音声言語ではなく言葉だという 主張のほかに、平行するLIの主張との重要なもうひ とつの差異が込められていたのではないかと思われる。 それは「設定されたのは何か」に関する差異である。 LIでは「設置」されたのは、あるタイプの音声とあ るグループ分けされた諸物との関係―「名指し」と呼 ばれる―であった。これに対してここでの「設定in- stitutio」という関係は、あるタイプの音声とある理 解(ないし知性の対象となる形相)との間のそれなの ではないか。というのも、LNPSにおけるアベラー ルは、「キマエラ」は言葉であり、有意味だと認めて いるのである―キマエラは未だかつて存在したことが ないにも拘らずである(LNPS 533,7; T.de Int. 126, 33-127,14)。LIの理論によれば、ものが存在してい なければ名前は設置できないはずである。だがLNP Sにおいては、存在したことのないものに応じる名称 が認められるのであるからには、もはや表示関係は言 葉とものの間の直接の関係とは考えられていないと結 論せざるを得ないだろう。

この点に関わると思われるいまひとつの変化がある: LIを特徴づける問に「バラが存在しなくなったとし たら、そのときに『バラ』はなお普遍であり続けるだ ろうか」というものがあった (LI 8,22)。LIの答は 「否」である(LI 30,1-5;31,35-32,12)。Gl.sec.voc においてもなお、一羽が生まれ変わりつつ生き続ける という「フェニックス」や、いまだかつて存在したこ とのない「キマエラ」と並んで、存在しなくなった場 合の「バラ」もまた普遍ではないと答えているようだ (132)。 だが、奇妙なことにLNPSでは同様の問に 「フェニックス」と「キマエラ」については普遍では ないと答えながら、バラについては明示的な答を与え ない(LNPS 528,13-18)。これはどう理解すべきだろう か?アベラールはここで「否」と答えることをためら っているのではないか、と私は思う。バラが存在しな くなっても「バラ」は普遍だと答えるのが整合的だろ うと見るからである(20)。そうであれば、「複数のもの について述べられ得る」と言われる可能性は、LIに おいては言葉と現実のものとの関係に依拠していたが、 LNPSにおいてはそうではなく、ただ言葉の設定に のみ依拠している、ということになろう。

こうしてことばとものとの直接的関係から、ことば と形相ないし概念との関係およびこれを介してのこと ばとものの間接的関係へとアベラールの表示理論は改 訂された。ここで、3の終わりに提示した問いを目下 の枠組みに合わせて問い直して見よう: ここでいう概 念ないし形相は、諸物がそこにおいて一致するという 事態(status)に他ならないのではないか。アベラール は明示的に「然り」とは言わないだろう。だが、これ らが(別の仕方でであるにせよ)同じことを指してい ることはほぼ確かである。

以上の諸点は結局、LIにおいては四通りに区別さ れていた、語とその表示対象との関係が、LNPSに おいては二つにまとまる、という結果をもたらしてい る。すなわち第一に、LIにおける「(1) ものを名指 す」と「(2) ものを理解の働きを介して表示する」と の区別が解消し、一様に〈ものの表示 significatio rerum〉として把握される(かつ〈intellectus〉は個 別の「理解の働き」というよりはむしろ「概念」とい った意味で捉えられる)。第二に、〈intellectus〉が 個別の理解の働きではなくなることによって、これと 理解の働きがそれへと向かう形相とが重なり合い、か つ形相は心像ではなく知性的把握の対象となって、L Iにおける「(3)理解の働きを表示する」と「(4)形相 を表示する」との区別が解消し、一様に〈理解の表示 significatio intellectus〉として把握される。

まとめ: アベラール論理学の場

以上の分析を通して私はアベラールの表示理論に三 つの段階を区別した。すなわちその第一は、出発点で ある音声言語論の〈名指し nominatio〉と〈設置 impositio>を核とする理論であって、アベラールはこ れを普遍のアリストテレス的定義に結び付けることに よって普遍問題への解答としたのであった。これに続 く第二段階では、アベラールは「理解を構成する」と いう〈表示significatio〉を導入して、名指し理論に 併置した。言い替えれば、ものと言語とを等分に見比 べる第一段階の視点aに、言語を携えものに向かって いる現場の私の視点bが併置されたのであった。しか し、両者は結局並立しているに過ぎないのであり、こ とに新たに導入された視点は、表示を発話の都度音声 が遂行する働きと見る点で、言語を音声として把握する立場にとどまっていた。

これに対して第三段階は、並立する二つの視点、二 つの言語把握が総合される過程を通して成り立ったも のであって、言語と理解をその都度の現場で問う考察 を一度した上でなされる、言語と理解の、その都度性 を越えた静止したかたちを問う立場である。ここでは 「言葉」や「理解」は、もはや個々の発話でも、また それが個々の聞き手にもたらす個別の理解の働きでも なく、個別の発話や理解が現にあるかどうかに関わら ず存在する(=設定されている)ものとして把握され ている。この際、言葉や理解は、もののあり様ないし 事態と関係づけられるという仕方で、その公共性を保 証される。こうしてことばとものの関係を眺める視点 aが、ことばは理解を生じさせるという視点bのその 都度性を越える為に使われて、第三の視点cが成立し ている。視点cこそ、アベラールが確立した唯名論論 理学の視点であって、それはすなわち文法学と弁証学 をある意味で総合する視点であったことになる。



(1) 本報告はテキストをどう読むかについての議論は極力省いている。これに関しては清水[1987][1991]を参照。

(2) Iwakuma[Vocales]; Reiners[1910].

(3) Polycraticus VII 12.PL199,665A. cf.Metalogicus II 17. cf.Reiners[1910]

(4) Tweedale[1976]; King[1982]; Mews[1987].

(5)アリストテレス『命題論』17a39。ただしボエティウス訳に は aptum (・・・・に適した)はない。アベラールは引用に際 してボエティウス訳に精確に従うこともあるが(LI 9,25; LNPS 512,15;522,15)、自らの解釈に合わせるためにか aptum を付加する傾向が強い( LI 9,19;402,2; Gl.sec. voc.147,11; LNPS 512,17)。なお、ここで aptum が使われ ることの典拠としては『カテゴリー論』へのボエティウス による注釈が考えられる(PL 64,170B; cf.LNPS 534,9)。

(6) すなわち、アベラールはより初期の段階では普遍に関 して、ポルフュリオスの定義にのみ言及し、アリストテレ スのそれは使っていない。cf. Editio 9,20-35; Dial.538, 29-31.

(7) 本論の主張に対して、弁証学も『命題論』を扱い、そ こでは名前以下が〈vox significativa〉として把握されて いるではないか、という疑義がもたれるかもしれない。確 かに〈vox significativa〉という際の表示作用が、当時の 弁証学においてものを表示するものと考えられていた可能 性はある。ことに〈vox significativa〉は文法学のなかで も哲学者の見解として提示され、これとプリスキアヌスの 次註の箇所とが見比べられた事例がある(Alcuinus,Grammatica)。この文脈では、『命題論』の〈表示〉も、ものとの関 係で理解されていただろう。だが、それはむしろ文法学の 表示理解に引きずられてそうなったというべきであろう。 少なくともアベラール自身は『命題論』の〈表示〉はものを表 示する場面での議論ではない、と主張している(LI 307,24-309,35)。なお、後 には、弁証学・論理学の教程は、vox significativa から 始まるものとなるが、その点については清水[1990:13-28] 参照。

(8) Priscianus,Institutiones Grammaticae II,18;22

(9) Mews[1991]参照。

(10) ここでの materia‐forma という用語は、後に中世哲学がアリス トテレス形而上学を知った時期以降の使い方とは異なる使 い方をされている。また、 essentiaはある種の存在者を指す 用語であって、少なくとも「実在と区別された本質」ではない。

(11) ただしアベラールがこの視点を発見したわけではない。 例えばアンセルムスの言語把握はこのようなものであって、 その有名な神の存在証明は「(神の存在を否定する)愚か 者といえども、『それよりも大なるものが考えられ得ない もの』と言うのを聞けば、聞いたことを理解する(Proslogion 2)」というところから始まるものであった。

(12) 普遍の定義において、注(6)で指摘したようにアベラ ールが意識して「複数のものに述べられ得る」と可能様相 で語る時、音声はいつもあるわけではないこと、いつも述 べられているとは限らないことをも含意していたと思われ る。

(13) 〈status〉と〈rerum natura〉 の区別、および前者 が言語的把握の対象となった〈こと〉である点については、 さしあたり清水[1987:29-34]を参照。ただし、同論文にお いて「我々はまた、人という種別のもとに置かれているも のども自体を人の事態と呼び得るわけでもない(清水[1987: 31;34])」と否定文に訳した読み方は、これを機会に訂正し ておきたい。すなわち「人という類別のもとに置かれてい る諸個体そのものを人の事態と呼ぶことも可能である」と 読み、ここでアベラールは本論にて提示した「事態」の用 法(〈こと〉を指す)とは別の使い方(グループ分けされ た諸個物を指す)も有り得る(彼がそう使っているわけで はないが)としている、と解釈を改訂する。〈status〉論については諸研究もあり、より詳細な検討が必要であるが、それは別の機会に行いたい。

(14) このうち(1) と(2) の区別は諸研究者(Fumagalli[ 1969];De Rijk[1967,1986];Tweedale[1976]等)に対して私 が挑戦ている論点であるが、ここでは議論を省く。

(15) MS Paris BN lat.3237,fol123rb-va fol.125rb.岩熊 幸男氏に同写本についての情報および氏の手になる校訂原 稿を提供していただいた。なお Iwakuma[Vocales]参照。

(16) アンセルムスがロセリヌスの言語把握をこう表現した のは、この意味で適切だったのかもしれない。

(17) ことばの設置者・案出者について考えるという点は、 旧約聖書創世記におけるアダムによる命名の故事に触発さ れた論点であって、それが当時の文法学・弁証学の議論に 組み入れられたものと思われる。また、『命題論』の ad placitum という表現へのボエテイウスによる注釈に遡源するする面もある。 なお、ことばの設置は、 九世紀の Fredegisusの表示理論においては、むしろ創造に先立 って、神によってなされたこととされていた(Fredegisus:134)。

(18) アベラールの諸著作の執筆年代については、Mews[19 84][1985]に依った。

(19) この点に限っていえば、アンセルムスにも同様の並立 が見られる(Monologion 10)。

(20) King[1982:500]は、LIとLNPSの差を認めない論 を展開する中で、アベラールはここでもなお「否」と言っ ていると看做し、かつそう言ったのは不整合だと評価する。 私は「応」と答えるのが整合的だと解する点では Kingに賛 成するが、「否」と言っているという解釈には同意しない。


参照文献

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-- --, Editio: Editio super Aristotelem de interpretatione, in Pietro Abelardo. Scritti di logica, ed. M. Dal Pra, Rome-Milan 1969.

-- --, Gl.sec.voc.: Glossae super Porphyrium secundum vocales, in:Opusculo inedito di Abelardo, ed. C. Ottaviano, Florence 1933,95-207.

-- --, LI: Logica `Ingredientibus', in: Peter Abaelards philosophishe Schriften I, hrsg.von Bernhard Geyer,(Beitra"ge zur Geschichite der Philosophie des Mittelalters,21-1,21-2,21-3 (1919).

-- --, LNPS:Logica `Nostrorum petitioni sociorum', in: Peter Abaelards philosophishe Schriften II, hrsg.von Bernhard Geyer,( Beitra"ge zur Geschichite der Philosophie des Mittelalters, 21-4 (1933).

-- --, T.de Int: Tractatus de Intellectibus, in: Lucia Urbani Ulivi, La Psicologia di Abelardo e il "Tractatus de intellectibus", Roma 1976,102-127. Fredegisus: Fridugiso di Tours e il "de substantia nihili et tenebrarum", ed.Concettina Gennaro, Padova 1963.

Fumagalli[1969]: Maria Teresa Beonio-Brocchieri Fumagalli, The Logic of Abelard (transl. by Simon Pleasance).

De Rijk[1967]: L.M.de Rijk, Logica Modernorum II- 1: The Origin and Early Development of the Theory of Supposition, Assen 1967.

De Rijk[1986]: -- --, Peter Abelard's Semantics and His Doctrine of Being, in: Vivarium, 24-2 (1986), 85-127.

Iwakuma[vocales]: Iwakuma Yukio, Vocales, or early nominalists, to appear in Traditio. なお岩熊幸男「 《唯名論》の成立と展開」(『中世思想研究』32,1990 135-142)も参照。

King[1982]: Peter O. King, Peter Abailard and the Problem of Universals, A dissertation presented to the Faculty of Princeton University,1982.

Mews[1984]: Constant J. Mews, A neglected gloss on the 《Isagoge》 by Peter Abelard, in: Freiburger Zeitschrift fu"r Theologie und Philosophie, 31 (1984), 35-55.

Mews[1985]: -- --, On Dating the Works of Peter Abelard, in:Archives d'histoire doctrinale et litte'raire du moyen a^ge, 52(1985), 73-134. Mews[1987]: -- --, Aspects of the Evolution of Peter Abaelard's Thought on Signification and Predication, in: Gilbert de Poitiers et ses contemporains, ed. J.Jolivet and A. de Libera, Napoli 1987, 15-41 Mews[1991]: -- --, Nominalism and Theology before Abaelard: New Light on Roscelin of Compiegne, a paper read at the International Conference on Medieval Nominalism (Madison, WI. USA 3-5 October 1991).

Reiners[1910]: Joseph Reiners, Der Nominalismus in der Fru" hscholastik. Ein Beitrag zur Geschichite der Universalienfrage im Mittelalter. Nebst einer Textesausgabe des Briefes Roscelins an Aba"lard, in: Beitra"ge zur Geschichte der Philosophie des Mittelalters, 8-5 (Mu" nster 1910), 1-80.

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清水[1987]: 清水哲郎 言語と概念の存在空間を拓くこと― アベラールにおける普遍の表示作用―(『北海道大学文学部 紀要』35ノ2,1-42.

清水[1990]: -- -- 『オッカムの言語哲学』(勁草書房)

清水[1995]: Shimizu T, From Vocalism to Nominalism: Progression in Abaelard's Theory of Signification (DIDASCALIA 1 1995)