〈CREATIO EX NIHILO〉思想の成立


これは、'98後期開講の「哲学思想概論II」の資料の一部である

イオニア学派 タレス−アナクシマンドロスが哲学の初めとされたのは、〈アルケー〉 を問題にしたからだという。アルケーを問うのがなぜ哲学の初めか。(この辺のところは清水「ロゴスの遍歴」(『岩波 新・哲学講義 1 ロゴス その死と再生』所収)を参照。)                       この両方が、イオニア自然学派では未分化のままあったと見るのが穏当だろう。

arche : Anaximandros が初めてアルケ−という語を使って問題を提示したといわ れる。それは万物の「そこからex」生成し「それへeis 」と消滅するところのそれ。

初期キリスト教思想の形成途上で、この問いへの解答が試みられた。その最終的到達点が「無からの創造」思想であった、ということを、以下提示する。


初期の試み

神から・神へ  この問いをbとして受け取ると、答は 1Cor.8:6:

「我々には父なる唯一の神があるのみ、万物は〈そこから(ex hou)〉 であり、我々も 〈それに(eis auton)〉である。また唯 一の主イエス・キリストがあるのみ、万物は〈それによって(di hou)〉であり、我々 も〈それによって(di autou)〉 である」

#使徒行伝が伝える、パウロの演説中のギリシア詩人からの引用「私たちも神のうちに \ldots \ldots ある」も参照。

またJoh. 1,1- 「初めに(en arche)ロゴスがあった。\ldots \ldots 万物はこれによって生成した (panta di autou egeneto)。」

アルケーは父なる神だということになる。これに対し(exでも eisでもなく)diaによって導入されるロゴス=キリストが、「アルケーにおいて(en)ある」ものとして提示される。

「アルケーはロゴスであった」とではなく、「アルケーにおいてロゴスがあった」と言っているので、アルケーへの問いにたいして、「ロゴス」と答えていると直ちに言うのはまずいかもしれない。(しかし、後にアウグスティヌスはそう答えているようだ−−−これは「初めに(アルケーにおいて)神は天と地を創造された」(Gen.1,1) を「ことばによる世界創造」と解することと連動している)。

質料からではなく無から この問いを aとして解した際の答が、creatio ex nihilo 無からの創造。

何かカオス的な材料として、水とか、4元素とか原子とか、また、無限定ななにかがあ ったのではない。材料すらなかったというのである。但し、初めからこういう思想が あったのではない。 ユダヤ教の伝統の中では、旧約外典 2マカベア書の言及が最初だとされる。また初期 キリスト教の最古の言及は『ヘルマスの牧者』戒命1とされる。

「子よ、天と地を眺め、それらの内にあるすべてのものを見よ、そして、 それらのものを神は存在しているものどもから造ったのでない(または存在せぬもの から造った)ことを知れ」(第二マカベア 7:28)

「彼(=神)がすべてのものを創造し、整理し、すべてのものを存在せぬものから存 在へと(ek toy me ontos eis to einai)造った」(ヘルマスの牧者 戒命一)

ただしこれらは信仰告白的文章の一部をなす簡単な文でしかなく、どれほどの強い意味 を込めているのかは不確定である。さらに、『ヘルマスの牧者』の言い回し〈メー ・オン〉はプラトン的用語法などからすれば、必ずしも「無」という意味になら ない。


「はじめに神は・・・」

二世紀の教父たちの思想を調べると、そこには思索の進展が見られる。それは、創世記冒頭の「はじめに神は天と地を造った」という言葉の解釈の歴史でもある。

フィロン
教父たちに先立つ、イエスと同時代の、アレクサンドリアのフィロンが解釈史としては重要(これについては、前掲書P43あたりを参照せよ)。彼は、プラトンの『ティマイオス』をベースにして、イデア界の創造とそれを原型とする実在界の創造という二段階の創造説をとり、イデアを携え、無形の質料を材料に世界を製作するデーミウルゴスの働きを考えた。

ユスティノス
ユスティノスは、先在する質料を認めていたようだ:

「教えによれば、神は善なるかたであるがゆえに、人間のため、はじめに無形の質料 から万物を造られたのです panta ten archen \ldots demioyrgesai auton ex amorphoy hyles 」
(Iustinus, {\it Apol.1} 10.2, 59.1, 67,8: PG 6, 340C. また 同書 59.1, 67.8 にも同様の考えが表明されている。 柴田有訳『キリスト教教父著作集』1 教文館 一九九二年 所収)

アテナゴラス
アテナゴラスは神と質料を差異化し、陶工と粘土になぞらえる。神は質料に対して制作者(demioyrgos)である。だからもし私たちが神々を質料からなる形(質料の下位区分)の ように考えるならば、私たちは神の存在についてまったく愚かしく思いなしているこ とになる(Atenagoras,{\it Legatio pro christianis} 15-: PG6,920A-C)。

さらにアルケーを問い、質料・水がそれだというギリシア的思想に対峙するが、 アテナゴラスは「質料に先だって、それを用いて万物を制作する神が有らねばならぬ」とは主張しているが、「神はその質料をも造った」とは明示的には言っていない:

「オルフェウスによれば水が万物のアルケーであって、・・・」(ibid.926C-928C)

「水から成った神々にいかなる質料が先立つのか。だが水も万物のアルケーではない。というのは単純な、単一のかたちの要素から何が成り得るだろうか。 つまり、質料(材料)には作者が必要であり、作者には質料が必要なのだ。
・・・・また質料の方が神よりも先立っているというのは理に合わない。なぜなら作動 因が生成物に先だって有り始めていることが必然だからだ」(ibid.930B)

テオフィロス
Theophilusに無からの創造の定式化がある(Ad Autolycum, lib.1,4: PG 6,1030B.参照)。後の Origenes などもこの立場で論じている。

「神はすべてのものを存在せぬものから存在へと造った(epoiesen ex oych onton eis to einai)」(Theophilus,Ad Autolycum, 1,4: PG 6,1030B.)

「何も神と一緒にあったわけではなく、神は何も必要としなかった。・・・・生成したものは他のものを要するが、生成したのではないものは他のものを要しないのである。 そこで神には自らの ・・・ ロゴスがあり、これを自らの知恵とともに産出し、全体 に先だって発出した。・・・ このロゴスによって万物を造った。これがアルケーと呼 ばれる-----これこそが自らによって制作された万物の初め(根拠)であり、主であるか らだ。」(ibid.2.10: 1064B-C.)

アルケーはロゴス こうした主張の背景にあるのはヨハネ伝冒頭であるとともに、箴言八章22-31節である。つまり、これらを使ってロゴスがアルケーであるとするのである。

典拠のひとつである、箴言八章の〈知恵〉が語る言葉の一部(22---31節):

「主は、その途のアルケーなる私を創り出した、/その御業のために。
世(アイオーン)に先立って、アルケーのうちに私の基礎を置いた。
地を造るに先立ち、深淵を造るに先立ち、
水の源が現れるに先立ち、山々の基を据えるに先立ち、
すべての丘に先立って、私を産んだ。」(22---25節 七十人訳にしたがう試訳)

「アルケーなる私を」は「その途のはじめに、私を」と訳すのが素直かもしれないが、本論の筋に沿えばこのようにも読めるというところをあえて示した。 つまり知恵(sophia)がアルケーであることになり、その知恵をロゴスと重ねる。

あるいは、その重ね合わせにヨハネの「アルケーにおいて(アルケーのうちに)ロゴスがあった」を使っているのかもしれない。つまり、「知恵の内にロゴスがある」のだから 上の引用のように「神は、ロゴスを知恵とともに産出し、万物に先立って発出した」といえるのである。

〈アルケー=ロゴス〉における創造 テオフィロスはさらに創世記冒頭の句「初めに(=アルケーにおいて)神は天と地を造られた」を

「自らのロゴスにおいて神は天と地とそのなかにあるものを造られた」(ibid.1066A)

とパラフレイズする。

続いて「地は見えず、混沌としており、闇が深淵の上にあり、神の霊が 水の上をおおっていた」については:

「(ここで)神の書は質料を何らか生成したものと、つまり神によって造られたものとして教える。この質料をつかって神は世界を造り、制作したのである。」(ibid.1066B)

つまり(アテナゴラスの主張よりさらに一歩踏み込んで)、神は制作者でもあるには違いないが、その制作に使用した質料をも、世界の制作に先立って造ったということを創世記解釈として提示している。

このように、テオフィロスが無からの創造を主張した際には、彼は何がアルケーであ るかに注目しており、ロゴスがそれだとしつつ、質料はアルケーではなく、むしろ創 られたものだとするという文脈で思索をしていたことが明らかである。

ロゴスによる創造・無からの創造という思想伝統

テオフィロスに見られる思想は、万物のアルケーをロゴスとするとともに、質料という観点では何者もアルケーではありえないこと、つまり万物が「そこから」生成してくるという「そこ」は質料面にはないことをいうものである。つまり、無形の質料の先在を否定するところに「無から」という定式の意味がある。この思想伝統は教父たちに受け継がれていく。例えば、次のアウグスティヌスのことばはまさしくこの思想伝統を反映している。

アウグスティヌス『告白』第十一巻より:

「神よ、どのようにしてあなたは天地をお造りになったのでしょうか。
天と地を、天と地においてお造りになったのでないことは、たしかです。気や水においてお造りになったのでないことも、たしかです。なぜならば、これらのものもやはり天と地に属するのですから。世界全体を、世界全体においてお造りになったのでもありません。というのもそれは、存在すべく生成する以前には、生成すべき場所にまだなかったのですから。
また、あなたが手に何かを保持しておられ、それから天と地とを造られたというのでもありません。というのも、あなたがそれを造られたのではなく、それから別の何かを造られたというそのものは、どこからあなたのもとにきたというのでしょう。というのも、あなたが存在するからというのでなければ、いったい何が存在するというのでしょう。
従って、あなたが語られ、そしてそれらは造られたのです。
あなたはあなたの言葉において、それらをお造りになったのです。」( Confessiones, XI,V.7. ほぼ山田晶訳(中央公論社『世界の名著14 アウグスティヌス』所収)に従って引用してある。)