------使徒行伝17章22-31節
ここでは使徒行伝の描く、パウロのギリシア哲学との出会いを題材に、初期キリスト 教のギリシア哲学への姿勢の取り方を検討する。 *より詳しくは、次の拙論参照:清水「アテネのパウロ」(思想とキリスト教研究会『途上』19, 20所収)。
22 アテネの方々よ、万事についてあなたがたは神々を怖れること大であると私は考える。
23 というのは、私は道を歩き、あなたがたの崇拝するものを見ていて、
また(次のような)祭壇をも見出したからである/それにはこう書かれてあった:「知られざる神へ」。
そこであなたが知らずに崇拝しているもの------それを私はあなたがたに伝える。
24 その神すなわち世界とそのなかにある全てを造った者は、天と地の主であって、手で造った宮には住まない、
25 また、人の手によって仕えられる------彼が何かを欠いている(欲しがっている)(という状況にある)ゆえに------ということもない、
(そうではないのはむしろ)彼自ら全てのものに生命や息や(その他)全てを与える
(という状況にある)ゆえにである。
26 また(神は)一人から人間の全ての種族を造り出した/地の全表面に住
むように、/(その際)定めた/順序立てた諸時と彼らの住む所の境界を、/
27 神を探求するように、
/実際もしかするとそれ(神)を感じ、見出すこともあろう
/また実際(神は)我々一人一人から遠く離れてあるのではないのだから。
28 「というのも、そのなかに我々は生き、動き、あるのだから」
このようにあなたがたの仲間の詩人のあるものたちが語っている、
「というのも、我々もまたそのゲノスなのだから」
29 こうして神のゲノスである我々 は、認めるべきではない /金あるいは銀あるいは石に、(すなわち)人の技術と考え(観念)が印刻されたもの に/神というものは類似していると。
30 無知の時代を見過ごした(aor.part)神は、今や勧告している(pre.ind)
/人間たちに/全て(の人)が何処においても(または 全面的に)悔い改
めることを/
31 すなわち次のようにして:
(神は) 日を定めた(aor.ind) /その日に(神は) 裁こうとしている(pre.ind+inf) /
世界を/
ディカイオシュネーにおいて/(神が)定めた(aor.ind) 人において/
(神は) ピスティスを全て(の人)に提示した(aor.part)/(神は) 彼を死者達
の中からよみがえらせた(aor.part)。
[ユスティノスより]
中でもソクラテスはこのことを誰よりも精力的に試みたので、我々キリスト者と同 じ罪で訴えられた。すなわち彼は新しい神(カイナ・ダイモニア)を導入し、国家の認 める神々を信じない、と言われたのであった。ソクラテスは、ホメロスもその他の詩人 達も国家から追い出しつつ、詩人達が語っているような振る舞いをする、卑小なダイ モーン達を退けるように人々に教えると共に、未だ人々の知らない神(テオス・アグ ノーストス)をロゴスの探求により知るように勧めて、次のように言った。『一切のも のの父にして、また創造者であるものを見出すことは容易でなく、見出したとしても、 それを人々に語ることも安全ではない。』(II Apol. 10)ギリシア的神々の否定と「知られざる神=テオス・アグノーストス」の探求の勧め、 という骨子において、パウロのアテネ演説と一致。
ただし、パウロにおいては、人々の宗教的態度ないし神観に焦点が合わせられていたのに対し、ユスティノスにおいては、卑小な神々対唯一の神という対比の面が強い。
また、ユスティノス描くところのソクラテスは「神を見出すことは難しい」というが、
パウロは「見出すこともある」と言う。
さらに、ユスティノスのこの文脈での関心は、「ロゴス」にあったわけだが、それ
はパウロのアテネ演説にはもちろん登場しない。
こういったずれはあるにしても、我々はユスティノスのソクラテス観が何らか、ル
カのパウロ観と関係していることは認めて良いであろう。
ユスティノスによると、ソクラテスはいわばキリスト以前のキリスト者。
アテネにおけるパウロの活動とソクラテスの裁判との間には次のような対応が見られ る。
以後展開されるギリシア教父の探求の線は、このアテネのパウロにおいて決まるとい
って過言ではない。ギリシアの宗教・思想をどう批判し、あるいはどう取り入れるか
という点において、知られざる神をいかに探求するかという点において、教父たちが
したことはパウロの演説の枠内におさまる。その探求が否定神学として、また人間が
神となるというテオーシスの道行きとして描かれる場合にも、神のゲノスである人間
が神とホモイオスになるという仕方で提示されるという点では、既に本演説の中で、
神探求−発見の可能性の根拠の延長上で語られたことの展開といえよう。
中世哲学に多大な影響を与えた五世紀の或る文書群が、パウロの演説を聞いて従った少
数の者として名が挙げられた、アレオパゴスのディオニュシオスに擬して記されたも
のだったということが、このことを象徴的に表わしている。