使徒行伝17章22-31節注


22:「おおいに神々を怖れる」deisidaimonesteros は 肯定的に訳すと:「宗教心に厚い」; 否定的に訳すと:「迷信深い」。これの理由 として23節があるところから、直訳的意味がもっとも適当と解した。

23:「知られざる神々へ」と複数形をとる祭壇があったこと が知られている。祭り損ねることのないようにするやり方。パウロはこれを神を 怖れる態度の現れとしつつ、単数形にして自らが宣べ伝えようとする神に話を持って いくというレトリックを使っている。

25:「神には欠けたところがあり、人間の 奉仕が有効だ」という見解は、「取引き」する姿勢を伴う。その不成立を指摘している。神を相手に取引き出来ると考える際には、取引き相手である 「神」は基本的に 人間と同程度の存在者と看做している。また神が人間に対し「見返りを求めずに善を 与えよう」という姿勢ではなく、「善には善をもって、また悪には悪をもって応えよ う」という姿勢で向かっていると看做してもいる。

27: 神は人間を造り、地上においたが、そ れは神を探求するようにと期待してのことだとしている。神を相手に <取引き> が否定され、 <探求> が勧められている。人格間のコミュニケーションのあり方につ いて。現実はコミュニケーションが成立していないという状況にあり、したがって神 とのコミュニケーションを拓こうと求めることこそが先ず為されねばならないといっ ている。

27: 探求が成功し、神と人間とのコミュニケーションが成り立つことが可能であることが言われているはずである。

27: この理由は、探求の対象である神との出会いの可能性があることの理由。

28: この引用は、パウロがギリシア文芸からの一節を援用することによって、直前(27節)のパウロ自身の主張「神は人間から遠く離れているのではない」を聴衆に受け容れさせようとするレトリックである。

28: この引用は先のの引用と並んで、27節を裏付けているようにもみえる。しかし、レトリックの構造から言って次のように解すべきだろう。すなわち、最初の引用と関連しつつも、少しずれる第二の引用をすることによって、パウロは次の自分の主張(「神のゲノスである我々」)の導入を図り、かつこの主張に対する、聴衆に訴える裏付けとした。つまりここには、

  パウロの第一の主張−第一主張を聴衆に訴える、詩人からの第一の引用、
  パウロの第二の主張を聴衆に訴える、詩人からの第二の引用---第二主張

という、主張と引用の交叉構造を認めるべきである。「ゲノス」については次注以下 参照。

29:「神のゲノスである我々」という思想は、詩人の引用から受け継がれた言回しに過ぎないのではなく、むしろ引用から独立にパウロの主張であり、かえってこれを聴衆に訴えるために先の引用が採用されたと解すべきである。「人は神のゲノスだ」は29節全体の解釈と連動して解される。さしあたりこれは七十人訳聖書の創世記第一章25〜26節を背景とするとの仮説を提案する。そこでは神が動物等の様々なものを「種類に従って(kata genos)造った」のち、人間を「我々(神)の似姿 で、我々に類似させて(kata eikona hemeteran kai kat' homoiosin)造る」ことを企てたとされる。ギリシア語七十人訳でこれらのkata ... を比較するならば、パウロはこれを、人間もまたカタ・ゲノスに造られたのだが、人間の場合は特にカタ・ゲノスはカタ・ホモイオーシン等と言い替えられていると解したのではないか。すなわち、人間の <ゲノス> は <神のかたち> だということになる。ここから「人間は神のゲノスだ」という主張までは、何らかの 解釈によって容易に辿り着けるであろう。

29: 「印刻されたもの」と訳した「カラグマcharagma」は通常「(金、銀、石の)像」と訳され、神像を指すものと理解される。しかし「カラグマ」はimprinted(印刻された)という意味が基本であるらしく、もともと蛇の噛み跡(すな わちこれが「蛇のカラグマ」)などに使われる(ヨハネ黙示録(13,16 etc.) に「右手 か額に刻印を押させた」etc.とあるのがその用例)。

ところが、バウアーは第二の意味として、thing, formed, image in the representative arts というのを考え出し、an image formed by artを指すとしてい る。そして、バウアーはこの意味でカラグマが使われる用例として、本箇所を指摘す る。しかし、この第二の意味の用例は本箇所一か所でしかない。かつ、古典ギリシア 語の辞典にも教父の用例(Patristic Greek Lexicon) にもこのような用法は出ていな い。ということは、バウアーは、まさに目下の箇所の「カラグマ」は「像」という意 味で解釈したからこそ、そしてまたその理由でのみ、この第二の意味を辞典に収録し たということなのだ。ということは、もし目下の箇所を「カラグマ」本来の第一の 意味で解し得るならば、「カラグマ=像」という用法は空中分解してしまうというこ とにもなる。

実際ここは第一の意味で通しても、整合的な解釈が成り立つ。パウロは確かに「金や 銀や石に」と言って、神々の像のことを指している。パウロは「金、銀、石に」と言 って神像を指した上で、それらは一体何であるかについて「すなわち、人間の技術や 考えのカラグマに」と説明を加える。しかしここではカラグマは「像」という意味で ある必要はない。むしろ、神々の像は人間の技術・考えの印であって、かつ人間の技 術・考えが材料(金、銀、石)に向かって発揮されて出来た爪跡にほかならない------ このことは単に、神像が人間の技巧的能力・芸術的想像力の作品だということを語る ばかりではなく、これが神々の姿だとして描き出されたものに、人間の技術が、ある いは人間が考えていることが刻印されているということが語られている。すな わち、そこに描き出された神々は、武器を持ち、商才を発揮し、あるいは美によって 誘う神々であって、まさにそのような姿は人間的な営みの印にほかならない。

29:「神というもの」テイオンという語が使われる。演説の中で、これまでは「この神は(ホ・テオス)」といって、パウロが信じる神について語って来た。それに対し、ここでは、その彼の伝える神(ホ・テオス)をどう理解するかという仕方でではなく、「神というものテイオン」について、つまりギリシアの人々が神について抱いている一般的観念が問題になる。「神というもの」についてのギリシア的な観念はそのままに、天地の造り主で云々というパウロの説明を付けて、今パウロがテーマとしている神(ホ・テオス)を理解するといった受容のされ方をしないようにと防御している。

 「人間は神に似たもの(ホモイオス)である」

という(「人間は神のゲノス」という主張の背後に我々が見出した)パウロの主張が、

 「人間のカラグマに神は似たもの(ホモイオス)である」

という(パウロが指摘する)ギリシア的観念を否定する理由となるのは次のようにし てであろう。

パウロは「人が神に似ている」というのに対し、パウロが描くところのギリシア的観念においては「神が人に似ている」という。両者は同じことではない、と見る観点からこの差異を見るべきだろう。つまり、いわば 「オリジナル」と「それに似たもの」があるのであって、「後者(似たもの)に前者(オリジナル)が似ている」とは言えないような <似ている=ホモイオス> の使い方をしていると解される。

加えて、ギリシア的観念においては、神は単に「人に似ている」とではなく、「人間 の技術や考えのカラグマに似ている」と言われる。パウロはギリシア的観念が描き出 す神像を、人間のいわば程度の低い営みが反映しているものと見て、カラグマという 語を使っているのではないか。というのは、ここで「(人間の)考え=エンテュメー シス」は少なくとも、七十人訳や新約聖書ではあまり良い意味で使われる語ではない からである。「カラグマ」も既に触れたように良い意味とは言えない。つまり、ギリ シアの人々が描き出した神像は、パウロから見れば、神の似姿ではあっても、神では ない人間の卑小な、愚かな部分の、いわば咬み跡である。しかもそれをオリジナルと して、神はそれに似ていると彼らは思っている------このように二重の意味で神を人 間以下のものとして想像する姿が指摘され、拒否されている。

31:「ディカイオシュネーにおいて」は「ピスティスを提示した」につながり、ロマ書のピスティスによるディカイオシュネーという思想と一致する。通常の「その確証を示した」等の訳は間違いである。

31:「定めた人において」は、「彼を死者たちの中から よみがえらせた」と連動し、ロマ書1,4 tou horistentos phiou theou と一致する。