revised 21 July 2004

「イギリス革命」の変貌 修正主義の歴史学

近藤 和彦


『思想』 964号2004年8月)

はじめに

 一七世紀イギリスの歴史は、王権と議会、二つの革命、信仰と政治、そしてアメリカ植民地の建設、オランダ・フランスとの競合、といったテーマに事欠かず、近代歴史学の成立いらい大きな関心事であり続けた。クラレンドンやヒューム、マコーリといった同国人にとっては言うまでもなく、ランケ、カザミアン、そして大塚久雄といった外国の歴史家にも特別の意味をもっていたのである。文明の進歩、近代の天路歴程に関心をもつ者ならだれしも、一七世紀イギリスについて一定の像を結んでいたと言ってもよい。

 この一七世紀イギリスについて、とりわけ一九七〇年代なかばからは、英米で以前にもまして論争的に実証研究が進展し、その後二〇数年をへて今ではすっかり相貌が変わってしまった。かつての「大きな物語」を否定して歴史の情況性を強調する一群の実証研究は修正主義と呼ばれているが、この修正主義の蓄積によって、かつて学校で教えられた「ピューリタン革命」あるいは「イギリス市民革命」といった概念はそのままでは通用しなくなってしまったのである。一七世紀なかばのイギリス史を進歩的なピューリタンと反動的な絶対王制の対立、あるいは中産的生産者からなる議会派と、前期的な王党派、といった二極の対立で説明し、後者の不条理、前者の必然的な勝利をとくことは、いまや不可能となった。生産的で勤勉なピューリタンが正しい歴史を推進し、アングリカンが絶対主義宮廷に寄生しつつこれを抑圧するといった一七世紀イギリス像は、いまやほとんど戯画に等しい。旧来の学校教科書における明快な「筋書き」がなくなって、一時期はイギリス本国でさえ、どうやって教えればよいのか、と教員が当惑したほどである。

 一九七〇年代というのは、振り返ってみると、あらゆる分野で知の枠組が大きく変化した年代であった。もちろんこれには六〇年代からの連続という側面があり、また変化がひろく認知されるのは遅れて八〇年代のことかもしれない。とくに歴史学について考えた場合、社会史、文化史、世界システムが語られ勢いをえたのは一九七〇年代であったが、その萌芽ないし前兆は当然ながら、それ以前からあった。英米の修正主義は、すでにひろく影響のおよんでいた社会史にたいするアカデミズムの反動という側面をもっていたことは否定できない。ただし、この修正は一七世紀イギリスにおいて革命的な変革があったことを否定するものではない。それがピューリタンによって推進された/社会構成体の矛盾に根拠をもつ/必然的な革命だという理論・解釈を否認するものなのである。

 念のために、現代日本の歴史教育において唱えられている「自由主義史観」による「修正主義」との異同を明示しておこう。英米のリヴィジョニズムは、反進歩主義・反マルクス主義であるという点で日本の「修正主義」と似ているが、しかし、一群のリベラル派からなるアカデミズム主流の実証主義である。その立場は反ロマン主義、反民族主義、多文化主義であり、地方分権であり、近隣との友愛か、さもなければ相互理解を希求する営みである。

 一七世紀イギリス像を「革命的」に転換させた修正主義者の一人であるジョン・モリル (John Morrill) が二〇〇三年九月、国際交流基金の招聘により来日した。東京大学では「ブリテンの複合君主制 一五〇〇〜一七〇〇年」というテーマでセミナーを、京都国際交流会館では日英歴史家会議(AJC)の第二セッション「一七世紀ブリテンの革命再考」で基調報告をおこない、日本の研究者と熱心に議論し、交流した。そのときの原稿が討論をふまえて推敲されたうえ、註とともに本誌本号に翻訳される。この機会に、モリルに代表されるイギリス史の修正、革命像の変貌の意味を整理してみよう。  

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   →  John Morrill   → AJC2003  → 修正主義をこえて