2000. 1. 20 登載 / 2001. 1. 2 更新
これからどうなる 21 − 予測・主張・夢


岩波書店、2000年1月刊(書籍・CDとも)

近藤和彦 執筆の
後ろ向きに未来に入ってゆく」は下記をご覧下さい。
 

この本に、広い意味での歴史学関係では、
網野義彦、五十嵐武士、色川大吉、筒井清忠、二宮宏之、浜下武志、和田春樹
といった方々も執筆されていますが、
むしろ出版界やコンピュータ、テレビドラマの事情など、その他
ぼくのよく知らない領域における発言に
おもしろいものが多かったという印象です。
あるいは、ちょっとした統計グラフが啓発的だったりする。

コンピュータないしインターネットについては
積極派と消極派の二極分解があまりにも明白です。
CDrom版は URL集がついて、日本のことを調べるには、便利。
ためしに全文検索機能というのをつかってみると、
「歴史学」で近藤が出てこないのにびっくり。
あらためて自分のところを見なおすと、
たしかに歴史、歴史研究、歴史家とは書いているが、歴史学とは言ってなかった!
「教養主義」で検索すると、
ぼくと他の執筆者が違うニュアンスで論じていたりして、可笑しい。

発言・小品文 目次へ 

 


2001. 1. 2 登載
後ろ向きに未来に入ってゆく      近藤 和彦

 これからどうなる? 多少むずかしくても、もし確実に分かる方法があるなら、だれも悩まないだろう。じじつは、予測も展望もつかない。だから、わたしたちは後ろを振りかえる。

 たしかゲーテに「人が異郷に旅をしてもちかえるのは、じつは自分が本来もっていたもので、それ以上ではない」という言葉があった。これは自分についても、また周囲の人々についても当てはまることだな、と腑に落ちたことがある。過去という「異郷」への旅についても、事情はあまり変わらない。今ぼんやり幸せに生きている人は、ほんわかと気持のよい何かを過去に求め、それをえれば満足するだろう。

 ドイツでナチスが政権をとる一年前、一九三二年にフランスの詩人ヴァレリーは、リセ(高等中学校)の生徒たちに向かって「歴史についての講演」でこう呼びかけた。「諸君はこの世に生をうけて、きわめて興味深い一時代に参加しているのです。興味深い時代とは、いつも謎につつまれた時代であり、休息とか繁栄とか連続とか安全とかにあまり縁のない時代です。」

 だが、この講演を通じて歴史と歴史研究にたいするヴァレリーの評価は、やや消極的なように読める。「歴史とは二度と繰り返さないことに関する学問だから・・・過去の変遷の姿を考察するのは無駄なことだと思ってはなりません。」その結論は「歴史は・・・われわれに予見する力を与えることはほとんどないが、精神の独立と結びついたとき、よりよく物事をみる一助とはなりうる」ということのようだ(『ヴァレリー全集』一一巻、筑摩書房)。「精神の独立」が前提で、それがなければ過去の人類の経験(の知識)は意味をなさないという発想は、教養主義的な臭いがする。

 イギリスの歴史家E・H・カーは、一九三九年、第二次世界大戦の始まる年に『危機の二十年』を執筆して、第一次世界大戦以来の二十年間を考察したが、そのなかで「願望は思考の父である」と繰りかえしている。こうしたい、そうあれかし、という願望、夢、目的がなかったら、どうして人は考え続け、分析を貫くことができるだろう。錬金術師やユートピア社会を構想した人々、また平和会議に加わった政治家たちの例をあげながら、カーはこうまとめる。「未成年の思考は、どうしても目的(願望)にむかって走りがちとなり、いきおい際だってユートピア的となる。とはいえ、目的をまったく退ける思考は、老人の思考である。成年の思考は、目的を観察および分析と化合させる。」

 「自立した精神」とともに自らを頼みにすることのできる教養人は別にして、わたしたち凡人の場合は、願望、夢、目的にこだわることから始めるしかないのだろう。凡人ではあっても成年(大人)だから、これまでの経験や傷や夢を水に流したり、忘却したりするのでなく、むしろ観察し、分析し、これを願望や夢と化合させる。そうしてはじめて、何がどうだったのか、来しかたをしっかり理解し、把握し、これからに積極的に臨むことができる。これは個人史の場合も、人類のゆくえの場合も変わらないだろう。

 ヴァレリーの講演中、「われわれは後ろ向きに、後ずさりしながら未来に入ってゆく」という発言は、こういう意味で受けとめたい。

 cf. 『文明の表象 英国』 p.232.

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