文明の表象 英国山川出版社、1998)

近藤 和彦

      pp.231〜236


   『文明の表象 英国』 を閉じるにあたってをおき、思索の森をあちこちして、やや錯綜したかもしれない議論をまとめておきたい。小著の本体をなす三つの章は、それぞれ別の局面をあつかった論文をただ束ねたものではなく、むしろ、有機的に関係していた、その道程図をしめしておこう。聡明な読者にはくどいと思われるかもしれないが、この本の到達した地点を共通の前提に、ひろく批判的・建設的な論議が進展してほしいと考えるからである。

  では、狭義のイギリス史や日本思想史に関心のない読者をも想定しつつ、小著への導入を試みた。文明、英国、近代をめぐる表象が日本人にいかなる影をおとしてきたか、という問題である。さらに第一章以降では、歴史学が知的日本人の世界観や歴史認識をどう規定していたか、についても論じる。その歴史学とは、大学における専門的営為だけでなく、民間の史論もふくめて考えている。この本は狭義の史学史や史学論ではなく、現代イギリス、現代日本、そして現代文明の来しかた行く末を考えるための歴史的実践でもある。
 「私たちがどこから来たのかという信念は、私たちがどこへ行くのかという信念と離れがたく結ばれています」
と論じたE・H・カーの省察、ロンドンの下宿で
 「自ら得意になるなかれ。自ら棄るなかれ」
と書きつけた夏目漱石の思索ともあい通じるものでありたい。わたしたちはヴァレリとともに、 「後ずさりしながら未来に入ってゆく」。

  第一章では、一世を風靡した戦後史学を歴史的に位置づけ、それと対抗した浪漫派の歴史とともに、何を継承し、どう乗りこえることができるか、を考える。戦後史学は一九四五年以後に大きく広い影響をおよぼした特定の学派というよりは、むしろ福沢諭吉いらいの近代日本の啓蒙的な世界認識/自己了解が、両大戦間の知の成果を反芻摂取することによって、みずから洗練し、理論化したものである。章のタイトル「一日も早く文明開化の門に入らしめん」は福沢の言葉だが、これは近代日本の「洋学と戦後史学」に共通するスローガンだったといえる。昭和の青年知識人にとってマルクス主義のインパクトは決定的であり、これが啓蒙的文明論と歴史学派経済学を経由した日本の知的世界にどう受容されたか、その世界観の核心をなしたゆえんについても論じた。大戦間の学問とマルクス主義が日本だけの問題でなく、欧米や同時代の相対的後進国にも共通の情況があったことも示唆した。一九世紀から二〇世紀の各国の社会思想をみると、大きく近代派と浪漫派という二つの潮流が認められる。日本の歴史学においてその近代派を代表したのが戦後史学のうちでもとくに大塚史学であり、浪漫派を代表したのが越智を初めとする星菫派の歴史であった。

  英国史の表象という点でふりかえるなら、大塚の場合はイングランドの中産的生産者、結局は額に汗するピューリタン男性を中軸においた天路歴程(pilgrim's progress)である。押しも押されぬ彼らの子孫、captains of industry に健全な市民社会の夢が託された。ところが「営利活動が宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」といった資本主義の現状については、大塚は態度を保留する。大塚は脚が悪かったためもあり、学会発表のための旅行をのぞいて外国生活の経験はない。

  これにたいして英国文化振興会(British Council)留学生、越智武臣の描く英国像は、ジェントルマン的要素とピューリタン的要素の交錯からなる二元的なものである。けっして、ときに誤解されるように、ジェントルマン的アングリカン統治階級の連続だけを強調したものではない。対抗的にして清廉な decent man の伝統に目配りした歴史観であった。近年の日本のイギリス史では、産業的か、ジェントルマン的か、といった二律背反的な問題設定がされることもある。たしかに大塚史学への反証として、これは意味があるかもしれない。だが、第一に、これはほとんど大塚の登場とともに現われた実証批判(七二ページ以下)の再現にすぎず、大塚右派および民主近代派にとってイギリスは日本批判の準拠枠としてのみ問題なのであって、その社会の実態に関心はないのだから、効果がない。第二に、こちらのほうが重要だが、せっかくの越智の慧眼を無にする一面的で静態的な表象である。

  わたしはといえば、大塚左派とともに、システム論の流れをくむ「資本主義の世界体制論」から学びつつ、しかしそのあまりに経済決定論的な発想には距離をたもちたい。新しい歴史学を予知させる柴田三千雄の『近代世界と民衆運動』は、世界システム、国家編成、民衆文化を論じて読者の思考をうながす。その場合、ただ人々のローカルな生活、あるいは身と心のありかたを述べるのでなく、政治のダイナミックスと世界システムに議論をつなげようという柴田の意志は明らかである。この四百数十ページの歴史理論ノートは、しかし、「「文化」の問題の重要性を改めて痛感」したところで終わっていて、たとえば、公共性の表象などをめぐる論議、ましてやマキャヴェッリ的契機の思想史は顧慮されていない。もう一つ、川北稔『工業化の歴史的前提』は、「帝国とジェントルマン」をめぐる新しい歴史研究の可能性を例示しつつ(九九ページ)、すでに学界に強い影響力をおよぼしてきた。わたしの不満といえば、唯一、その新古典派経済学的発想である。

  第二章「パクス・ブリタニカへの途」では、こうした研究史の水準をふまえて、ヨーロッパのなかのイギリスを問題史的に素描してみた。時期としては、日本に南蛮人・毛唐人の渡来した一六世紀から、福沢・久米の訪英する一八六〇、七〇年代までにかぎり、またその間についても、精粗にむらがある。教科書的な叙述を目的としたのでなく、むしろ近年の研究で明らかになった興味深いトピックを中心に、福沢が「文明の政治」、戦後史学が「市民社会」として問題にしてきた圏域を浮き彫りにしたかったのである。あまりに経済史的な事項には立ち入らず、また「長い一八世紀」に比重がかかるという偏りは覆いようもない。それは個人的な関心のためでもあるが、ほかならぬ戦後史学の闘技場が一六〜一八世紀であったし、また最近の研究蓄積の反映でもある。なお、わたしもイギリス史のヘゲモニーにおけるジェントルマン的・国教会的リベラリズムと、ピューリタンの流れをくむノンコンフォーミズム(聖俗の非順応主義)との拮抗、そして両者の相補的ダイナミズムを示唆したい。近世と近代の連続断絶という議論は、なお今後につながる。

  第三章「複合社会のヘゲモニー」は、二〇世紀末に目を移して、一九八一年の二つの事件(と対策)を分析し、九七年のブレア政権の成立を、なぜ健全で賢明なイギリス国民の選択として歓迎できるのか、論じてみた。第二章とのあいだに長い時間的空隙があるではないか、と指摘されれば反論できない。これまた教科書的な通史ではないし、むしろ現代イギリスという複合社会において政治のヘゲモニーを行使しようとする集団を論じることに主眼がある。

  一六世紀いらいの歴史をふまえて指摘しておきたかったのは、1) 現代イギリスの主要なヘゲモニーにはリベラリズムと社会民主主義の二つがあり、この両者が競合し交渉するあいだに、本質的に別個の世界をなす「民のモラル」は包摂され、イギリス民主主義が展開してきたことである。リベラリズムは保守本流をなし、社会民主主義はノンコンフォーミズムの伝統をふまえる。2) サッチャリズムはこの両者の相補ゲームにたいする異議申立てであり、その意味でイギリス史の否定であったという点である。連合王国権力と家族のあいだに介在する市民的なものも民のモラルも認めないM・サッチャは、大都市の自治制度を解体し、スコットランド、ウェールズなどの分権運動を抑圧し、労働運動と闘った。北アイルランド問題を極端に緊迫させたのも彼女である。これにヨーロッパ統合反対や大学における人文学の冷遇も加わる。歴史の終焉、哲学の消滅のあとの世にはばかるのは、新古典派経済学である。サッチャリズムにおける国家権力と市場至上主義の共存。彼女の一一年間に保守本流のリベラリズムはほとんど死に瀕した。こうした情況を熟知しながら、日本のマスコミはサッチャリズムを礼讃し、他方で古き良き英国風生活なるものを賞揚してきたのである。

  実行力あるブレアを「人間の顔をしたサッチャ主義者」とよぶなら、有能な政治家はみなサッチャ主義者なのか。むしろ、ブレア率いる労働党は政治の手法においても理念においても、サッチャ時代の保守党およびその遺産とは異なる。リベラリズムが息を回復するまで、イギリスのヘゲモニーは社会民主主義に託された。そこにイギリス政治、そして現代文明の希望をみる。
 

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