『週刊読書人』恒例の〈上半期の収穫から〉に寄稿したものですが、

1986年8月からワープロで原稿(最初は英文)を書き始めたので、

これについては1987年7月の分から残っています。 → 1996年以降

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Copyright 近藤和彦 1987/2003
1987年上半期の収穫から〉
『週刊 読書人』1987年7月

 遅塚忠躬 『ロベスピエールとドリヴィエ』(東京大学出版会1986年11月
やがて二〇〇年祭をむかえるフランス革命の独自性を農民革命にもとめ、世界史における相対的後進性から熱烈に説く。日本の歴史学の水準と心意気をしめす力作で、この勢いに読者は圧倒される。

 ナタリー・デーヴィス/成瀬駒男・宮下志朗・高橋由美子訳『愚者の王国 異端の都市』(平凡社)
原題は「近世フランスにおける社会と文化」。本紙五月四日号でも紹介された通り、北米のもっとも良き歴史家の一人による、宗教改革期の民衆文化との対話。 

I・ウォーラーステイン/藤瀬浩司・麻沼賢彦・金井雄一訳『資本主義世界経済』(名古屋大学出版会)
どこかの文書館に身を沈めないような中世史家は決していい分析ができないだろう。だが同様に、今日の政治情況に身を沈めないような中世史家は、中世世界のきわめて明白な真実を感じとることもできないであろう。」 また「すべてのよき学問は論争的である」といっておいて、すぐに「だが論争的であればすべてよき学問だとはかぎらない」と付け加える。分析の単位を世界システムにおく著者の、至言が散りばめられている。

(こんどう・かずひこ 名古屋大学助教授・西洋史専攻)

 

1988年上半期の収穫から〉
『週刊 読書人』1988年7月

 ピーター・バーク/中村賢二郎・谷 泰 訳『ヨーロッパの民衆文化』(人文書院)
ケインブリジ歴史学の一つの傾向を代表する秀才による博覧強記の「二つの文化」論。時間的には啓蒙の十八世紀から宗教改革の十六世紀までさかのぼり、地理的には全ヨーロッパ、北はノルウェイから南はシチリアまで、西はアイルランドから東はウラル山脈までを見わたす。バークの眼は、多様でしたたかな民衆文化にむかい、これにかかわる知識人エリートの両棲類的でバイ・カルチュラルな身構えにむかい、両者の関係、その歴史的変化をみる自分のまなざしを冷静に相対化する。

 木村靖二 『兵士の革命・一九一八年ドイツ』(東京大学出版会)
今日の日本のドイツ革命および政治研究の第一人者が、ひとを圧倒する史料の海から、兵士たちの独自の世界、言動のシンボリズムをよみがえらせ、「彼らの革命」を論じる。木村氏の準拠するのはフランス、ロシア史で呈示されてきた複合革命論だ。

 森 建資 『雇用関係の生成』(木鐸社)。
権威関係によって成りたつ市民社会、その理論的究明がこの本の課題だ。独立の人格が雇用契約によって自発的に従属関係にはいりこむ、この(近代主義からみれば)不思議を規定する歴史・文化を、十七〜十九世紀イギリスの法律実務書、判例の分析によって濃密に解きあかす。

(こんどう・かずひこ=東京大学助教授・西洋史専攻)

 

1989年上半期の収穫から〉
『週刊 読書人』1989年7月

 柴田三千雄 『フランス革命』(岩波セミナーブックス)
一九八九年、フランス革命関係の出版がつづくが、一冊だけ挙げるとしたらこの本だろう。小冊ながら、著者の四〇年の研究生活のエランがこめられている。

 A・コルバン/山田登世子・鹿島茂訳『においの歴史』(新評論)
感覚的想像力にうったえる具体例を十八−十九世紀のフランス史にそくして展開する。方法的には、この間のヨーロッパ史で議論されている文化のコンセンサス論と階級的分化論を、歴史的に統合するパースペクティヴを呈示している。

 E・ホブズボーム/水田洋・安川悦子・堀田誠三訳『素朴な反逆者たち』(社会思想社)
従来の青木保(編訳)『反抗の原初形態』(中公新書)は、不正確にして不評なことこの上なく、ようやくにして今回まともな訳が出た。これを機会に若いホブズボームだけでなく、今のホブズボームのおもしろさも再評価されるべきだろう。

近藤和彦(東京大学助教授・西洋史)

 

1990年上半期の収穫から〉
『週刊 読書人』1990年7月

 谷川 稔ほか『規範としての文化』(平凡社)
知る人ぞ知る、京都で月例会を繰り返してきた近代社会史研究会の成果、三部作の第一弾。ほぼ十九世紀とその前後のヨーロッパとアメリカの広汎な題材をとって「文化統合の社会史」を分析する。十四名による現時点での実証史学の地平を示す論文集。ただ、せっかく大小のコンフリクトから解析していって明らかにされるのが、「統合」ないしヘゲモニーだけとは、さびしい。

 見市雅俊ほか『青い恐怖 白い街』(平凡社)
同じく三部作の第二弾。こちらは「コレラと近代ヨーロッパ」という副題をもつが、疫病の流行から都市空間と権力を照射していく五名による斬新な試み。ほとんどビョーキといえるほどのパトスが、実証的な章に挟まれてあふれ出る。

毛利健三 『イギリス福祉国家の研究』(東京大学出版会)
著者の年来の問題意識と実証研究の結実である。副題に「社会保障発達の諸画期」とあるが、通史ではない。サッチャー政権の歴史性をにらみつつ、現代の資本主義・国家・中間団体をめぐる理論的なパースペクティヴを提示しようとする力作である。

こんどう・かずひこ 東京大学助教授

 

1991年上半期の収穫から〉
『週刊 読書人』1991年7月

 石井 進 『中世を読み解く − 古文書入門』(東京大学出版会)
発掘品としての紙背文書からみた中世社会、支配者のもとに選択保存された伝世文書からみた領主・百姓関係。読者はこの碩学の想定講義の口吻につられて、日本中世の大事な部分に案内されてゆく。 

 木村和男 『連邦結成 − カナダの試練』(NHKブックス)
成立時から二つの民族、二つの言語、二つの宗教をもち、今や複合国家の希望(と絶望)の象徴のごときカナダ。一八六七年の自治領=連邦の成立にむかう植民地政治家たちの苦渋が、利害の人格化の闘争として描写されるが、しかし、著者の意図をこえて(?)彼らはあまりに個性豊かで魅力的だ。しっかりした世界史観にたつ、壮大な歴史ドラマ。

 大庭 健 『権力とはどんな力か』(勁草書房)
今日手にとったばかりだが、前著『他者とは誰のことか』につづいて「己れの位置をさぐりあてた」元全共闘=大学教師の舌鋒するどく、人−間のありようから権力の断層写真をとってみせる。ポイカート『ナチス・ドイツ−−ある近代』(三元社)のような近刊も、言及せずして相対化してくれる。

〈上半期の収穫から〉
92年分以降については、後日、補充します  →  1996年から

 

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『週刊読書人』 一九九〇年の回顧 = 西洋史

  一九九〇年は、西洋史の研究成果の豊富な年であった。

  シリーズ〈世界史への問い〉(全十巻、岩波書店)は八九年に始まり、来年に完結する予定だ。そのうち今年に刊行された巻名をしるすと、『生活の技術、生産の技術』『移動と交流』『規範と統合』『民衆文化』『権威と権力』『歴史のなかの地域』である。グローバルな広がりをもつ論考もあり、地域や時間は特定されていても目のさめるような分析があったりして、一つ一つ読者の知的想像力を刺激すること、この上ない。難点といえば、どの巻にどういう論文が入っているのか分かりにくいこと、文体があまりに多様なこと。全部で百をこえる章にフェミニズム関係が一つもないのも問題だ。要するに、シリーズとしての編集方針が見えにくい。やはり刊行継続中の週刊朝日百科〈世界の歴史〉(朝日新聞社)は、号によっては斬新な図版があり、インスピレーションに満ちている。

  去年のフランス革命二百周年記念シンポジウム(東京、京都)の報告集は、『思想』三月号に「特集・フランス革命と世界の近代化」として収録された。ここには市民社会派近代主義と、文化的アプローチとが呉越同舟している。L・ハントとC・ルーカスの報告、そして明治権力をめぐる議論は刺激的であった。『フランス革命の政治文化』(平凡社)の著者ハントは、この『思想』の特集号で、政体と身体性とをかけた「ボディ・ポリティク」を論じて、歴史学の最先端をうかがわせる。彼女の編集した『新しい文化史』はまもなく翻訳されるようだ。

  翻訳も多かったが、P・アリエス(福井憲彦訳)『図説 死の文化史』(日本エディタースクール出版部)のよく選ばれた図版は感動的ですらある。訳文は定評どおり読みやすい。福井には同じ出版部からでた『鏡としての歴史』という評論集もある。

  団塊の世代のリーダーシップによる三部作が平凡社からでた。谷川稔ほか『規範としての文化』、見市雅俊ほか『青い恐怖、白い街』、荻野美穂ほか『制度としての女』である。それぞれ「文化統合の近代史」「コレラ流行と近代ヨーロッパ」「性・産・家族の比較社会史」といった副題をもち、京都の近代社会史研究会のメンバーによる歴史学の近景をしめす。ただし、専門誌にでも載せたほうがよさそうな論文もあり、編集にやや甘さが残る。やはり関西で「文化社会史からの超学際」をとなえる河上倫逸を中心に『ユスティティア』(ミネルヴァ書房)が創刊された。

  それぞれの方面の第一人者による仕事もつづいて刊行された。樺山紘一『パリとアヴィニョン』(人文書院)は中世の知識人=官僚集団のプロソポグラフィ(伝記的分析)。越智武臣『近代英国の発見』(ミネルヴァ書房)は、戦後史学の彼方に立つことのできない世代の書物である。

  一国史をこえる広い構えによる研究はすでに定着している。イギリスから北アメリカへの奉公人移民を分析した川北稔『民衆の大英帝国』(岩波書店)は、食いはぐれた民衆のモビリティを明かすことによって、「近代イギリスの路地裏は、つねに帝国につながっていた」という著者の年来の主張を、結論としてみちびく。『十七・十八世紀大旅行記叢書』(全十巻、岩波書店)も刊行が始まった。オーソドックスな帝国主義研究としては、吉岡昭彦門下の桑原莞爾ほか『イギリス資本主義と帝国主義世界』(九州大学出版会)がある。杉原達『オリエントへの道』(藤原書店)は、バグダード鉄道をめぐるドイツ帝国主義の社会=政治史である。

  激動の中東欧についてルポルタージュのたぐいは多いが、一冊だけ挙げるなら、やはり和田春樹『ペレストロイカ 成果と危機』(岩波新書)であろう。菊地昌典(編)『社会主義と現代世界』全四巻(山川出版社)も時宜をえた出版であった。サッチャー首相の後任、メイジャーが二〇世紀の英首相として一番若いとされているが、ではイギリス議会史で一番若い首相はだれか。今夏から刊行の始まった〈世界歴史大系〉の『イギリス史』(全三巻、山川出版社)は、よく読みこむに値する。サッチャリズムの相対化ということでは、毛利健三『イギリス福祉国家の研究』(東京大学出版会)がもっとも重要。

  ヨーロッパの大きな動きをみる我々のほうのペレストロイカも必要かもしれない。そのさいに有益なのは二宮宏之(編)『深層のヨーロッパ』(山川出版社)である。これは阿部謹也、清水広一郎、川田順造、喜安朗、宮島喬ほか計十一名の執筆陣によるもので、テーマは人生の通過儀礼から農民の世界、シチリア、皇太子結婚式と都市暴動まで広がる。終章の対談では、二宮と近藤和彦が「ひとつのヨーロッパ、いくつものヨーロッパ」から「身体性と歴史の可能性」までを語り、「こだわりにこだわる」二人は、この対談をフェミニズム礼賛で締めている。なお地域と言語という論点では、原聖『周縁的文化の変貌』(三元社)が、ブルトン語運動のフランス文明との闘いを明らかにしてくれる。

  歴史学の新しい展開を語る場合に、案外に忘れがちなのはアメリカである。本間長世(編)『現代アメリカ史の再構築』(東京大学出版会)は、新しい波が日本のアメリカ史研究の岸にもヒタヒタと寄せていることを証してくれる。そうした意味でも、E・P・トムスンほか(野村達朗ほか編訳)『歴史家たち』(名古屋大学出版会)は、影響の広くおよぶことが期待される翻訳である。ここに収められたヨーロッパとアメリカの知識人十四名のインタヴューによって、冷戦時代も、ゴルバチョフも、そして上野千鶴子も相対化されている。

『週刊読書人』  一九九一年の回顧 = 西洋史

  一九八九年秋にはじまったシリーズ〈世界史への問い〉(全十巻、岩波書店)は、予定より少し遅れ、ようやく今年十月に完結した。最後の巻『国家と革命』の序章(板垣雄三)と、第二章「ロシア革命とボリシェヴィキ」の付記(石井規衛)には、この二年間の世界史の激動が反映している。いや、同じ二年間は板垣氏を激動させ、石井氏を冷静にさせたようだ。

  その石井氏は、ロシア革命とその過程にかかわった党を、ことに即して(冷たく?)叙述する。同じ巻の第三章で「ジャコバン主義」を論じる遅塚忠躬氏のモラーリッシュで熱い論調とは対照的である。この違いは、世代による学問の違いということだろうか。遅塚氏の文体と語彙には、どうしても戦後歴史学の最良の部分をささえた憂国の情と教養主義がにじみ出てしまう。フランスをはじめとする後進国の社会革命はリベラリズムを許容しえない、という結論をみちびくまでの議論のはこびには、いわばロベスピエール的悲壮感がただよう。これにたいして、七〇年代の政治的閉塞情況のなかでロシア革命の実証研究に沈潜していった石井氏の場合は、「ザハリッヒに語る以外にどうしろというんだ」と開き直ったようなところがある。

  この知的に緊迫した二論文を読んでから、同じ巻に所収のメキシコのカウディリョや宗教、イスラーム国家論などを読むと、ちょっとした旋回感がある。研究と方法の蓄積というか、書き手じしんの思考の成熟というか、日本の歴史学のありかたを考えるに、かなり真剣な問題ではないだろうか。また、同じシリーズの他の巻で論じられた問題や方法との関係がわかりにくい、という点にも、この〈世界史への問い〉の企画編集じたいのむずかしさ、そして歴史学の内外での対話のむずかしさが露呈している。

  歴史学のありかたを考える場合、福井憲彦ほか『歴史の重さ』(日本エディタースクール出版部)がもう一つの指針になりうる。これは、十九世紀のランケ史学からはじまってアカデミズム史学の中心にあった史学会が催した百年記念シンポジウムのひとつから生まれた本である。「ヨーロッパの政治文化を考える」という副題のとおり、ヨーロッパ近現代史の一線にある松村高夫、谷川稔、そして石井規衛の三氏が報告し、あと三名が加わってコメントとディスカッションをつづけたもの。イギリスの精神病院、フランス農村の小名士たち、ロシア革命による党=国家体制の成立、といったテーマからはじまり、戦後歴史学の政治性や、ソ連史の世界史的含意といった点にも論はおよぶ。史学会というより、いま四〇台の西洋史研究者がどういった地平で苦闘しているか、その証言として読むべきだろう。

  松村氏は、草光俊雄ほか『英国をみる』(リブロポート)にも寄稿している。これは、斉藤修「エンピリカルにしてリアルな歴史学」というエッセイを冒頭におく不思議な本だ。そもそも対象になっているイギリスじたい、ヨーロッパの極西の島国で、かつての世界帝国の遺産のうえに成りたち、その歴史も文化も独特としか言いようがない。そのイギリス的な知のありよう、アート・田園都市・病気・売春などから近代日本人との関係史まで、多様なテーマが十二人の著者によって論じられている。また、中村勝己『イギリス歴史紀行』(リブロポート)という写真集も出た。静かで美しい、ほとんど人の登場しない写真の数々とオーソドックスな文章が印象的だ。田中英夫(編)『英米法辞典』(東京大学出版会)は、三九年前の有斐閣版の全面改訂である。

  柿本昭人『健康と病のエピステーメー』(ミネルヴァ書房)は、去年の『青い恐怖、白い街』(平凡社)につづく単著。フーコーに学びながら近代を問いなおす、というのはいい。だが、密度と明快さという点では、残念ながら、D・ポイカート(木村靖二・山本秀行訳)『ナチス・ドイツ──ある近代の社会史』(三元社)のすばらしいアーギュメントとは比べものにならない。あいかわらず元気印なのは、山田登世子『メディア都市パリ』(青土社)、蔵持不三也『シャリヴァリ』(同文舘)。なお、C・L・R・ジェームズ(青木芳夫監訳)『ブラック・ジャコバン』(大村書店)も翻訳されて、カリブのトロツキストの古典が近づきやすくなった。

  長谷川博隆(編)『権力・知・日常』(名古屋大学出版会)は同じ編者、同じ出版会による論文集『ヨーロッパ』の続編。長谷川氏には『カルタゴ』(筑摩書房)もあり、古代フェニキア人のはるかな遠い世界を、こちらに呼び寄せてくれる。森田安一『スイス中世都市史研究』(山川出版社)のような、年来の仕事の集大成もあった。

  今年もさかんだった国際交流のうち、とくに指摘したいのは、現在の「アナール」を代表するR・シャルティエがイイチコ文化学賞を受けたことである。『季刊 iichiko』というおもしろい雑誌が続いているのはご存じのとおり。

                         近藤和彦(こんどう・かずひこ) 


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