『史学雑誌』99編7号(1990年7月)
S・ローバトム、L・シーガル、H・ウェインライト著
澤田美沙子、坂上桂子、今村仁司訳
 
『断片を超えて──フェミニズムと社会主義』

勁草書房  一九八九・一〇刊  B6  一一+二九一+六ページ

近藤 和彦


 原著は Beyond the Fragments (London, 1979). 筆頭著者の Rowbothamは日本では従来からローバトムと表記されることが多いが、むしろローボタム、あるいはロゥボザムと表記したほうが自然であろう。すでに『女の意識・男の世界』(ドメス出版)のような翻訳がある。一九四三年生まれ、六〇年代から常に運動のなかにいた彼女の経歴と問題意識の変遷については、E・P・トムスン(他)『歴史家たち Visions of History 』(名古屋大学出版会)の第七章に詳しい。

  本書におけるローボタムの認識と課題はこうである。
「社会主義者とはかくあるべしという前提が、レーニン主義およびトロツキズムの内部でずっと継続しているが、これはどのようにして私たちの活力と自主的行動を妨害し、社会主義を多くの人々に伝えるのを妨げているのか。女の運動は、ふたたび強力で大衆的な社会主義運動の可能性をひらく確かな道を示していると思われるが、それはどうしてか。」(五五ページ。訳文は評者が最低限の修正をほどこした。)

 このように、戦後イギリスの女性の経験と夢をふまえて、「個人のレベルのデモクラシー」を基礎にした社会主義とフェミニズムの結合を模索し論じた、たいへん重要な本なのだが、しかし、残念無念、翻訳は貧弱である。実質的な全体の監訳者である今村氏は、訳者あとがきで「文章は単純で何の困難さもないが、……左翼用語や表現のために訳者たちは少々苦労した」と記し、「本書は活動家のアジ演説スタイルで訳すのがもっとも適切な訳し方であろうが、訳者たちはその種の経験に通じていないので、本書の訳文は比較的おだやかな訳文になっている……」という。

 問題は、そうではない。原著の平易で勢いのある英語(日常語)を平易で勢いのある日本語(日常語)に替えようという意志があるかないか、の問題であろう。とりわけ本書の前半がひどい。序論から任意に引用すると、「社会主義が戦後労働者階級の大部分の人々にとってきわめて不毛で生命のないものとなってしまった原因の一つは、それが被抑圧者グループあるいは階級の運動を通して到達されうるような理解を受け入れるということが最近までなかった、ということだ」(八ページ)。こういう文が連綿とつづく。

 こうした本質的な問題にくらべれば、本書の訳者たちが、ヘイウッドとはランカシャ州の地名であるとご存じない点も、 History Workshop の運動にも雑誌にも触れる機会がなかった点も、ごく枝葉末節の些事であろう。「二つの新左翼の間のどこかにある割れ目にはまりこんで身動きがとれない」という経験をした真摯な社会主義フェミニストたちの重要な共著を、曖昧で勢いのない訳本にしてしまったことに、評者は憤りに近いものを感じる。                        

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