2005. 11. 13更新

史学会大会 公開シンポジウム〈18世紀の秩序問題〉

20051112日(土)午後1時〜5時 

東京大学文学部 一番大教室 (アーケードより入る

 

趣旨説明 近藤和彦(東京大学・人文社会系研究科)     

第1報告 岩井茂樹(京都大学・人文科学研究所)        

第2報告 渡辺 浩(東京大学・法学政治学研究科)      

第3報告 近藤和彦                                                  

コメンテータ1 羽田 正(東京大学・東洋文化研究所)

コメンテータ2 安村直己(青山学院大学・文学部)     

 

 〈18世紀の秩序問題〉を終わって Q&A

 

趣旨説明:                                                                  近藤 和彦

一七世紀の終わりから一八世紀にかけて、ユーラシア各地では経済社会の繁栄、人口動態の活性化、東西の交流、そして比較的安定した政治を享受することになる。かりにユーラシアの東西両端だけを鳥瞰しても、徳川体制、清朝、ヨーロッパ各国のアンシァン・レジーム、イギリスの議会王制といった個性ある体制がそれぞれの全盛期をむかえたばかりか、これらは商業と啓蒙のネットワークによって結びつけられ、相互を参照していた。

一七世紀にくらべてこのように相対的に繁栄した一八世紀にも、じつは各地で農民一揆、都市騒擾、王朝の交替にともなう反乱といった秩序撹乱がなかったわけではない。戦争、財政、食糧、貧民の流動と怠惰、さまざまの犯罪、そして衛生やモラルもふくめて考えると、以前から存続していた諸問題が一気に吹き出したような様相を呈する。各地の政府はそれぞれの伝統とノウハウにもとづいてこうした課題に対処しようとし、知識人は古典を参照し新しい知識を生かしつつ、現状批判や政策提言をおこなった。聖職者や民間公共社会による改良のプロジェクトもあった。

今回のシンポジウムでは、こうした一八世紀の秩序問題を、統治の正統性、市場経済の正否、あるいは国際秩序のなりたちについての議論、そして共通語という問題もふくめて考察する。一八世紀ユーラシアにおける並行現象と関係をみることによって、ヨーロッパにおける主権国家体制と啓蒙、東アジアにおける朝貢体制と繁栄を相対視したい。

なお、ユーラシアの真中について羽田正氏から、さらに大西洋圏への拡がりについて安村直己氏から、コメントがある。

 

 

第1報告: 東アジアの十八世紀と「通商の時代」              岩井 茂樹

十六世紀中葉から十七世紀中葉までの百年間,東アジアは海域と内陸の長城線上の両方面で動乱を経験した。動乱併発の要因は単純ではないが,中国辺境における商業-軍事集団の成長と,その背景にある商業ブーム,そして日本銀・アメリカ銀の流入などがこれに深く関係していた。また,十四世紀の明朝創建期以来の朝貢一元制が揺らぎ,互市制度が拡大する趨勢もこれに並行した。

清朝の始祖となるヌルハチは辺境における互市の利権を握った「巨酋」の一人であった。やがてそのマンジュ王国は満蒙漢の八旗軍事国家を形成した。内モンゴルは一五七一年の「アルタン封貢」以来,順義王家の統率のもと対中国交易を拡大したが,マンジュ王国は内モンゴルの支配権を握ったことを契機として帝国への脱皮を実現した。明清の王朝交替をへて,十七世紀末まで中国東南沿海で清朝支配に抵抗した鄭氏も,海上の冒険商人を束ねる存在であった。鄭氏の帰順を獲得したことが、海禁の解除と東南沿岸における対外貿易拡大の途を開いたわけである。

十八世紀における清朝の覇権は,こうした時代の帰結として捉えることができる。海域においては「疎」な国際関係を維持しながら,管理された通商を拡大した。この交易管理は,媒介者としての貿易商人を隔膜として利用することで,通商関係にある二つの政体が直接に交渉することによる不要な摩擦を回避するものであった。一七五〇年代のカントン体制の確立はこうした文脈のなかで理解できるだろう。また,日本の長崎貿易の体制にも同じ指向を見いだせるかもしれない。その一方,内陸方面にむけては積極的な戦争と「会盟」関係樹立を軸として,属領たる藩部の拡大を実現した。朝貢システムとの関連でいえば,東南方面では管理された互市の拡大が朝貢を乗りこえ,西北方面では「会盟」という別種の原理による属領支配が朝貢関係に取って代わった。帝国の「東南の弦月」と「西北の弦月」において機能していたのはともに朝貢システムであるとするマンコール氏の見解は再検討されるべきである。

十六世紀中葉以降,通商をめぐる動乱のなかで模索されはじめた秩序形成の動きが,日本の「鎖国」とも連鎖しながら十八世紀東アジアの「通商の時代」を到来させたと見ることができよう。そして,次の時代にそれを揺るがすことになるのが,西方からのもう一つの「通商の時代」であった。

 

 

第2報告: 市場・「啓蒙」・秩序――「日本」の場合           渡辺 浩

「御当代の如く、太平久しく続きたることは、和漢開闢以来、至つて稀なることなり。(中略)御当代の如く、海隅に至るまで、絶えて干戈の声なきことは珍しきことなり。此後何百年か何千年か、昌平無事ならん、計るべからず。」(桃西河『坐臥記』)――十八世紀末の随筆の一節である。ここには、お上への阿諛もあったかもしれない。しかし、当人の実感でもあったようである。確かに、十八世紀の文芸や絵画等を見ても、少なくとも江戸の町には、概ね安定と明るく享楽的な気分とがあったように想像される。しかし、一見安定した秩序にも、それを覆しかねないいくつもの要因が伏在した(ただし、西欧および清朝と同じく、「宗門」「宗旨」と権力との関係の問題は、十六、十七世紀に一応ケリがついていた)。

例えば、()市場の成長である。徳川氏治下の日本列島は、少なくとも十八世紀のある時期、おそらく欧州のどの国よりも大きな都市人口を有していた。当然商業が栄えた。しかし、際限の無い商業発展が、秩序にとって、(そしてそれを内面から支える)道徳にとって、いかなる意味を有するのか。当時の意見は分かれた。相反するという有力説もあった(欧州と同じく、商業の繁栄と「奢侈」について、武人からも、古典に拠る知識人からも、疑念が出された)。しかし、逆に、市場と道徳とを結合させる考え方もあった。いわば「市場道徳」観である。これは、一面で明治期に連続する。

また、例えば、()武士のアイデンティティ・クライシスである。これは、同時代の欧州諸国や清朝と異なり時々の戦争さえ無い状態で、世襲の武人身分とはいったい何なのかという問題である。

そして、また、()政府存立の正統性への問いである。それは基本的には、「現にこれで治まっていることを有難く思え。かつての戦国の世を思いみよ。これを乱していいのか。」と、事実に依拠して答えられていたが、理論的正統化にはなっていない。それでは不足だと思われるようになれば、これも問題化する。これらについて、世界標準と理解された儒学の用語で語り、それによって解決を図ろうとする志向が強まったとき、危機は深まった(清朝・朝鮮国とは違う状況だった)。儒学は、現世を超える者の支え無しに、ただnaturereasonとに依拠して道徳と政治の問題を論じ、解決しようとする「啓蒙」の哲学である。「啓蒙」の哲学が、体制を内面から覆す「危険思想」となったのは、フランス王国だけのことではなかった。

 

 

第3報告: マンチェスタ騒擾とジョージ一世をつないだフランス語文書   近藤 和彦

一七世紀ヨーロッパで存在感のあったのはオランダとフランスであった。一八世紀は百花繚乱ともいうべき情勢だが、しだいにヨーロッパ政治は、フランスとイギリスのライヴァル関係が軸となって展開する。

一六八八・九年、名誉革命の意義は二つある。これは、1.オランダ・ウィリアム三世の「進駐軍」によるプロテスタント革命である。イギリス三国(イングランド・スコットランド・アイルランド)はオランダと同君連合を結び、ルイ一四世のフランスとの対抗関係に入った。2.議会と国教会の決断によって実現した革命であり、この議会王制・信教国家からなる名誉革命体制でもって一八世紀の諸問題にとりくむ。議会王制という原則は今日までつづくが、信教国家のあり方については振幅があった。すでに一六八九年の寛容法によってプロテスタント非国教徒の権利を大幅に認め、フランスから追放されたユグノーをはじめとする大陸の有能な人材を歓迎した。さらに王位継承の定めによって、一七一四年にはステュアート朝が断絶し、ハノーヴァ朝となる。ジョージ一世の即位によりイギリス二国(グレートブリテン・アイルランド)は、フランスに対抗するハノーファと同君連合を結ぶことになった。この王位継承はすでに議会制定法によりくりかえし確認されていたのだが、これに不満をいだく一群のジャコバイト(ジェイムズ派)が、亡命したジェイムズ二世および三世の復辟の夢をみつづけた。

一七一五年五月から全国にひろまるジャコバイト騒擾は、イングランド「最大級の村」マンチェスタでも、ステュアート朝の象徴性と色彩ゆたかな街頭パフォーマンスとしてつづいていた。これを報じるワイヴィルの国務大臣あて書簡で現存するものが、なぜフランス語なのか(返事は英語である)、一連の騒擾をめぐって、現地と国務大臣タウンゼンドと国王=選帝侯ジョージ一世(とその官房)のあいだにどのような交信があったのか、といった問題を本報告では考察する。

啓蒙の世紀のヨーロッパの共通語はフランス語であるが、この世紀はイギリスにとって国民意識形成の時代でもあり、対フランス劣等コンプレックスの時代でもあった。「ドイツ人」ジョージ一世の政権の情報伝達、国民国家とコスモポリタンなヨーロッパ啓蒙、国語と近代史学のバイアスについても関説する。「ジョージ一世は‥‥イギリスの政治事情にも不慣れなうえ、英語も話せなかったため‥‥内閣が国政を指導するようになった」といった紋切り型の叙述がくりかえされているが、これは近代史学のバイアスを再生産するもので、弊害が大きい。

 

 

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ひらかれる喜び 18世紀の秩序問題を終わって Q&A