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トルコ共和国・イズミルにおける調査報告
清水由里子(中央大学大学院・博士後期課程)

 概要

  • 日程:2007年7月20日〜7月29日
  • 用務地:トルコ共和国
  • 用務先:イズミル
  • 用務:トルコ共和国・イズミルにおける資料調査およびインタビュー調査の実施

 報告

調査者は当拠点の研究グループ「ウイグル人ナショナリストの思想と活動に関する総合的研究」の活動の一環として、2007年7月20日から29日にかけてトルコ共和国イズミルを訪れ、資料収集およびインタビュー調査を実施した。以下では調査の概要とその成果について報告する。


20世紀前半期には、新疆におけるウイグル人のナショナリズムの高揚とともに、ウイグル人自身の手によって種々の著作や定期刊行物が出版された。そのうちの重要な著作の一つが、1930〜40年代にかけて活躍したウイグル人ナショナリスト、ムハンマド・エミン・ボグラ(以下、ボグラと省略)の『東トルキスタン史』 Sharqi Turkistan Tarikhi である。

風光明媚なイズミル
調査者と共同研究者である新免康教授(中央大学)とのこれまでの研究により、『東トルキスタン史』には少なくとも1947年、1971年、1987年に出版された三つのヴァージョンが存在すること、またそれぞれの内容にはかなりの相違が見受けられることが明らかになっている。しかし、『東トルキスタン史』の出版の経緯や、各ヴァージョンで相違が存在する理由については、これまでほとんどといっていいほど知られていなかった。『東トルキスタン史』の著者であるボグラは、すでに1965年にトルコ共和国のアンカラで逝去しているが、娘であるファーティマ・ボグラ女史と、その夫ユーヌス・ボグラ氏は、現在も同共和国のイズミルに在住している。そこで今回、調査者はボグラの直接の関係者である両氏を訪ねてイズミル(写真:1)に赴いた。

ここで簡単にファーティマ女史とユーヌス氏について紹介したい。1931年に始まった新疆におけるテュルク系ムスリムの大規模な反乱が1934年に収束した後、ホタンにおける蜂起の指導者であったボグラは中国国外に脱出した。ファーティマ女史は、この時はその母とともにホタンにとどまったものの、中国に戻ってきたボグラと1948年に再会してから後は、ボグラの臨終の時まで付き従うことになった。ユーヌス氏は元々ボグラの近親であったこともあり、息子のいなかったボグラはユーヌス氏を実子のようにみなし、傍においていたという。ユーヌス氏は、1934年以降は基本的にボグラと行動をともにし、秘書役としてその活動を支えてきたことから、ファーティマ女史と同様、ボグラ自身と彼の活動についてもっともよく知る人物であるといえる。1953年にトルコ共和国に移住した後は、両氏は一切の政治的活動に関わることなく、個人的にボグラの著作やその活動について研究や出版活動を行ってきたという。


1971年に出版された『東トルキスタン民族革命史』
ユーヌス氏の証言により明らかになった、『東トルキスタン史』出版の複雑な経緯は以下の通りである。反乱が失敗した後、1934年に国外に脱出したムハンマド・エミン・ボグラは、1937年にカーブルに到着。その翌年から『東トルキスタン史』の執筆を開始する。1940年4月に書き上げられた原稿は、当時カシュミールで活動していた東トルキスタン移民協会に持ち込まれ、ここで出版の準備が開始された。しかし、当時のカシュミールにおけるウイグル人を取り巻く政治的な状況やウイグル人社会内部の対立により、その出版までには7年の歳月を要した。1941年にはカシュミールで『東トルキスタン史』の第一版が出版されたが、それはオリジナル・テキストの後半部分、すなわち1931年に始まるウイグル人の革命に関する一切の記述をカットした極めて不完全な形で出版された。ボグラはこの1941年版の出来に非常に不満であったことから、中国に戻った後、ウルムチのアルタイ出版社から『東トルキスタン史』を再出版することを決意したという。しかし1949年に初稿ゲラがあがったところで、政情の変化により再び国外逃亡を余儀なくされ、出版計画は頓挫してしまった。ボグラの没後、1971年になってようやく、オリジナル・テキストの後半部分が『東トルキスタン民族革命史』 Sharqi Turkistanning Milliy Inqilab Tarikhi (写真:2)というタイトルで出版された。その後、1987年にはボグラのオリジナル・テキストをすべてカヴァーする形で、イスタンブルにて、ファーティマ女史とユーヌス氏によって再度『東トルキスタン史』が出版されることとなった。
  • 1940年:『東トルキスタン史』脱稿
  • 1947年:カシュミールにおいて『東トルキスタン史』(オリジナル・テキスト前半部のみ)出版
  • 1949年:ウルムチにおいて『東トルキスタン史』の再出版計画→ゲラの段階で頓挫
  • 1971年:カシュミールにおいて『東トルキスタン民族革命史』(オリジナル・テキスト後半部のみ)出版
  • 1987年:イスタンブルにおいて『東トルキスタン史』出版
ボグラの自筆原稿

今回、上記のような『東トルキスタン史』の出版の経緯を知ることができただけではなく、ボグラの直筆原稿である『東トルキスタン史』のオリジナル・テキストの存在を確認できたことも大きな成果である。『東トルキスタン史』のオリジナル・テキストは、1940年に出版のためにカシュミールの東トルキスタン移民協会に送られた後、1948年にユーヌス氏の母を介してボグラに返却された。ボグラの没後は、ファーティマ女史とユーヌス氏によって保管されてきたという。テキストは赤い背表紙の緑地のノート(写真:3)に万年筆で記されており、総ページ数は776ページである。残念ながら、テキストの3ページから50ページまでが40年代の混乱によって失われてしまったものの、それ以外はほぼ完全な形で残されている(写真:4)。


『東トルキスタン史』オリジナル・テキスト
『東トルキスタン史』の1947年版と1971年版は、前述のようにボグラのオリジナル・テキストの前半部と後半部しか収録されていない。加えて、オリジナル・テキストから転写する際の誤記と思われる箇所、さらに一部の章節の(恐らくは編集サイドによる意図的な)欠落も散見される。これに対し1987年版は、内容としてはオリジナル・テキストの全てが含まれている。ただし、ユーヌス氏によって語彙の置き換えを中心とした修正や一部内容の加筆がほどこされており、むしろボグラの『東トルキスタン史』の校訂本ともいうべき仕上がりになっている。結局、現在に至るまでボグラのオリジナル・テキストに忠実に沿った形では出版は行われておらず、その意味でも、このオリジナル・テキストはきわめて重要な史料価値を有していると言えるだろう。

調査者は今後、今回の調査で得られたオリジナル・テキストをもとに、『東トルキスタン史』の資料研究を進展させると同時に、トルコ共和国におけるボグラの関係者へのインタビュー調査を継続し、本書が書かれた時代背景および、筆者ボグラの来歴や指向性などについても明らかにしたいと考える。


附記:なお、今回のイズミル訪問にあたっては、中央大学の水谷尚子先生の多大なるご助力を賜った。この場を借りて感謝を申し上げたい。
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