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第33回中央ユーラシア研究会報告
長縄宣博(北海道大学スラブ研究センター)

 概要

  • 日時:2013年10月11日(金)17:00-
  • 会場:(財)東洋文庫 2階講演室
  • 報告者:Ilya Zaytsev氏(北海道大学スラブ研究センター特任外国人教員/ロシア科学アカデミー東洋学研究所)
  • 題目:"Russian" Islam in the Eighteenth Century: Historical Review on the Adoption of Islam by "Ethnic" Russians[英語・通訳なし]
  • 司会:小松久男氏(東京外国語大学特任教授)

 報告

近年のロシアのイスラーム復興の中で、民族的なロシア人のイスラームへの改宗が増えている。この現象は今に始まったことではなく、その歴史はヴォルガ中流域のブルガール王国のイスラーム受容やキエフのウラジーミル公によるキリスト教への改宗があった10世紀にまで遡ることができるという。報告者のイリヤ・ザイツェフ氏は、アストラハン・ハン国やクリミア・ハン国の研究で有名だが、今回はロシアが南方に膨張する中でオスマン帝国やクリミア・ハン国との接触が著しく増大し、史料も豊富な18世紀を中心に据えた。

ロシア人の改宗者は三つに分類できる。第一にイスタンブルやバフチサライに勤務したロシアの外交官、第二に捕虜、第三に脱走兵である。第一の場合については、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約の第6条で、罰から逃れるために「トルコ人」になろうとするロシアの外交官について、わざわざ改宗の手続きが定められているほどだ。他方、1764年に在バフチサライ領事が、強制的にイスラームに改宗させられた自身の農奴を暴力的に取り返した事件では、ペテルブルグの政府のほうが、オスマン帝国では強制的改宗はありえないとして、社会の平穏を乱したこの領事を解任した。

もちろん数としては、捕虜や脱走兵の改宗が最も多い。1739年のベオグラード条約、74年のキュチュク・カイナルジャ条約は、ロシアでキリスト教に改宗した者、オスマン帝国でイスラームに改宗した者は、両国間での捕虜引き渡しの対象外になることを定めていた。とりわけ捕虜は奴隷となったので、自由を得るために自発的にイスラームに改宗した。こうしたロシア人ムスリムは、クリミア・タタール人の中に雑居しつつ20世紀初頭に至るまで別個の集団を成していた。ロシア軍の脱走兵には沿ヴォルガ・タタール人が多かったが、ロシア人も少なくなかった。ロシア国立軍事史文書館のポチョムキン文書には、クリミア半島併合時に捕まった脱走兵の改宗に関する尋問調書が残されている。それによれば、改宗した脱走兵はムスリムとしての家庭を持つ場合が多く、ロシア軍当局の尋問に際しても、キリスト教を棄てたことを悔いず、ロシア臣民に戻る意思も示さないのだった。

議論の中では、ロシア正教会の関与の程度や捕虜交換における国籍と信仰との重なりの意味などが、今後深められるべき課題として確認された。また、現代のロシア人のイスラームへの改宗の具体的な状況が追加的に説明されると同時に、正教徒のタタール人(クリャシェン)がこんにちイスラームに「回帰」しようとしない理由などにも話は及んだ。
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