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パレスチナ/イスラエルに関する基本的な視点について議論するための研究会報告
鈴木隆洋(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程)

 概要

  • 日時:2012年6月10日(日)
  • 会場:東京大学本郷キャンパス・東洋文化研究所 3階大会議室
  • 主催:イスラーム地域研究東京大学拠点/京都大学地域研究統合情報センター地域研究方法論プロジェクト共催

 プログラム

1. 趣旨説明(鶴見太郎)
2. 議論の題目
  1. 「『和平』をどう捉えるか−イスラエル/パレスチナ紛争における言説の錯綜」(論題提供者:錦田愛子・東外大AA研助教、中東現代政治・移民・難民研究)
  2. 「ナショナリズムという用語は普遍的か」(論題提供者:鶴見太郎・明学大・東大非常勤講師、社会学・ロシア東欧系ユダヤ史・シオニズム史)
  3. 「歴史学の語りと近代的自己像はいかに関連するか」(論題提供:武田祥英・千葉大院、歴史学・英国委任統治前史)
  4. 「日本で研究する/日本から研究する:その意義と課題、そして発展」(論題提供者:鈴木啓之・東大院・学振DC、地域研究・パレスチナ抵抗運動史)

 報告

錦田氏は「『和平』をどう捉えるか−イスラエル/パレスチナ紛争における言説の錯綜」というタイトルで報告を行った。最初に対象との関わりから自分が何を行いたいのかという提起が行われた。研究者は純粋中立ではあり得ないが、日本から来た者でありいわゆる「直接の当事者」ではないという立場性を研究上どう用いるかについて論じた。最後に「和平」をめぐって各グループ(立場の異なるパレスチナ人、シオニスト)間にある齟齬についての分析を発表した。それに対し会場からは、「和平」を巡る齟齬は元より在り、今出す意味は何なのか、ここから何をするのかと声が上がった。また各グループ内の分岐点の指摘(例えば階級か、宗教か)もされた。最終的にはグルーピングの必要性とそれが分断の固定化という政治へつながりかねない危うさについて話者質問者双方が同意した。

次に鶴見氏が「ナショナリズムという用語は普遍的か」というタイトルで報告を行った。「パレスチナ人など存在しない」とゴルダ・メイールは発言したが、シオニストの民族観は各民族の居住地は広がりが在ったとしても民族的本拠地が必要だというもので、本拠地内の他民族はマイノリティとして処遇されるべきであるというものだ。氏は反批判の三類型として「パレスチナ人独自民族論」「ユダヤとは民族ではなく宗教」「個人しか存在しない」を挙げた。しかしそれぞれ「「民族対立」論に嵌まる」「キリスト教的宗教概念をユダヤに適応してしまう」「当事者自身がなんらかの集合性を前提としている」という問題が在ると報告した。そしてナショナリズムはそれぞれ固有の文脈とスタイルを持っており、ただ一つの物として理解するのは無理が在り、パレスチナ人の運動は社会運動としてみるべきだと結論づけた。それに対し会場からはナショナリズムは思想だけではなく、運動と組織という面も持っていると指摘された。また分析用語と政治用語の重なりと質的相違、また現場の課題と研究上の課題の異同についても指摘があった。

三番手として武田氏は「歴史学の語りと近代的自己像はいかに関連するか」というタイトルで報告を行った。その内容は、肉体に縛られた存在としての人間精神の限界を知り、集団形成や世論形成における無意識的な精神作用を知り、自らを社会集団内に位置づける事によって得られる安心を歴史学が提供してしまう事への自戒を求め、「安心を提供しない歴史学」を提起するものだった。

それに対し会場からは、歴史とは一人一人がまた主体的に選び取る物でもあるという指摘や、個人・集団に取って忘れた振りやねつ造が必要になるときがあるという指摘、またこの問いを進めるためには武田氏自身が考える「近代自己像」を自己解体する必要があるのではないかとの提起もなされた。これに応えて武田氏からは各人の認知への介入という観点からプロスペクト理論を学ぶことは人間精神を理解する上でやはり意義がある旨を説明した。

最後に鈴木氏が「日本で研究する/日本から研究する:その意義と課題、そして発展」というタイトルで報告を行った。その内容は、「日本人」が研究する以上「地理的/時代的/言語的な制約・拘束」があり、それは例えば言語の翻訳の問題であり、また何らかの現地とつながろうとする試みにおける用語選択(連帯から世界革命戦争まで)の問題である。続けて鈴木氏は制約を転じて強みにする方法として、「外国人」による地域研究を参照する。翻訳や提言、フィールド調査、時刻への還元なき研究は無意味なのかとの問いを提出した後、鈴木氏は生い立ちやトラウマまで含めた個人的関心が研究に入り込む事を自覚した上でそれを文字化する事によって、「制約・拘束」を強みへ転化できるのではないかとして論を締めた。

それに対し会場からは、研究対象を世界の同時代性の中で理解する必要もあるという指摘や、日本の院生・研究者が日本において研究するという事と日本人が研究する事は同義ではない(例えば在日コリアン、アイヌ民族)という指摘や、先進国日本の研究者であるという事が制約ではなくバイアスや知的権力性へ転化する恐れ、また現地の文脈を捉え損ねる恐れ(例えば階級の違い)が指摘された。
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