1月12日 第10回
題材:並木頼寿(総合文化研究科教授)
       「著名の匪を撫す:挙人朱鳳鳴の捻軍招撫論について」

担当:水口拓寿(東アジア思想文化博士課程2年)

論文の概略
 中国清代の咸豊7年(1857)、折から安徽北部等で活動していた捻軍の盟主・張洛行に対し、旧知の挙人・朱鳳鳴が招撫を試みて殺害された。本論文は、朱の側からこの一件の意味を問う。 朱はこれ以前にも招撫に失敗したことがあるが、いずれも全く勝算がなかったわけではない。当時の捻軍は郷紳層と繋がりを持ち、むしろ郷村秩序を守るような動きさえ見せていた。

 朱は咸豊4年(1854)の「上袁給諫撫匪六議書」の中で、「匪」の抹殺ではなく、彼らの一部を郷村秩序に取り戻すことによって、その再編成を図ることを訴え、そうした目的のためにこそ、特に「著名の匪」の招撫に尽力すべきであるとした。この発想は、従来的な「賊を以って賊を攻む」とは似て非なるものである。前年の「用民制賊議」においても、朱は「民」と「賊」(「匪」)との中間に郷村の「豪傑の士」を位置づけ、その独特な在地的勢力を、郷村秩序を構成する重要な主体に数えた上で、彼らの懐柔を発議した。

 結局、彼らは朱ではなく捻軍の側に就いていったが、朱の所論は咸豊7年の招撫に至るまで変わらなかった。そして、朱自身は張の説得に失敗して落命したものの、後に清軍は反乱鎮圧の営みの中で、まさに朱の方法によって秩序を回復していったのである。朱は実のところ、「士風」が衰え民に「教化」が及ばなくなったことに、捻軍勃興の根源因を求めた人物であったが、その招撫活動は、捻軍を含む当地の郷村社会の一面を見通したものであったと言えよう。

自由討論
 担当者が提出した「捻軍の反乱を経て、当地の郷村秩序に重大な変容は認められるか」という問題に発して、反乱以前の秩序は辛亥革命さえ飛び越え、現在にまで繋がるものを持っているとの見解が著者他から示され、また著者は、村落が内部で強い結束を見せたという点では、むしろこの「乱」の期間こそ最たるものではなかったかと付言された。

 また、捻軍の反乱には白蓮教の影響が見られると言われてきたが、彼らの中でそれが内面化されていたか否かという疑問が呈され、ここから発展して、彼らが自衛ネットワークの存続のための戦略として白蓮教等を奉じたものと捉え、これを保険・株式・賭けなどの比喩により説明する試みが盛んに行われた。

 この他、反乱の根源因・宗教性やジェンダー論の有無等に関し、太平天国の反乱その他との比較論が交わされ、「豪傑の士」による秩序維持等の問題について、江戸時代の日本との比較にも論が及んだ。
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