10月7日 大木康「馮夢龍と妓女」

<コメント:佐野誠子(中国文学・M1)>
 妓女を描いた小説、妓女のことを歌った散曲の分析を通して、多方面にわたる文学ジャンルにとっての妓楼という空間の役割を検討している。小説では妓女に人格を認めた傑作が出現しており、他の文学ジャンルでは見られない特徴である。また馮夢龍はなじみ(?)の妓女を詠んだ散曲で、自らの恋情を素直に詠じているが、これは大胆なことであった。馮夢龍のこのような妓女に対する強い思い入れが妓女に人格を付与した小説や散文の根底をなしているのである。また妓楼という空間は欲望を満たすことのできる虚構の空間であるが、中国における妓女を描いた作品は、妓女の真心という点に重点が置かれ、虚構を生かしきっていないとも考えられる。これは中国人の発想における虚構の質という問題とかかわってくる、と結んでいる。
 馮夢龍に妓女への深い思いがあったからこそ、妓女に人格を付与した小説が書かれたのだという論証は説得力がある。ただここで理由を個人の心情に絞ってしまったために、どうしてこのような作品が一般に受容されたのかという部分の考察が弱いように感じる。明末特有の社会風潮などもっと関連付けてよいし、また比較対象として、その他の時代の妓女にまつわる文学や、同時代の女性を描いた文学などを取り上げて議論することにより、馮夢龍の妓女文学の特色が明確になったのではないかと思う。

<自由討議>
 妓女という存在がどう認識されていたか、伝統中国における恋愛感情にもとづいた男女関係のありよう、虚構の世界としての妓楼と文学の関係、陽明学との同時代性の問題などが話し合われた。


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