21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
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公開シンポジウム
死の臨床をささえるもの

日時2006年12月2日(土)14:00〜17:00
場所東京大学医学部鉄門講堂
主催DALS(東京大学21世紀COE
「生命の文化・価値をめぐる死生学の構築」)
応用倫理教育プログラム.
パネリスト大井玄 (終末期医療/東京大学医学部名誉教授)
芹沢俊介 (評論家)
田口ランディ  (作家)
島薗進 *  (宗教学/東京大学文学部教授)
司会竹内整一 *  (倫理学/東京大学文学部教授) 
poster
*事業推進担当者


 12月2日(土)、COE「死生学の構築」と「応用倫理教育プログラム」共催の公開シンポジウム「死の臨床をささえるもの」が医学部鉄門講堂で開催された。
 シンポジウムでは、まず医学部名誉教授で終末期医療が専門の大井玄氏が、「生きること」は同時に「死にゆくこと」であり、コインの表裏のように切り離すことができない過程であるにもかかわらず、昨今の、死を隠して生のみを見ようとする傾向・努力は、一方において自己の実体視、すなわち自分は永久に生きるという幻想をかもし出し、他方において死に対する激しい恐怖を生ぜしめるようになってきたと、自身の長い臨床体験をもとに分析・報告し、各レベルでの「つながり」の「気づき」の必要性を訴えた。
 続いて評論家の芹沢俊介氏は、「臨床」あるいは「現場」という言葉が、往々にして「現場」を知らない者を排除したり発言を封じたりする文脈で使われることを批判し、代わりに「経験」という観点から死を3つに分類した。そして、ともに本来、主観的で対象化不可能な経験である一、二人称の死においての、なお求められる対象化のあり方、またとりわけ、死体という形で量的に処理可能な、対象化・共有化される死としての三人称の死の持つ問題点が、ケアの実経験としてどう働いているか、といった点に言及した。
 次に作家の田口ランディ氏は、二人のパネリストの提題を受けて、自身も積極的に大地や祖先との「つながり」を探そうと考え、また各地において実践してきた体験から、死の臨床の問題と、こうした「つながり」の力、「場」の力といった問題とが切り離せない関係にあることを指摘した。それぞれの「場」における霊性の立ち上がりを実際に経験することに学びながら、今やターミナル・ケアの臨床現場こそが、そうした霊性立ち上がりの場と考えるべきではないかと提言した。
 最後に宗教学の島薗進氏は、過去の欧米や日本における死を特別視しない態度(「飼い慣らされた死」)を紹介してその可能性を論じ、欧米で一般的なDeath StudiesやThanatologyのように死だけを孤立して取りあげるのではなく、Death and Life Studies、つまり死と生の「つながり」を考える学としての「死生学の構築」を目指すべきではないか、と、東大がこれまで取り組んできた「死生学の構築」プロジェクトの拠点リーダーとして総括的にまとめ、あらためて提言した。
 筆者(竹内整一 倫理学)の司会で行われた全体討議では、そもそも「死の臨床」とは何か、どこのことを指すのか、生から切り離された死だけを特化して問うことの意味、また「ささえる」とはそもそもどういうことか、「ささえ・ささえられること」の捉え直しの必要性、「つながり」の重視としかしなお根強く消えない「個」の意識との調整、死を前に生を完成させようとすることと死後へのまなざしをもつこととの関係、等々、その他が議論された。
 およそ4時間にわたって行われた今回のシンポジウムには、会場いっぱいに集まった市民の皆さんからも、積極的なご意見・ご質問が寄せられており、こうした問題に対する市民の皆さんの関心の高さをあらためて確認することになりました。本シンポジウムの模様は、2007年後半期に発刊予定のシリーズ「死生学」(全5巻、東大出版会)の1巻に収録されることになっています。

シンポジウムの様子 シンポジウムの様子 シンポジウムの様子

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