21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
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死生観とケアの現場 第2部 「死の臨床と死生観」

日時2004年 6月26日 (土) 14:00-17:30
場所東京大学医学部大講堂
共催応用倫理教育プログラム
パネリスト柳田邦男(作家)
広井良典(千葉大学)
森岡正博(大阪府立大学)
若林一美(山梨英和大学)
司会竹内整一(東京大学)*
*事業推進担当者
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・資料 (PDFファイル)

2004年6月26日、本郷キャンパス医学部大講堂において、公開シンポジウム「死の臨床と死生観」が開かれた。これは、本プロジェクトと人文社会系研究科「応用倫理教育プログラム」との共催のシンポジウム「死生観とケアの現場」の第2部として開催されたものである。

シンポジウムでは、まず広井氏が、「死ねば無になる」といったような言い方に代表されるような「死生観の空洞化」現象が現代日本には蔓延している、と、それは、神や仏といった存在へのセンスの無化・抽象化とパラレルの事態である、と指摘し、戦後、とりわけ高度成長期以来、日本人が次々と脇にやり忘れていった原神道的、仏教的な死生観の深層を掘り起こすことによって、何らかの意味で「たましいの帰っていく場所」としての死を、それぞれの仕方で見出してゆくことが大切だ、と提言した。

これを受けるかたちで森岡氏は、自分は死後の世界を信じていない、死んだら無になるというのが一番ぴったりくる感覚であるとして、そのような感覚を持つ人々がどのようにしてこの世との離別を果たせばいいのか、またそうした人々にどうケアしうるのか、といった問題を投げかけ、肝心なのは、死後の世界ではなく、死んでもなお続いていくであろうこの世との和解成立の可能性ではないか、と、持論の「無痛文明論」を踏まえて「死後の世界を信じられない者の死生観」を展開した。

また柳田氏は、我が子を亡くしたみずからの体験や多くの闘病記などを踏まえ、一人ひとりが死を前にして自分自身の人生を完成・完結させることが大切だ、そうすることによって死の納得というものが成り立ってくる、現代は一人ひとりが自分の死の物語を創る時代だ、と、またそのためにも、死を何人称から見るのかという、人称性の視点をこまやかに取り込む必要がある、と、「「物語を生きる人間」医学」を提唱した。

そして最後に、子供を亡くした親の会「ちいさい風の会」を主宰してきた若林氏は、「遺族の悲しみ」というテーマで、泣きたいときに泣けない社会のなかでこそ、人は身も心も病んでいくのだと、悲しみを通して見えることが何と多いことか、そうしたことに対して我々は何と無頓着であるか、と訴え、苦しみや悲しみの根源そのものが、その人に生きる力を与えるのだ、と多くの具体的な事例を踏まえ報告した。

以上4氏の提題を受けて、討論では、1.死生観・形而上学・宗教性の捉え方、2.「物語」の位相、3.死生観を踏まえてのケアのあり方、4.悲しみの可能性、の4点に分けて議論された。2時に始まったシンポジウムは4時間におよび、6時前に閉会されたが、定員三百人を大幅に上回りいっぱいになった会場からも、多くの意見・質問・感想が寄せられ、「死の臨床と死生観」というテーマへの関心の高さがうかがわれた。

(事業推進担当者・竹内整一)

シンポジウムの様子 シンポジウムの様子 シンポジウムの様子

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