21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
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第78回五月祭公開講座
『〈死〉のつくり方 』

日時2005年5月28日(土)15:40
場所東京大学法文2号館 1番大教室
講演者 竹内 整一 *
(東京大学)
*事業推進担当者

 2004年6月に行われた『死の臨床と死生観』において、もっとも興味深かった、また今後さらに考えていくべき点を取り上げたい。柳田邦男氏と広井良典氏は、ともに<死の物語>の確立を訴え、森岡正博氏は、死、死後を論ずるに当たっての実感の必要性を、また若林一美氏は、死の悲しみの再評価をそれぞれ提言された。(詳細については、ブックレット『死の臨床と死生観』参照)

 中で、柳田氏・広井氏が、共に論じた「<死の物語>の確立の必要性」だが、その中味は互いに異なっている。広井氏の指摘する、死ねば無になるといったような死生観の空洞化現象に対し、柳田氏が主張した「必要性」とは、死を前にして自分の人生を完成・完結させることの大切さ、死の納得を可能にする、自分の<死の物語>をつくることであったからだ。このふたつはどう関係するのか、ということも問題になってくるが、シンポジウムでは、以上のことを、『平家物語』末尾に近く、総大将・平知盛の「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」という発言とからめて、「知盛の、この『見るべき程の事は見つ』とは何を見たのか」と、柳田氏に質問した。やるべきことはやった、これでよし、といった、こちらの世界での完結を見たという理解と共に、此岸を見切った、として、彼岸、すなわち「あちらの世界」を見て、あちら側への希求を込めたとする解釈も可能であるからである。

 柳田氏が語ったことは、「色即是空」すなわち色ある、形あるものはすべて空しくなる、という言葉について、佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』の物語に接する中で、ひとつの納得が得られた、ということである。

 ―― ある雄猫がいて、その猫は100万回死んで100万回生き返ってきた、ところが最後、ある雌猫を愛して、そしていっぱいの子供をつくって、でもその雌猫に死なれて、泣きに泣いて泣きあかして結局彼も死んでしまう、が、今度は生き返らなかった、と。絵本は最後、アカマンマの揺れる、きれいな野原の場面で終わっている。そしてその最後の場面が、自分にとっての「色即是空」のイメージに重なって捉えられた、と。

 以下、私の勝手な解説をふくめてまとめよう。その雄猫は、こちらでの生をやっぱり完結した、そしてだからもうふたたび、生き返らなかったということなのだろう。その完結のあり方が、そのままどこかしら、次の世界にも繋がっているというようなことがあるのではないか。つまり、アカマンマの揺れるきれいな野原とは、そこがこちら側の完成の場であると同時に、すでにあちら側への一歩がそこで踏み出されているというような場でもあったのではないか、と考えられる。こちら側の完結というのは、もうあちら側への第一歩なのかもしれない。

 『般若心経』では、「色即是空 空即是色」とひっくり返され繋がれて説かれている。これをどう生きた現代の言葉で考えるかが大事なのだが、浄土真宗のお坊さんであった金子大栄は、「花びらは散る、 花は散らない」と、簡単に言い換えている。ものとしての「花びらは散る」、が、生きているということ、生きたということ自体は、どうあっても「散らない」、消えないということであろう。

 こうした理解が以上の議論にどうかみ合うのか、森岡氏の問題にする「どこまで実感として語ることができるのか」が問題になり、さらにそこには、若林さんの出された悲しみという感情のもっている可能性が関わってくる。そして、それらは今後の課題でもある。  以上のような問題が確認できただけでも、シンポジウムの意義があったと思っている。 (5月28日、文1番教室「五月祭」公開講座より採録)

シンポジウムの様子 シンポジウムの様子

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