21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
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サブテーマ1: 死生学の実践哲学的再検討

事業推進担当者

竹内 整一倫理学
熊野 純彦 倫理学
一ノ瀬 正樹哲学
松永 澄夫哲学
関根 清三倫理学
榊原 哲也哲学

人間は生まれ、時とともに老い、やがて病をえて、死んでゆく。古来「四苦」とよばれる、個体としての人間のありようは、およそ人間的な生にあって動かしがたい条件をかたちづくっている。死生学はこの間の消息にふかく根ざした問題群にかかわり、そのかぎりで、古来の、しかも同時に現代的な問題情況とふかいかかわりを有している。

死生学とは人間の生と死をめぐる省察であるから、「生老病死」をめぐる考察は、当然のことながらその基本的な課題をかたちづくるものにほかならない。「四苦」はしかも、この世界の基本的な謎であるから、それをめぐる思考はすぐれて哲学的/倫理学的な思考ともなるはずである。問題を複雑にしているのは、現在、すくなくともこの社会では、その「四苦」が通常はすべて「医療空間」の内部で生起することがらと連動している、ということである。医療空間は、それゆえ、すぐれて現代的な技術の先端と、古来かわらない、生の条件とが出会う場となるわけである。

医療空間がそれを象徴している今日的な生のありようとは、それではどのようなものなのだろうか。当面の文脈でいえば、その指標は、誕生と死亡という人間的生の発端と終局とが、通常の社会的空間の外部へと隔離され、不可視のものへと変容してゆくことにもとめられよう。ひとが生まれて死んでゆくこと自体が、いわば「市民社会」そのものにとって外部化される。――漂白され、管理された生にも、その外部、具体的な外部が、まぎれもなく存在する。ひとが食べるためには、どこかで生命が不断に断ち切られ(牛や豚が屠られ)ていなければならない。ひとはなおも生まれ、ひとはいつか死をむかえる。そのときがいつであるのか、その死がどのようであるのかは、原理的に測りがたい。

現代において哲学的/倫理学的言説をなおも紡ぎだそうとするばあい、その言説はたんに古来の人間的生存の諸条件にかかわるだけでなく、なにほどか、生の風景への科学技術そのものの浸透を措いては成立しがたい。四苦が生の不変の条件であるとすれば、科学技術はすぐれて今日的な生の制約である。医療空間はかくて、人間の生死、科学技術、哲学的/倫理学的思考の三者が交錯しうる現場となるといってよい。死生学への関与は、現代の倫理学的/哲学的思考にとって不可避的なのである。

今日いわれる「応用倫理」は、いまだそうした思考たりえているとはいいがたい。なぜであろうか。ここでは論証に必要な手つづきをはぶいてしまえば、たとえば生命倫理なるものがいまだ十分に哲学的な言説ではないからであるとおもわれる。生命倫理をめぐる議論のかなりの部分は、哲学的には疑問の余地の多い、つまりまさに哲学的に問いかえされるべき伝統的な枠組みを、吟味もくわえず前提しつづけている。緊急の課題をまえに、「哲学的」な議論の時間はない、いまどのように発言するかが問題なのである、という反論は十分にありえよう。ただし、かりにそうであるならば、それは「倫理学」ではありえない。倫理学は、「有用性」いがいの価値を知っているからである。また、「哲学」的言説でもありえない。哲学はやはり、「あたりまえ」とされることがらをこそ問いただすものであるとおもわれるからである。

本研究プロジェクトに参加する第一部会は、おおよそ以上のような問題関心にもとづいて、あらたに構築されるべき死生学にたいして、原理的/哲学的な基盤を与えることを目標とする。それは、アメリカ型のバイオ・エシックスの受容を経て、近年ようやく独自の動向を示しはじめた独仏型の生命倫理学にも学びながら、すぐれてこの国の歴史と現状をふまえた、いわば日本型死生学を模索するこころみの一部ともなるはずである。

(熊野純彦)


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