21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
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「死生学」を構想し、構築する

島薗進(拠点リーダー)

21世紀COEプログラム「生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築」は、現代の知の布置の中でますます重い位置を占めるようになってきている「いのち」や「死」をめぐる諸問題について、ある広がりと深みをもった総合的な学知を構想し構築しようとするものである。

「死生観」という日本語は一定の歴史をもっており、現代日本人の日常生活にある程度、浸透してもいる。もっと長い歴史をもつのは、仏教に由来する「生死(しょうじ)」だが、「生死観」ではなく「死生観」の方が広く用いられている経緯はなお調べてみる必要がある。「死生学」の方はもっと新しい用語だが、これは英語のthanatology に対応する日本語として用いられることが多かった。だが、この21世紀COEプログラム「死生学の構築」は、「死についての学」を指すthanatology より広い範囲をカバーする学の構築を目指している。Death-and-Life Studiesという英語を訳語にあてている所以である。

これまで「死生学」が掲げられる時、医療やケアの現場が出発点となることが多かった。死に行く人の看取りや親しい人を喪った人のケアは広い意味での死生学にとっても重要な課題である。だが、新しい死生学の企てにとって臨床的、現場学的な関心は他の意味でも大きな要素となる。現在、生命倫理学とよばれているものを見直し、基礎を問い直すことも死生学の構想の一部である。功利主義的な傾向が強い、英語圏を中心とする生命倫理学にかわり、「いのち」と「死」をもっと深く問いながら、生命科学や医療技術の急速な発展が引き起こす諸問題に応じていこうとする。したがってこの企ては応用倫理の深化という課題に答えようとするものでもある。

このように現代の切迫した諸問題に応答しようという構えをもつが、死生学はまた、文明や宗教についての奥深い知の継承、発展を目指すものでもある。そもそも「いのち」や「死」をどうとらえ、「いのち」や「死」とどう向き合うか。その姿勢は諸文化、諸文明の基底部を形づくる。宗教・芸術・文学はいつも「いのち」や「死」を問い続け、描き続けてきたとも言える。生命観や霊魂観、また葬送や追悼の様式は、その文化を生きる人々の情緒や感情の、ひいては思考パターンの枠組みを形づくっている。私たちは死者をどのように遇しているのか、死者から贈られてくるものをどのように受けとめようとするのか。未来の人類への責任に思いをめぐらすことは、死者との共同性について省みることとも切り離せないのではなかろうか。

地球上のさまざまな場所で、西洋の文化を背景とした近代的な学知の狭さが嘆かれ、新たな知のあり方が模索される現在、このプログラムが構想する死生学は文明間、文化間の交流や対話の新たなあり方を展望しようとする。また、専門的な学知の間の壁を越え、偏狭な知を越えていこうともする。「いのち」や「からだ」や「こころ」が顔を出す場では、自然科学的な探求方法がものを言うとともに、人文学や社会科学の知もさまざまな応答を志す。理科と文科のギャップは医療やケアの現場で緊急の問題となるだけでなく、現代人の生活のさまざまな領域で難題を課してもいる。死生学は専門化し、特殊領域化する学知の分断を越えることも目指している。

限られた人員で、わずか5年の間に新しい学が「構築」できるなどと楽観しているわけではない。「死生学」の「構想」は大きなものである。だが、学を「構築」する作業は辛抱強く緻密なものでなければならない。これまでのディシプリンの枠を崩そうというのでもない。個々のディシプリンがその伝統に根ざしつつ、「死生学」の方向へ新たな試みに踏み出していく、その力を結集したい。それが確かに堅固な学の形をとるものになるかどうか、必ずしも予測できるわけではない。だが、有望な研究領域群が頭をもたげつつあり、それらを括りながらあるまとまりを展望する語として「死生学」は確かに有効である。人文学の幅広い諸力を結集し、世界的な知的発信の拠点として名乗りを上げるにふさわしい呼称である。



※「21世紀COEプログラム」については以下のサイトをご参照ください。

→日本学術振興会 21世紀COEプログラム

→東京大学21世紀COEプログラム


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