東京大学大学院人文社会系研究科附属北海文化研究常呂実習施設所蔵 史跡モヨロ貝塚 ガラス乾板写真 デジタルアーカイブ

1. 史跡モヨロ貝塚について

(1) 遺跡の概要

史跡モヨロ(最寄)(注1)貝塚は、「オホーツク文化」を代表する遺跡である。オホーツク文化とは、5〜12世紀(北海道では9世紀まで)のアムール河口部・サハリン・北海道のオホーツク海岸・千島列島に拡がっていた海洋民の文化であり、モヨロ貝塚は、北海道東部のオホーツク海に面した網走市の、網走川河口左岸の砂丘上に位置している。

1913年(大正2年)に米村喜男衛によって「発見」されて以来、モヨロ貝塚ではこれまでに幾度となく調査が行われ、300基以上の墓や4軒の竪穴住居跡(注2)、貝塚などが発掘され、集落の全体像が明らかにされてきた。また、遺跡からは200体以上の人骨、大量の土器・石器・骨角器に加えて、多数の本州系や大陸系の金属製品が出土しており、オホーツク文化の人々の系譜や海洋適応、交易の実態などの解明にも大きく寄与してきた。このようにモヨロ貝塚は、オホーツク文化を代表する遺跡として、学史的にも、遺跡の規模や内容においても、随一の存在として位置づけられている。

(2) 調査略史

モヨロ貝塚で実施されてきた発掘調査を時系列で整理すると、以下の四期に大別できる。

  • ①発見から1936年(昭和11年)に国の史跡に指定されるまでの初期の調査。
  • ②1941年(昭和16年)の軍事施設建設に伴う緊急調査。
  • ③1947年(昭和22年)・1948年(昭和23年)・1951年(昭和26年)に実施された「モヨロ調査団」による調査。
  • ④2001年(平成13年)から2011年(平成23年)にかけて実施された史跡整備事業に伴う調査。

このうち最も有名なのが、終戦直後に実施された③の調査である。この調査によってモヨロ貝塚は、戦後の日本考古学の出発点として、静岡県登呂遺跡とともにその名を学史に刻むこととなった。

本サイトにて公開するのは、この③、すなわち「モヨロ調査団」によって行われた三次にわたる発掘調査の内容を記録した写真である。

(3) 「モヨロ調査団」の調査概要

「モヨロ調査団」は、島村孝三郎の斡旋によって、原田淑人、金田一京助、米村喜男衛、児玉作左衞門が集って結成され、発掘調査は駒井和愛、名取武光、伊藤昌一、大場利夫の主導によって実施された。調査には、東京大学文学部考古学研究室、同理学部人類学教室、北海道大学医学部解剖学研究室、同大学農学部附属博物館の関係者のほか、各大学の教員や学生、地元の中学の生徒なども参加している。

調査された遺構を年度別にまとめると以下のようになる。遺構の名称は報告書に倣ったもので、特に時期を明記しないものはオホーツク文化の遺構である。

  • ①1947年(昭和22年):7号竪穴、「貝塚トレンチ」(注3)A区域(人骨1号〜14号[1号・2号はオホーツク文化より新しいもの])。
  • ②1948年(昭和23年):10号竪穴、10号竪穴西壁外の貝塚(人骨28号・29号)、「貝塚トレンチ」B区域(人骨15号〜23号(注4))、同C区域(人骨24号〜27号・30号)。
  • ③1951年(昭和26年):17号(続縄文後半期?)・19号(続縄文前半期)・21号(続縄文初頭〜前半期)・24号(続縄文初頭)の各竪穴、Aトレンチ(第1号墓)、Bトレンチ(第2号墓・第3号墓)。

以上①〜③の調査の詳細は、『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』(駒井和愛編、東京大学文学部、1964年)にて報告されている。

(4) 主要文献

モヨロ貝塚の概要や、「モヨロ調査団」とそれ以前の調査について記した主な文献としては、以下のものが刊行されている(刊行年順)。

  • 『モヨロ貝塚』(児玉作左衞門著、北海道原始文化出版会出版部、1948年)
  • 『モヨロ遺跡と考古学』(名取武光著、講談社支社札幌講談社、1948年)
  • 『モヨロ貝塚資料集』(米村喜男衛著、網走郷土博物館・野村書店、1950年)
  • 『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』(駒井和愛編、東京大学文学部、1964年)
  • 『モヨロ貝塚』(米村喜男衛著、講談社、1969年)
  • 『シリーズ「遺跡を学ぶ」001 北辺の海の民 モヨロ貝塚』(米村衛著、新泉社、2004年)

また、2001年(平成13年)から2011年(平成23年)にかけて実施された史跡整備に伴う調査に関しては、網走市教育委員会から以下の報告書が刊行されている。

  • 『モヨロ貝塚試掘調査概報 –平成13年度−』(2001年)
  • 『モヨロ貝塚試掘調査概報 –平成14年度−』(2003年)
  • 『史跡最寄貝塚』(2009年)
  • 『史跡最寄貝塚整備事業報告書』(2010年)
  • 『史跡最寄貝塚』(2012年)

(5) 常呂実習施設所蔵ガラス乾板の重要性

「モヨロ調査団」の調査は、オホーツク文化の系譜、集落構造、生業、儀礼、交易など、この文化の総体としての姿を初めて明らかにし、研究史の上で画期となる成果をもたらした。また、研究上の成果だけではなく、この調査は、登呂遺跡のそれとしばしば対置されることに暗示されているように、当時の社会や学会に対しても大きなインパクトを与え、考古学を普及、発展させる役割を果たした。

しかしながら、その後、現在に至るまでの研究で用いられたデータをみると、モヨロ貝塚の資料に対する言及は決して多いとは言えないのが現状である。その理由としては、現在の研究水準からすると「モヨロ調査団」の報告は記録内容が不十分で、特に遺構の詳細や遺物との共伴関係などに不明瞭な点が多く、分析対象としては扱いが難しかったことがあげられる。これは、調査当時の状況からするとやむを得ない面もあるが、結果的には、学史的にも資料の内容でも第一級と言える「モヨロ調査団」の資料が、近年の研究の文脈の中ではあまり顧みられないと言う惜しい状況が続いてきたことになる。

この現状において、当時の調査の内容を記録したガラス乾板を精査し、再検討することには極めて重要な意義がある。今回、公開する142点のなかで、『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡 下巻』報告書に掲載されていた写真はわずか34点に過ぎない。残りの108点のなかには、今回初めて画像が公開される墓の写真や、竪穴住居跡や貝塚トレンチの詳細を記録した写真などが多く含まれている。また、公開済みの写真であっても、デジタル化によって細部の検討が可能になることで新たな発見が期待される資料も多い。

本資料の公開により、オホーツク文化の研究が進展することを期待したい。

なお、これらのガラス乾板に関して、常呂実習施設の関係者による調査成果については、施設のwebsiteの該当ページ(モヨロ調査団のガラス乾板に関する研究)にて順次公開する。

(東京大学大学院人文社会系研究科 教授 熊木俊朗 )

  1. 注1 史跡として登録されている正式名称は「最寄貝塚」であるが、本サイトでは、報告書等でも用いられている「モヨロ貝塚」という通称で表記する。
  2. 注2 「4軒の竪穴住居跡」はオホーツク文化の住居跡であり、続縄文文化の竪穴を含めると発掘された竪穴住居跡の数は8軒となる。
  3. 注3 「モヨロ調査団」による1947年・1948年の発掘では、7号竪穴の東方約20mの地点に貝塚調査のための発掘区が設定され、貝塚と墓が発掘されている。本サイトでは、この発掘区を「貝塚トレンチ」と呼称する。
  4. 注4 23号人骨は1948年の出土であるが、出土地点は「貝塚トレンチ」のB区域ではなく、A区域とされている。
  5. ※  本文の内容は、熊木俊朗 2013「最寄貝塚の学史的評価と最近の調査成果」(『北海道考古学会創立50周年記念講演会予稿集 北の遺跡を発掘する −北海道考古学の成果と展望−』)の一部を書き改めたものである。