今福龍太氏 群島世界論』の来歴 —特別講義— 聴講記

2009年7月13日(月)午後4時50分〜6時30分 法文2号館地下 現代文芸論演習室
特別講師:今福龍太、司会・対論者:沼野充義

『群島—世界論』抜粋はこちら

2009年7月13日、東京大学で注目作『群島―世界論』の著者である今福龍太氏の特別講義が行われた。岩波書店の担当編集者である樋口良澄氏も聴講されるなど、収容人数40人の教室のいすがすべて埋まる大盛況だった。今福氏は映像や朗読を交えながら、著書『群島―世界論』が生み出されるまでのことやその抜粋を話され、沼野充義教授が司会を務めた。
 まず初めに奄美群島の映像作品「群島のパサージュ」が上演された。奄美の鬱蒼と茂った樹木や海の映像が音楽といっしょに流され、そのなかには重ね撮りをすることによって、二つの風景が偶然に重なりあうという二重露光写真もあった。7分ほどの短い上映だったが、奄美の鮮やかな映像に圧倒されたかのように、教室は静まり返った。
 今福氏は奄美群島での経験で群島の原理を見出したという。それは「二度と同じ場所に行き着けない」ということだ。いかにすばらしい聖地を見つけたとしても、もう一度それを目指して進むということが奄美では不可能であり、一回一回迷い込んでまた新しく偶然発見するしかない。そのような経験から、先行の研究をたどってその上に次の研究を積み上げていくような直線的な思考とは別の方法で、ある種の世界論を探すことになる。その試みの一つが、世界の文学をあらゆる学問的枠組みを超えて自由に論じた『群島―世界論』だ。
 ここでヴァルター・ベンヤミンを連想した学生も多かったのではないか。「森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、修練を要する」というベンヤミンの言葉はよく知られているが、「森のなかで道に迷う」ということを今福氏は文字通り実践している。学問の世界にはすでに様々な道標(フランス文学、ロマン主義、クレオール等)があるので、迷うためには修練が必要だ。今福氏は実際に奄美で迷うことでその修練を積んだかのようで面白い。
 今福氏は木々、石、海の水、珊瑚など、マテリアルな世界に寄り添って語りたいと述べていた。「ダイアレクト(方言)」→「二人の間を横切って言葉を選びながら語る」というような語源に遡った言い換えや、「クレオール」→「frottement(こすれる音)」といった抽象的表現の物質的なイメージへの置き換え、さらに音として強烈な存在感のある朗読の実践は、その具体例として挙げられるだろう。
 朗読は作家の自作朗読の録音が一部使用されたほかはすべて、様々な声音を使い分け聴衆を魅了したヴォイス・アーティストの大山もも代氏によって行われた。朗読ではあらためてオノマトペの面白さに気づかされた。実際の音をまねて言葉にした時、それはもとの音からはもちろん遠ざかっている。さらに朗読は、読み手の解釈が介在する(それは作家自身によってなされたとしても同じこと)ので、それは二重の意味で聴き手にとって間接的なものである。
 しかしながら、高良勉の詩に出てくる潮騒の音「ゴウナイ」やデイヴィッド・ダビディーンの詩のなかでサトウキビの株を植えつける音「juk! juk! juk! juk! juk!」は、言葉で表現されたことによって、強い喚起力をもつ。今福氏は潮騒の音「ゴウナイ」から「業がない」を連想していた。また大山もも代氏によって熱演された、サトウキビを泥土に突き立てる音をまねている女奴隷の「ジュッ」という声は、燃えるような暑さで熱せられた畑を想像させ、のろいの呪文のように私の中で響いた。あとからもう一度自分で朗読したとしても、この瞬間は再現できないだろう(そもそも目で文字を読まなければならないので、音だけに集中できない)。朗読の後に指示された『群島―世界論』にある「グサッ、グサッ、グサッ、グサッ」という日本語を読んだときとは印象が大分違った(オリジナルで5回繰り返されるオノマトペが4回に減らされているのも興味深い)。
 講義やそのあとの質疑応答は予定時間を越えても終わらなかった。沼野教授が心配していたように、建物の主要な扉が閉められてしまい、教室にいた人々は地下にある教室の外へ通じる小さな扉から狭い階段を、さびた鉄柵のある方へとぞろぞろと上っていった(ちなみに東大は建物と建物が複雑に繋がり合っていて、親切な標識も少なく迷いやすい)。この扉は東大生でも知らない人が多いので、この光景を偶然目にした地上の学生は驚いたのではないだろうか。

(齋藤由美子 現代文芸論大学院博士課程・RA)