宝物 その13   (2013年6月)

広開土王碑の拓本
早乙女 雅博
(【韓国朝鮮文化研究専攻】韓国朝鮮歴史社会専門分野)

広開土王碑の拓本

東京大学で5組を所蔵、うち文学部列品室に2組あり。外国で多く所蔵しているのは北京大学に7組、台湾中央研究院に4組がある。

広開土王碑は、高校の日本史と世界史の教科書に出ているので、知っている方も多いと思う。日本の大和政権、中国の魏晋南北朝期の周辺国家のあたりに出ている。2004年に「高句麗の古代都市と王族・貴族の古墳群」として世界文化遺産に登録された。この碑は、高さ約6.4mの方柱形をした角礫凝灰岩製で、4つの面に縦書きで約1800字が記される(図1)。

表紙
図1 広開土王碑 1996年筆者撮影

高句麗は朝鮮半島の北半部から中国東北地区におよぶ広い範囲を治めた古代国家で、広開土王は第19代の王として391~412年まで在位していた。


Ⅰ面4行に「国崗上広開土境平安好太王」という碑の主人公の名前がみえ、5行に「二九登祚」すなわち18歳で王位に就き、6行に「卅有九宴駕棄国」すなわち39歳で崩御した。『三国史記』高句麗本紀によれば、391年の即位であるから、崩御は412年にあたる。そして、石碑は碑文6行の「甲寅…立碑」から414年に次の王である長寿王により建てられたことがわかる。

この時代を記した歴史書は、日本では8世紀につくられた『日本書紀』、朝鮮では12世紀につくられた『三国史記』や13世紀につくられた『三国遺事』があるが、いずれも後代の史料である。同時代史料としての石碑は歴史史料として1等級の価値がある。また、高句麗の石碑であるが、文章の中に「倭」がしばしば登場するので、日本史のなかであつかわれることも多い。この時期の日本列島を記したもので比較的信頼できるのが、中国側の歴史書である。『魏志』倭人伝は女王卑弥呼が登場する3世紀の日本列島を伝え、『宋書』倭国伝は倭の五王が登場する5世紀を伝えている。その間の4世紀については中国側史料にみえず、碑文の内容はその空白を埋めてくれる。


Ⅰ面の8行から9行にかけて、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」(〔高句麗は〕かつて百済と新羅を属民とし、〔両国は高句麗に〕朝貢して来た。しかし、倭は辛卯年(391年)よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□して、〔百済と新羅を〕臣民とした)という記事がある。

この文章から、①4世紀の後半に倭は朝鮮半島に進出していた、②4世紀後半の倭は大和政権である、③朝鮮半島にまで進出したのだから大和政権はすでに日本列島を統一していたという解釈が出され、長らく定説化していた。高校の教科書にもそのような趣旨で書かれていた。

これに対して1970年代に李進熙氏により拓本の「改竄説」が出された。日本に最初に持ってこられた拓本は、陸軍参謀本部の酒匂景信(さかわかげあき)が現地で入手し1883年に宮内省に提出された。これを酒匂本と呼び、拓本の種類としては双鉤加墨本に属する。碑面に紙を当て、文字の輪郭を写し取ったのちに碑面から紙をはがし、文字の外側を墨で塗りつぶしたもので、文字の輪郭が非常に明瞭ではっきり読むことができる。この輪郭を写し取るときに、日本に都合の良いよう(明治期の日本の朝鮮侵略を合理化するため)に文字を変えてしまったので、それ以後は石碑の文字に石灰を加えて、酒匂本の文字を復元して拓本を採ったという。碑面に紙を当てて墨を打ち付けた拓本はすべて、文字に意図的に石灰を加えたもので、石灰を加えずに採った拓本はないという(注1)。

その後の研究により、この「改竄説」は否定されることとなったが、李進熙氏の提起は、酒匂本のみを頼りに碑文研究をしてきた学界に大きな反省を促した。

同じころ、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」の文は、ここだけを切り離して解釈してはいけなく、碑文全体の文章構造を理解してから、この部分を解釈すべきという提起がなされた。それによると、この部分は広開土王が8回にわたり領土拡張の戦いをしている第1回目にあたる。8回の記事を検討すると、「王躬率」王が自ら出ていく戦いと、「教遣」王が臣下を派遣し出て行かない戦いの2種類に分けることができ、「王躬率」の戦いでは、戦をするための正当な理由、即ち大義名分が必ず述べられている(注2)。

「倭が海を渡って百済を破り□に新羅を□し、臣民とした」のは、戦の大義名分にあたり、必ずしも事実かどうかはわからないのである。李進熙氏は「海」を改竄した文字というが、このような解釈によれば、日本に都合が良いとも言えないのである。すなわち、第1回目の戦いの結末は高句麗勝利であり、海を渡って来るほど強大な倭に勝った高句麗は、さらに強大な国であることを碑文は語っている。


改竄説は否定されたが、1913年に現地で石碑を調査した関野貞(東京帝国大学工科大学助教授・当時)は、拓本製作を商売としていた初鵬度より、10年ほど前から文字の周囲に石灰を塗って拓本を採っていることを聞き取っている(注3)。碑に石灰を塗って拓本を採っている事は確かであり、この拓本を石灰拓本と呼ぶ。1996年に現地を訪問したが、石碑には当時でも石灰が付着しているのが見えた。関野の聞き取りによれば、1900年ころより石灰を塗って拓本をとり、その石灰は現在まで碑に名残を留めている。

それでは、石灰を塗る前の拓本はないのだろうか。水谷悌二郎は、真の碑文を求めて拓本9種を比較検討して、自身が昭和20年に入手した拓本を石灰拓本との墨付の比較から石灰を塗る以前の原石拓本と見た(注4)。文字はかすれていて非常に読み取りにくい。墨付の比較からの判断であるので、まだ確実性に乏しいと言わざるを得ない。その後、武田幸男氏(東京大学名誉教授)(注5)、徐建新氏(中国社会科学院世界歴史研究所)(注6)、筆者らにより拓本の類型的研究が行われ、石灰拓本と原石拓本の区別が可能となった。その研究では石灰拓本を類型に分けて、その類型の年代を求めた。最も古い時期に製作された石灰拓本は、碑面に石灰が良く塗られ拓本の文字は明瞭である。新しい石灰拓本は文字が次第に不明瞭となっていく。一方、原石拓本と呼ばれる拓本もそれが製作された年代が考察され、石灰拓本より古い時期に製作されたことが明かとなった。筆者は、長さ5.4m幅2mの拓本を1枚の紙ではなく、小さな紙を縦横に貼り合わせていることに注目し、この小さな紙を小拓紙と呼んだ。1組の拓本には同じ大きさの小拓紙を使用していること、異なる拓本では異なる大きさの小拓紙を使用していることから、小拓紙の大きさをもとに類型化した。石灰拓本は74㎝型、67㎝型、53㎝型、107㎝型に類型化でき、原石拓本といわれている水谷拓本は47㎝型で、石灰拓本のどれにも属さないことを明らかにした(注7)。


前書きが長くなってしまったが、ここから本論に入ろう。

碑文研究に用いる拓本は、石灰を塗る前に採られた原石拓本に依るべきである。では、どのようにして原石拓本と認定できるのか。それには、上記したように石灰拓本の研究が欠かせない。東京大学に所蔵されている拓本はすべて石灰拓本であるが、異なる類型を含んでいる。しかも、入手した年代も分かる拓本がある。これから5組の拓本を見ていこう。


東大文学部A本は、軸装されて他の博物館の展覧会にも出品されている。文字がはっきりして墨も黒いので、古そうにみえるが時期はわからない。74㎝型に属する(図2,3,4,5)。文学部には2組の拓本があり、こちらをA本と呼ぶが甲本と記す論文もある。呼び方は研究者により異なるが、順序さえ間違っていなければ問題ないだろう。

東大文学部B本は、裏打ちもされず折り畳まれており、存在を確認したのみで、まだ記録をとっていない。

表紙 図2 東大文学部A本Ⅰ面
表紙 図3 東大文学部A本Ⅱ面
表紙 図4 東大文学部A本Ⅲ面
表紙 図5 東大文学部A本Ⅳ面
筆者撮影 (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部所蔵)

東大建築A本は、関野貞が1913年に現地で入手して、1914年3月に東京大学の台帳に登録されている。確実に年代のわかる拓本である。仮表装されて裏面は見えず、小拓紙は63㎝であるが67㎝型の中に含めてよい(図6)。関野貞本とも呼ばれる。

東大建築B本は、裏打ちもされず折り畳まれていて、裏面には付着している石灰が見える。まさに石灰拓本である。ソウル大学校奎章閣B本によく類似しており、奎章閣B本は武田幸男氏の研究によれば旧朝鮮総督府の所蔵で、1913年に入手したと考えられている(注8)。したがって、建築B本もそのころの拓本とみてよい。67㎝型に属する(図7)。表装されたり掛軸に仕立てられると裏面が見えないので、貴重な存在である。2010年に新たに発見された拓本で、これからも東京大学内のどこかで見つかるかもしれない。

東大東洋文化研究所本も裏打ちもされず折り畳まれている。これまでに挙げた3組の拓本に比べ文字が読みにくく、文字間の縦の罫線も石灰がはがれて白く出ている(図8)。このような特徴をもつものに九州大学が所蔵する梶本益一本があり、それは1927年~31年ころに入手したことがわかっており(注9)、東洋文化研究所本もそのころの製作であろう。107㎝型に属し、梶本益一本は52㎝型に属する。同じ時期に2類型の小拓紙があり、これは製作時期が細分できるのか、製作者の違いによるものか、今後の課題である。年代のわかる拓本を見ると、大きな流れとして次第に石灰が剥がれて文字が読みにくくなり、字間の罫線が見えてくる傾向がある。

表紙
   図6 東大建築A本Ⅰ面
筆者撮影・編集(東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵)
表紙
   図7 東大建築B本Ⅰ面
筆者撮影・編集(東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵)
表紙
 図8 東大東洋文化研究所本Ⅰ面
鈴木昭夫撮影、筆者編集(東京大学東洋文化研究所所蔵)

原石拓本は文字が読みにくく字間の罫線も見えるので、その特徴は石灰がはがれた拓本と似ている。しかし、東大東洋文化研究所本より新しい時期に製作されたといわれる拓本の調査はまだしていないが、これまで見てきた石灰拓本の小拓紙とは異なる類型に属し、文字も不鮮明なので、石灰を塗る以前の拓本と考えてよい。残念ながら東京大学では原石拓本を所蔵していないが、石灰拓本の研究から原石拓本の存在が明らかとなった。文字の解読には原石拓本をもとに行うべきであるが、碑は、角礫凝灰岩で表面は荒れていて拓本の文字は読みとりにくい。それを補うために、石灰拓本のなかで石灰を塗ったところが少ない文字や石灰がはがれた文字を見つけ出して、原石拓本で読めない文字を読み取ることも重要である。

石灰を塗ったので原状を反映していなからといって、石灰拓本を研究から除外するのではなく、使いようによっては十分立派な役割を果たしてくれる。研究者の眼を試しているように思えてならない、


注1 李進熙『好太王碑の謎』講談社文庫、1985 
注2 前沢和之「広開土王陵碑文をめぐる二、三の問題-辛卯年部分を中心として-」『続日本紀研究』第159号、1972
注3 関野貞「満州輯安県及び平壌附近に於ける高勾麗時代の遺蹟(二)」『考古学雑誌』第5巻第4号、1914
注4 水谷悌二郎『好太王碑考』開明書院、1972
注5 武田幸男『広開土王碑原石拓本集成』東京大学出版会、1988
注6 徐建新『好太王碑拓本の研究』東京堂出版、2006
注7 早乙女雅博「製作技法からみたお茶の水女子大学拓本の年代」シンポジウム『発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本』、2012.7.7
注8 武田幸男『広開土王碑墨本の研究』吉川弘文館、2009
注9 長正統「九州大学所蔵好太王碑拓本の外的研究」『朝鮮学報』第99・100輯合併号、1981
c東京大学文学部・大学院人文社会系研究科