ひらけ!ゴマ!!

宝物 その3   (2010年11月)

スカリゲルの肖像を模した自画像
学者・詩人



片山 英男

   ( 【言語文化学科】西洋古典学専修課程 ;
 【欧米系文化研究専攻】西洋古典学専門分野 )

《スカリゲルの肖像を模した自画像》

紹介する書物

《マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第1巻-第5巻)》
マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第2巻) マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第1巻)
 「元町・中華街」という名前の駅がある。似たような名前で我々に馴染み深いのは「駒場東大前」駅だが、こちらは元々の「駒場」駅と「東大前」駅が統合されて出来た駅名なので、「・(なかぐろ)」は入っていない。対して、横浜元町商店街と横浜中華街は統合されたわけではなく、駅名を専有しようと争ったため、このような妥協の産物の駅名となったのである。

 そこで標題について言えば、「・(なかぐろ)」なしの「学者詩人」という名称は≪scholar poet≫の訳語として定着しているだろう。近代ヨーロッパでは古典文学の教養は詩人にとってほぼ不可欠だったので、「学者」の部分を拡張解釈すれば、少数の例外を除き、ごく近年まであらゆる詩人が学者詩人だったと言っても過言ではない。「学者詩人」はラテン語で表現すれば≪poeta doctus≫となり、これは直訳すれば(直訳は常のごとく誤訳だが)「学識ある詩人」となる。


 A.E.ハウスマン(Alfred Edward Housman 1859.3.26 ? 1936.10.30)は19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスだけでなく欧米を代表する古典文献学者だった。1881年オクスフォード大学の卒業試験に失敗した後、官吏を務めながら古典研究の学術誌に投稿を繰り返し、何の教歴も学位も無いままに、1892年一躍ロンドン大学ラテン文学教授に就任した。そして後に1911年にはケンブリジ大学ラテン文学教授に昇りつめる。
                                      
マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第3巻) マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第4巻)
 ハウスマンの学者としての専攻分野は、ラテン文学の本文校訂である。中でも四半世紀にわたり心血を注いだのが、ローマの詩人マーニーリウスの『天体譜』全5巻の校訂版だった。古代では天文学と占星術は概念上は区別されていなかったため、この作品は第1巻は天文学、第2-5巻は占星術を叙事詩の韻律にのせて語る、難解で誤記の多い作品として知られている。その第1巻(1903年)はハウスマン自身の経済的負担のもと半ば自費出版のかたちで400部刊行された。続く各巻も同様の出版形態ですべて400部印刷されている。後にハウスマン自ら記しているように、この「退屈な著者と嫌味な校訂者という組み合わせ」の校訂版第1巻は1926年になって漸く完売したが、これまた自ら記しているように、四半世紀近くかかったもののともかく完売したのには、本文に先立つ「序論」に盛られた、先行研究に対する辛辣な評言が大いに貢献している。今なお続く校訂版編集の慣行に反して、英語で綴られた「序論」の辛辣さが評判を呼んだせいで、「本文の読めない者も、隠微な楽しみを求め、悪口の見本を集めるために」(第5巻序文)購入したのだという。いくつか例を挙げれば、次のような評言である。

《第1巻、本文第1頁》
第1巻、本文第1頁

マーニーリウス校訂版の原本(筆者所蔵)の簡素な装丁(第5巻)

       この種の研究書を参照することは、
      研究を中断することに等しい。

       彼には文法に対するセンスも、脈絡に対するセンスも、
      意味に対するセンス (sense for sense) も欠けていた。

       凡庸な学者は、本文校訂に手を染める時には、
      保守的な校訂者となる。彼の判断は理性ではなく、
      感情によって支配されるが、人間の感情のなかで
      最も弱いものが真理への愛情である。

       このような学者でも修訂できるような書き誤りしか
      筆写者が犯さなかったならば、本文校訂の世界は
      楽園となっていたことだろう。


 マーニーリウスのような文学作品としては「退屈な」題材をライフワークとして選ぶにあたり、ハウスマンは、別の機会で述べているように、「学問上の記念碑を後に遺そうとする者は、それ自体では知るに値しない知識も得なければならず、それ自体では読むに値しない書籍も読まなければならない」との覚悟を決め、ひたすら仕事に没頭したと思われる。


 これに先立って、しかし同じくロンドン大学教授就任後に、ハウスマンが発表した詩集『シュロップシャーの若者』(1896年)も、やはり作者の経済的負担が加わっていた。もっとも、こちらのほうは初刷500部が2年後にはさらに500部増刷されている。ロンドン大学の同僚や学生に違和感と驚きをもって迎えられたこの詩集は、ハウスマン当人の故郷ウスターシャーを思わせる自然の中に、青春な蹉跌と失望を唄っていたが、発表当初の反応は控えめなものだった。しかし、第一次世界大戦が勃発すると、その一部が新聞に追悼詩として転載されたためもあり、爆発的に売れ出すことになった。逆に大戦終了後は前衛的な詩人たちからの批判にさらされることになるが、哀感に満ちたその平明な表現と素朴な韻律により、「現代詩」のなかで、クラシックとポピュラー(主にフォーク系)とを問わず、特に多数の作曲者に歌詞を提供した詩集となっている。典型的な作品を取り上げよう。


《最初の挿絵入り版『シュロップシャーの若者』(1908年)の扉。マーニーリウス校訂版と同じ出版社から刊行されており、一次大戦前から既に学術書出版の「持ち出し」を補填していたことが判る》
最初の挿絵入り版『シュロップシャーの若者』(1908年)の扉

     心は悲しみで重い、
        輝いていた友たちを偲んで、
     大勢の薔薇の唇もつ乙女を、
        大勢の軽やかな足の若者を。

     跳び越せなかった広い流れの畔に、
        軽やかな足の男たちは横たえられ、
     薔薇の唇もつ女たちは、
        薔薇の消えた草原で眠っている。

                (『シュロップシャーの若者』54)

《同書、引用詩篇掲載頁》
同書、引用詩篇掲載頁
 詩集の評判をうけ、ハウスマンは晩年には「桂冠詩人」に擬されたが固辞している。そして、やはり晩年に「詩という名称とその本質」と題する講演(1933年)を行ったことはあるものの、これは英詩愛好家としての発言であり、大学の講義ではロンドン大学でもケンブリッジ大学でも、ラテン文学作品の魅力を説くのではなく、禁欲的に無味乾燥な本文校訂の議論に終始していた。最期の近いことを悟った時、一度だけホラーティウスの『歌章』4巻7歌を授業の中で朗唱し、「古典文学のなかで最も美しい詩作品」との感慨をもらしたという伝説が残されている。ホラーティウスのこの詩も、ハウスマン自身の作品に通じるような、自然のなかの時の移ろいと人生な儚さを流麗に描くものだった。



  参考:  A. S. F. Gow, A. E. Housman: A Sketch (Cambridge, 1936)
                   [英語英米文学研究室所蔵]
      P. G. Naiditch, A. E. Housman at University College, London:
       The Election of 1892 (Leiden, 1988)
       A. E. Housman, The Collected Poems (London, 1939)
                   [英語英米文学研究室所蔵]
      A. E. Housman, The Complete 'Shropshire Lad' in poem and song settings.
       A. Bates(reader); A. Rolfe Johnson (T); G. Johnson (Pf.). Audio-CD
       (Hyperion Records, London 1995, reissue 2001)

書き手からのコメント

 学者詩人(なかぐろ無し)ポリツィアーノを別にすると、スカリゲル、ベントリー、ハウスマンというマニーリウスの校訂に関わった文献学者にこだわってきた。文献学専門分野を離れた今でも、この思いは変わらない。

次回の登場人物
月村 辰雄   ( 【言語文化学科】フランス語フランス文学専修課程 ; 【欧米系文化研究専攻】フランス語フランス文学専門分野  ;
 【文化資源学研究専攻】文献学専門分野 )

 同じ文献学ではあるが、より着実な技術と、より豊富な知識をもち、オーディオ愛好家としても鋭敏な感覚を備えた、月村辰雄さんにリレーしたい。興味深い話題が期待できる。

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